ブックマーク / nagaichi.hatenablog.com (36)

  • 李信は燕の太子丹を討ち取ったのか - 枕流亭ブログ

    ここでは久しぶりに書く気がしますが、別に中国趣味を忘れてしまったわけではなく、ツィッターあたりでちょくちょく書いていました。ただツィッターでは長文がつらいので、今回はこちらで書きます。 以下は首級がどうとかいう話をしているので、そこが苦手な方は回れ右してください。お題のとおりの話ですが、いちおう歴史話のつもりでして、原泰久『キングダム』の展開とは一切関係ありませんので、お間違いなきようお願いします。現在のところ李信についての唯一の根史料は司馬遷『史記』でして、そこからしか語り出せないと思います。 『史記』王翦列伝 「秦將李信者,年少壯勇,嘗以兵數千逐燕太子丹至於衍水中,卒破得丹,始皇以為賢勇。」 (秦の将軍の李信は、年若く血気盛んで勇ましく、かつて兵数千をもって燕の太子丹を衍水の中まで追い、ついに丹を破って捕らえたので、始皇はかれを賢く勇敢であるとみなしていた。) 「得丹」というのが生擒

    李信は燕の太子丹を討ち取ったのか - 枕流亭ブログ
    sampaguita
    sampaguita 2018/05/07
    "現在のところ李信についての唯一の根史料は司馬遷『史記』でして、そこからしか語り出せないと思います"
  • 秦の大将軍について - 枕流亭ブログ

    キングダムで信・王賁・蒙恬は大将軍になれますか?(Yahoo!知恵袋) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11162587416 無粋な歴史の話をすると、そもそも秦に大将軍の官がなかったんじゃないかという深刻な疑いがありましてな。 『通典』は大将軍の官が戦国時代の楚に置かれたことを指摘しています。 「大將軍、自戰國時楚置」(『通典』巻19職官1) 「自戰國置大將軍,周末又置前後左右將軍,至秦,將軍之官多矣。漢興,置大將軍、驃騎將軍,位次丞相。車騎將軍、衛將軍、左右前後將軍,皆金印紫綬,位次上卿」(『通典』巻28職官10) 時代的には秦に大将軍があっても良さそうなんですが。 しかし秦代についての根史料というべき『史記』には、秦の「将軍」の例が複数あるものの、秦の「大将軍」の例をひとつも見出せないんですよね。 「秦

    秦の大将軍について - 枕流亭ブログ
    sampaguita
    sampaguita 2016/08/08
    "『史記』には、秦の「将軍」の例が複数あるものの、秦の「大将軍」の例をひとつも見出せない"
  • 唐の最盛期より後漢の領域が広いとみなされている?件 - 枕流亭ブログ

    史上最も領土が大きかった帝国トップ20(哲学ニュースnwk) http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5047264.html このときも思ったのですが、唐の最盛期より後漢が広いってことはないはずなんですね。 帝国の最大領域一覧(Wikipedia語版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%A4%A7%E9%A0%98%E5%9F%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7 なんとWikipedia記事でも、唐の最盛期より後漢が広いことにされているようです。 東突厥・高昌・高句麗・百済を滅ぼし、西突厥を降した唐の最盛期より、朝鮮半島北部とヴェトナム北部を除けばほぼメインランド・チャイナの領域にとどまる後漢の領域が広い??ですと。ありえないですね

    唐の最盛期より後漢の領域が広いとみなされている?件 - 枕流亭ブログ
    sampaguita
    sampaguita 2016/08/08
    "唐の最盛期より後漢が広いってことはないはず"
  • 「邑姜」の墓出土か - 枕流亭ブログ

