元オールスター投手で、ドジャースの1959年ワールドシリーズ(WS)制覇に貢献したスタン・ウィリアムズ氏が20日、ネバダ州の自宅で84歳で亡くなったことが分かった。 ドジャースが21日に明かしたところによると、ウィリアムズ氏は2月11日に心肺疾患により入院し、それ以降は緩和ケアを受けていた。 内角攻めで打者を震え上がらせたことから「ビッグハート(Big Hurt)」と称されたウィリアムズ氏は、ドジャース、ヤンキース、インディアンス、ツインズ、カージナルス、レッドソックスでプレーし、メジャー14年間で通算109勝94敗、防御率3・48を記録。ドジャース時代にオールスターに2回選出され、59年には世界一に輝いた。 引退後は投手コーチ、スカウト、アドバイザーとして、複数球団に所属し、レッズで投手コーチを務めていた1990年にもWS優勝を果たしている。(AP)
ハンク・アーロンさん死去 86歳、大リーグで755本塁打 2021年01月23日08時13分 ハンク・アーロン 元米大リーガー(AFP時事) 【ロサンゼルス時事】米大リーグで歴代2位の通算755本塁打を記録したハンク・アーロン(本名ヘンリー・ルイス・アーロン)さんが22日、死去した。86歳だった。現役時代に所属したブレーブスが発表した。球団によると、遺族は死因などの詳細を公表していない。 差別乗り越えた職人 静かに打ち立てた大記録―故アーロンさん 米アラバマ州モービル出身。黒人だけがプレーするリーグを経て1952年に大リーグのボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)と契約し、54年にミルウォーキー・ブレーブス(同)でデビュー。右の強打者として頭角を現すと、人種差別を乗り越え、74年に通算715号を放ってベーブ・ルースの最多記録(当時)を更新した。76年の引退までに755本塁打。20
【ロサンゼルス=共同】ドジャースなどで通算324勝をマークした右腕ドン・サットンさんが19日に死去したと、ドジャースが同日発表した。75歳だった。 1966年にドジャースでデビューし、名投手コーファックスらが担った先発陣の一角として1年目から12勝を挙げた。21度の2桁勝利は史上最多で、98年に米国野球殿堂入りした。米国野球殿堂のホームページによると、元監督の故トミー・ラソーダさんは「ボールを渡したら全力を出してくれる」と全幅の信頼を置いた。 23年間の通算成績は774試合で324勝256敗5セーブ、防御率3・26、3574奪三振。43歳での引退後は主にブレーブス戦の放送に携わり、謙虚な姿勢でファンに愛された。2002年に腎臓がんと診断され、左の腎臓を摘出した。
ドジャースは8日(日本時間9日)、元監督で特別アドバイザーのトミー・ラソーダ氏が7日(同8日)夜、自宅で心肺が停止し、病院へ搬送された後に死去したことを発表した。93歳だった。 ラソーダ氏は1976年からドジャースの監督を務め、退任する1996年途中までの間に地区優勝8回、ワールドシリーズを2回制覇。「私の体にはドジャーブルーの血が流れている」との名文句を残すなど、メジャーきっての名物監督として知られた。 1997年、米国野球殿堂入り。 95年に野茂英雄がドジャース入りした際の監督でもあり、親日家として日本のファンにも広く知られた。その後、近鉄(現オリックス)のスペシャルアドバイザーを務めたほか、日本のCMにも出演。08年には、長年にわたる日米の野球交流への功績が認められ、旭日小綬章が送られた。 突然の訃報に、ロブ・マンフレッド・コミッショナーがコメントを発表したほか、愛弟子でもある元千葉
メジャー伝説のナックルボーラーのフィル・ニークロ氏が26日(日本時間27日)に死去した。所属したブレーブスが「とても大切な友人が亡くなり、胸が張り裂けそうです」と発表した。81歳だった。長年、ガンと闘っていたという。 ナックルボールを中心とする投球から「ナックジー」のあだ名で親しまれたニークロ氏は、1959年にブレーブスと契約してプロ入り。64年にデビューし、67年から83年まで先発ローテーションの一角として活躍。84年にヤンキースに移籍すると2年連続で16勝をマーク。その後、インディアンス、ブルージェイズを経て最後はブレーブスの一員として1987年に48歳で引退した。 24年間でオールスター戦には5度選出され、ゴールドグラブ賞も5度獲得。投球回数5404 1/3回はメジャー歴代4位、3342奪三振は歴代11位、318勝(274敗)は歴代16位。40歳以降での121勝は歴代トップだ。通算2
元フィリーズのディック・アレン氏が死去 78歳 通算351本塁打の強打者
ロバート・ギブソン(Robert Gibson, 1935年11月9日 - 2020年10月2日)は、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハ出身の元プロ野球選手(投手)、右投右打。 ニックネームは「Hoot」、「Gibby」。 経歴[編集] 1962年 7人兄弟の末っ子として生まれる。幼い頃は体が弱く、くる病、気管支喘息、肺炎、心雑音などを患っており、成人するまで持つかと言われていた[1]。10代になって急激に身長が伸び、クレイトン大学時代は野球とバスケットボールで奨学金を得て活躍した。 1957年にセントルイス・カージナルスと契約。1959年4月15日の対ロサンゼルス・ドジャース戦でメジャーデビュー。しかし結果を残せずマイナー降格。7月に再昇格し、30日の対シンシナティ・レッズ戦でメジャー初勝利を完封で飾った。同年は3勝5敗、1960年は3勝6敗に終わる。1961年はメジャーに定着し、13勝1
Mets icon Seaver dies at 75(メッツの象徴、シーバーが75歳で死去)──。 メジャーリーグで通算311勝を挙げ、1992年に当時としては史上最高の得票率で米野球殿堂入りを果たしたトム・シーバーの訃報を伝えるMLB公式サイトのヘッドラインを目の当たりにして、今から42年前のことを思い出していた。 1978年の第1回「アメリカ大リーグ実況中継」 1978年4月9日、日曜日。毎週、通っていたスイミングスクールから帰宅した筆者は、昼食もそこそこにしてテレビの前に陣取った。まもなく午後1時。ずっと楽しみにしていた“新番組”が始まる時間だ。 「アメリカ大リーグ実況中継 シンシナチ・レッズ―ヒューストン・アストロズ [解]伊東一雄 岩佐アナ~シンシナチ球場から中継録画~」 当日の新聞のラテ欄にはこうある。この年、フジテレビが日曜は午後1時から「アメリカ大リーグ実況中継」、月曜は
MLB公式サイトが「最も美しいスイングの選手」を全30球団から1人ずつ選出した。 同サイトは「美的観点から見た素晴らしいスイングというものの科学的な定義はないが、そのようなスイングを目の当たりにすれば分かるもの」とし、MLBの番記者らが選んだ30選手を発表した。 【写真】エバン・ロンゴリア <ア・リーグ> ブルージェイズ:ジョン・オルルド オリオールズ:ラファエル・パルメイロ レイズ:エバン・ロンゴリア レッドソックス:テッド・ウィリアムズ ヤンキース:ドン・マッティングリー インディアンス:マニー・ラミレス ロイヤルズ:ジョージ・ブレット タイガース:アル・ケーライン ツインズ:ジョー・マウアー ホワイトソックス:ロビン・ベンチュラ エンゼルス:マイク・トラウト アストロズ:テリー・プール アスレチックス:マット・オルソン マリナーズ:ケン・グリフィーJr レンジャーズ:ジェフ・バロウズ
タイガース一筋22年、ケーライン氏が死去 バーランダーも追悼「大事な存在だった」 MLB総合 2020.04.07 Twitter Facebook LINEにおくる Bookmark 1980年に野球殿堂入り、メジャー史上4人しかいない“3000安打&10度のGG賞”を達成したケーライン氏 タイガース一筋22年、1980年に野球殿堂入りを果たしたアル・ケーライン氏が逝去した。85歳だった。3000安打&GG賞10度を達成したのは、ケーライン氏やイチロー氏を含めメジャー史上4人のみであり、この名プレーヤーの訃報をMLB公式サイトも伝えている。 「殿堂入り選手であり、最愛の“ミスター・タイガー”ことアル・ケーラインが85歳で亡くなる」 MLB公式サイトはケーライン氏の訃報を伝え、現役時代に残した功績を紹介。あと1本塁打を放っていればMLB史上10人目となる400本塁打&3000安打達成者とな
アーネスト・バンクス(Ernest Banks, 1931年1月31日 - 2015年1月23日)は、シカゴ・カブスに所属していた元プロ野球選手(遊撃手、一塁手)。1977年にアメリカ野球殿堂入り。Mr. Cub (ミスター・カブ)といわれ、カブスの看板プレーヤーであった。バンクスがつけていた背番号「14」は、シカゴ・カブスの永久欠番である。甥は1981年 - 1983年の3年間、レンジャーズでプレーした捕手、ボブ・ジョンソン。 経歴[編集] プロ入り前[編集] 1931年1月31日にテキサス州ダラスで生まれ、少年時代はニグロリーグのダラス・グリーンモナークスやブラック・ジャイアンツで投手や捕手の経験がある父とキャッチボールをして育った[1]。 高校時代のバンクスは学校に野球部がなかったため[2]、当初バスケットボールや陸上競技に興味を示し、さらに学校に通う傍ら、綿摘み農場でアルバイトをし
アンソニー・キース・グウィン(Anthony Keith Gwynn, 1960年5月9日 - 2014年6月16日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身のプロ野球選手(外野手)。 「Mr. Padre(ミスター・パドル)」、「Captain Video(キャプテン・ビデオ)」と呼ばれた。 弟のクリス・グウィン(英語版)も元メジャーリーガーで1996年にはサンディエゴ・パドレスで一緒にプレーした。息子のトニー・グウィン・ジュニアもメジャーリーガーとなった[1]。 経歴[編集] プロ入り前[編集] カリフォルニア州ロサンゼルスにて生まれ育つ。サンディエゴ州立大学時代には野球よりもバスケットボールでスター選手として名を馳せた。 現役時代[編集] 1981年のNBAドラフトでNBAのロサンゼルス・クリッパーズから10巡目指名を受けたが、同日に行われた1981年のMLBドラフト3巡目
フランク・ジョーブ(Frank Jobe , 1925年7月16日 - 2014年3月6日)は、アメリカの整形外科医。 人物[編集] ノースカロライナ州出身。1964年からMLB・ロサンゼルス・ドジャースの医療コンサルタントを務めていた。 1974年、利き手の左腕靭帯を損傷していたトミー・ジョンに対して腱を自家移植する世界初と言える試みの手術を実施[1]。ジョンの手術以降、同様に肩や肘を故障していた数多くのプロ野球選手に対して同様の手術を行い、多くの選手が故障から復活した。アメリカ合衆国を始めとして、この手術をトミー・ジョン手術と呼んでいる。 NPBのプロ野球選手では、村田兆治、荒木大輔、桑田真澄、近藤真一、松坂大輔、ダルビッシュ有、大谷翔平、藤川球児、和田毅、五十嵐亮太らが同様の手術を受けた。また手術は受けなかったが、1989年に右肩を痛めた立浪和義も診察を受けた。またトミー・ジョン手術
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