    陝西省宝鶏市の石鼓山墓地4号墓の被葬者が、太公望の娘で、周の武王の后である「邑姜」ではないかという説が出ています。 http://ex.cssn.cn/wh/wh_kgls/201607/t20160714_3121143.shtml 4号墓の副葬品から被葬者は女性らしいこと。4号墓と相似し、密接な関係のある3号墓出土の青銅器の族徽から、西羌の首長の有扈氏の墓であるらしいこと。3号墓出土の「中臣鼎」の銘文に「帝后」とあり、これが亡くなった王の配偶者を指す用語であることなどが、比定の根拠となっているようです。 封神演義 20 (ジャンプコミックスDIGITAL) 作者: 藤崎竜出版社/メーカー: 集英社発売日: 2013/12/20メディア: Kindle版この商品を含むブログを見る

    「邑姜」の墓出土か - 枕流亭ブログ
    sampaguita
    sampaguita 2016/07/19
    "太公望の娘で、周の武王の后である「邑姜」ではないかという説"
  • 始皇帝がらみの新史料らしい『趙正書』について - 枕流亭ブログ

    北京大学蔵西漢竹書(北大漢簡)のひとつ『趙正書』を訳してみました。ネットに落ちてたものをテキトーに直しただけなので、正確さは全く保証しません。 むかし秦王趙正が天下に出遊し、帰る途中に白人(柏人)にいたって病にかかった。〔趙正の〕病は重く、涙を流して長い溜息を漏らし、「天命は変えることができないのか。わたしはかつてこのような病にかかったことがなかったが、悲…〈不明〉…」と側近たちに言った。…〈不明〉…これに告げて、「わたしは自ら天命を視て、年五十歳で死ぬと〔占ったことがあった〕。わたしは去る年十四で〔秦王に〕即位し、三十七歳で〔皇帝に〕即位した。わたしはいま死ぬべき年に達していたが、その月日を知らなかった。そのため天下に出遊し、気を変化させて天命を変えようとしていたのだが、できなかったか。いま病は重く、死も近い。急いで日夜に行列を運び、白泉に到着するまでは、振り返ってはいけない。つつしんで

    始皇帝がらみの新史料らしい『趙正書』について - 枕流亭ブログ
    sampaguita
    sampaguita 2015/12/14
    "『史記』に見えない異説を記した貴重な新史料だが、旧説を塗り替えた新常識とみなすのも危ういかと" / 『人間・始皇帝』のレビューを複数のサイトで見かけたこともあり、気にはなっていた話。
  • 秦の咸陽と天の迷宮 - 枕流亭ブログ

    邦における秦代研究者の第一人者である鶴間和幸氏が奇妙な説を唱えているので、素人なりの批判をしておきたいと思います。 宇宙と地下からのメッセージ 〜秦始皇帝陵の謎〜で、 http://www.d-laboweb.jp/event/report/121011.html 咸陽宮はペガスス座、閣道はカシオペア座、極廟はこぐま座の北極星、そして北斗七星の場所には阿房宮をもってきた。そうすることによって自国こそが中華の中心であるということを主張した と、鶴間和幸氏は主張しておられます(以下鶴間説)。これを史料に即しながら見ていきます。 『史記』秦始皇紀の始皇二十七年の条に「焉作信宮渭南,已更命信宮為極廟,象天極」とあります。ここは「信宮を渭水の南に作らせ、信宮を極廟と名を改めさせて、天の北極をかたどらせた」くらいの意味ですので、極廟が北極星という鶴間説の主張をまず仮に受け入れるとしましょう。 『史

    秦の咸陽と天の迷宮 - 枕流亭ブログ
  • 「始皇帝と大兵馬俑展」 - 枕流亭ブログ

    とりあえず、頼まれもしないのに(余計なことを)、トゥギャッターにまとめておきました。すみません。 http://togetter.com/li/906997 さて、気を取り直して、以下は個人的すぎる感想です。 ▼総じて統一前の文物のほうが興味深かったですね。というか兵馬俑はわりと見飽きた(少数意見)。 ▼冒頭の「南宮乎鐘」は、西周金文の刻まれた編鐘でした。もしかすると、銘文中の司徒南宮乎は西周建国の功臣の南宮适の子孫なんでしょうか。そういや曾侯乙墓の中の人は、南宮适の子孫らしいですけど(脱線)。 ▼「秦公鐘」は1994-95年の「始皇帝とその時代展」にも来ていたんですね。ところで図録に平勢説が顔を出していたので、二玄社の『中国法書選1甲骨文・金文 殷・周・列国』P130の釈文と比べてみていたんですけど、どこに平勢説が入ってるのか良く分からなかったです。鎛の誤字を鐘に直して、文章を平易化した

    「始皇帝と大兵馬俑展」 - 枕流亭ブログ
  • 「向」の読みについて - 枕流亭ブログ

    またぞろ『キングダム』をタネに話を広げてみます。 宮女キャラに「向」というのがおりますね。「こう」と読まれているのは、ご存じのとおりです。 漢和辞典を引けば分かりますが、「向」の読みは、呉音が「コウ」で、漢音が「キョウ」です。 中国の人名の読みは基的に漢音を取りますので、これは「きょう」と読むべきでしょう。 たとえば前漢末に「劉向」という人物がいるのですが、これは「りゅうきょう」と読みます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%90%91 さて、少し不思議なことがありまして、三国の蜀漢に「向寵」という人物がいます。この人はなぜか「しょうちょう」と読みます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E5%AF%B5 『康煕字典』の「向」の項は、『廣韻』『集韻』『韻會』『正韻』を引いて、「式亮切,音餉」

    「向」の読みについて - 枕流亭ブログ
    sampaguita
    sampaguita 2015/07/06
    読みのせいか「尚寵」と書かれてしまっているケースが多い気が。<向寵 / 調べてみたら吉川英治版がそうなのかな。
  • 「子貴母死」と「立子殺母」と - 枕流亭ブログ

    中国の南北朝時代の北魏には、君主の後嗣となる嫡子が立てられると、その生母を殺害する「子貴母死」という制度がありました。『春秋公羊伝』にみえる「子以母貴、母以子貴」をもじって作られた史称ですが、北魏の特異な制度を端的に表現しています。また別の言葉では、「立子殺母」ともいいます。 その犠牲者としては、 1.道武宣穆皇后劉氏(明元帝の生母) 「太祖末年,后以舊法薨」(『魏書』皇后伝) 「(天賜)六年七月,夫人劉氏薨,後諡為宣穆皇后」(『魏書』天象志一) 2.明元密皇后杜氏(太武帝の生母) 「泰常五年薨」(『魏書』皇后伝) 「五年六月丁卯,貴嬪杜氏薨,後諡密皇后」(『魏書』天象志一) 3.太武敬哀皇后賀氏(景穆太子の生母) 「神䴥元年薨」(『魏書』皇后伝) 4.景穆恭皇后郁久閭氏(文成帝の生母) 「世祖末年薨」(『魏書』皇后伝) 5.文成元皇后李氏(献文帝の生母) 「太安二年,太后令依故事,令后具

    「子貴母死」と「立子殺母」と - 枕流亭ブログ
    sampaguita
    sampaguita 2015/05/07
    "実は「舊法」などではなく、外聞をはばかる家庭の事情だったのではないでしょうか"
  • 唐の使節、アッバース朝へ - 枕流亭ブログ

    唐朝楊良瑶曾下西洋(中国社会科学网) http://sub.cssn.cn/zgs/zgs_gd/201503/t20150331_1568624.shtml 明の鄭和の西洋下りに遡ること600年あまり、唐代に西洋下りをした人がいたという話です。 その記録は「唐故楊府君神道之碑」といいます。1980年代に陝西省咸陽市芤陽県雲陽鎮小戸楊村で出土し、現在は芤陽県博物館に所蔵されているとのことです。この碑によると、楊良瑶(736-806)が徳宗の貞元元年(785)にアッバース朝に対する「聘国使」として船上の人となっています。 唐故楊府君神道之碑 唐故右三軍僻仗太中大夫行內侍省內給事賜紫金魚袋上柱國弘農縣開國男邑三百戶楊公神道碑銘并序 朝請郎行虔州南康縣丞雲騎尉翰林待詔陸邳撰 承務郎守郴州司兵參軍雲騎尉翰林待詔趙良裔書 給事郎守洪州都督府兵曹參軍雲騎尉翰林待詔湯陟篆額 公諱良瑤,字良瑤,其先周宣

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  • 唐の「造船大使」墓誌の発見 - 枕流亭ブログ

    西安發現唐“造船大使”墓誌 出現多个“則天新字”(中国社会科学网) http://www.cssn.cn/kgx/kgdt/201503/t20150325_1559678.shtml 唐の簡州長史で、対高句麗戦のさいに「楊州道造船大使」をつとめた唐遜(?-699)の墓誌が西安牌林に収蔵されたそうです。則天文字がわんさからしい。 詳しくはこちらで 新見唐《唐遜墓誌》考釋.pdf http://www.cssn.cn/kgx/zmkg/201503/P020150318346541359324.pdf 誌題は「唐故虞部員外郎朝散大夫簡州長史唐君墓誌銘并序」。 「造船大使」のところは誌文の拓画像みると「造舩大使」に見えます。

    唐の「造船大使」墓誌の発見 - 枕流亭ブログ
    sampaguita
    sampaguita 2015/03/26
    "則天文字がわんさからしい"
  • 朝歌は殷の首都なのか - 枕流亭ブログ

    『封神演義』に殷の紂王が都とした「朝歌」が頻出するので、殷の最後の都の名は朝歌といったのだと覚えている人もいるかもしれない。「朝歌」は現在の河南省鶴壁市淇県にあたると考えられている。 世界史的あるいは世界遺産的に、もっと有名な殷の首都がある。「殷墟」である。これは20世紀初頭に考古発掘がおこなわれて、殷代後期の宮殿や王墓であったことは出土した甲骨にも裏付けられており、これは動かしようがない。河南省安陽市に位置する。朝歌の位置する鶴壁市とは行政区域的には隣接しているが、別の土地である。今回は殷墟がテーマではないので、詳しく述べないが、「朝歌」≠「殷墟」ということは、読み終わるまで覚えておいてほしい。 さて『史記』楽書に「紂為朝歌北鄙之音,身死國亡」とある。なんと司馬遷『史記』の文には、ここにしか「朝歌」が出てこない。紂王と関係していることは分かるが、朝歌の地位が分からないので、今回の話の役

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  • 伝荊軻墓は荊軻の墓ではなかった - 枕流亭ブログ

    陝西省藍田県華胥鎮支家溝村の「荊軻墓」が、実は漢の武帝の娘の鄂邑長公主の墓であったとのことです。 http://news.xinhuanet.com/tech/2014-11/14/c_127209243.htm http://pic.people.com.cn/n/2014/1113/c1016-26012647.html http://www.sssc.cn/a/20110420/130327957343196.shtml

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  • 煬帝はなぜ「ようだい」と読むのか。 - 枕流亭ブログ

    隋の2代皇帝は煬帝と書いて、ようだいと読みます。なんで、「ようてい」ではなく...(Yahoo!知恵袋) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1499229 残念ながらベストアンサーのほうが信用できない。中国では、煬帝の「帝」について取り立てて特別な読み方をしていない。煬帝(Yángdì)の帝(dì)は、文帝(Wéndì)の帝(dì)と読みは同じである。音注にうるさい胡三省ですら、何も言及していないことからして、歴史的に遡っても同様だろう。煬帝を特別に「ようだい」と読むのは、中国の事情ではなく、日特有の理由があると解するべきだ。帝を「だい」と読むのは、呉音の「タイ」を濁らせたものである。通常なら漢音の「テイ」で読まれるはずのところだ。 呉音で読んでいるのは、煬帝を貶すためだという説も、正直信じがたい。たとえば帝

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  • 本棚晒し - 枕流亭ブログ

    またはてな方面から回覧がまわってきたようなので、汚れ晒し。以前にも何度かやっているので、大して変わってはいないんですが。 http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20090404/p1 http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20110531/p1 http://h.hatena.ne.jp/nagaichi/243583496659710962 http://h.hatena.ne.jp/nagaichi/243601088849763059 http://h.hatena.ne.jp/nagaichi/228173109985362776 長くなるので、隠します。 新書棚。やはり歴史系が多い感じです。ここでのオススメは、山紀夫『じゃがいものきた道』(岩波新書)…って、写ってないやないか。 大きい図録棚。図録については以前書いたのと、あまり代

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  • 「為念」を「念のため」とするのは漢語的にはおかしい。 - 枕流亭ブログ

    為念 ってなんですか?(人力検索はてな) 為念って念のためという意味と思いますが辞書にありません。ある程度公式な文章に...(Yahoo!知恵袋) 「為念」は「念のため」と読むもので、しかもそれが漢語・漢文がもとだと思われているらしい。 『漢書』巻77王吉伝 「願留意、常以為念。」 小竹武夫訳『漢書6列伝III』(ちくま学芸文庫)P276 「どうかこのことをお忘れにならず、つねにお心にとめていただきとうぞんじます。」 『三国志』巻6魏書6董卓伝(裴注所引張璠『漢紀』) 「努力謝關東諸公、以國家為念。」 今鷹真・井波律子訳『正史三国志I』(ちくま学芸文庫)P432 「どうか、関東の諸侯によろしく伝え、国家を忘れぬようにいってくれ」 『三国志』巻9魏書9曹真伝 「臣昔從遼東還、先帝詔陛下・秦王及臣升御牀、把臣臂、深以後事為念。」 井波律子・今鷹真訳『正史三国志II』(ちくま学芸文庫)P179

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  • 「中国は道教の国」ではない - 枕流亭ブログ

    以下は、亭主が読んで少しならず腹を立てたネット記事を貶しているだけの内容なので、時間をムダにされたくないかたはスルー推奨です。 元記事はこれ↓です。 中国人が買い占めに走る「伽羅」に日の仏教界が困っている(NEWSポストセブン) http://www.news-postseven.com/archives/20140730_268374.html いやあこれ↑はひどい。はじめにきちんと言っておきますが、ひどいのは「中国人」ではなくて、NEWSポストセブン当該記事そのものですよ。 冒頭からまず難癖がひどいです。 中国富裕層は、虎視眈々と私有財産を増やそうと買い占めを行っているわけだが、ゴールドや海外の土地といった高価なものから、おむつや粉ミルクといった日用品まで、自分たちが得するものであれば、とことん手を伸ばす姿勢は節操がないというかすごいというか…。 「ゴールドや海外の土地」なら富裕層

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  • 隋煬帝墓認定 - 枕流亭ブログ

    揚州曹庄隋唐墓が煬帝と蕭皇后の合葬墓と認定されたというニュース。 http://www.47news.jp/CN/201311/CN2013111601002158.html http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20131117-OYT1T00307.htm http://news.xinhuanet.com/overseas/2013-11/17/c_118170614.htm http://culture.gmw.cn/2013-11/17/content_9509532.htm http://www.s1979.com/house/20131117/17106739817.shtml 煬帝墓については、以前もうちで記事を書きましたが、その続報ということになります。 http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20130416/p1

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  • 曹一族のY染色体 - 枕流亭ブログ

    復旦大学が中国全土の曹姓・夏侯姓・操姓の男性のY染色体を調べて、遺伝学的に曹操の血統に迫ったというニュース。 復旦大学の李輝(復旦大学現代人類学教育部重点実験室)のDNA分析により、曹操の子孫を称する曹氏のうち6家族から珍しいO2*-M268型の変異が見つかったということです。合わせて亳州の曹氏宗族墓群のひとつ、元宝坑1号墓の遺骨からも同じくO2*-M268型の変異が見られたそうです。 復旦大学の韓昇(復旦大学歴史系教授、中国魏晋南北朝史学会副会長)が結論するところでは、 1.曹操は曹参の後裔ではない。 2.曹操の子孫が改姓したと伝えられる操姓の人々と曹一族とのあいだには遺伝的には関係がない。 3.現在の夏侯氏と曹操の家族のあいだも遺伝的に一致しない。 ということです。操氏・夏侯氏の話は分かるのですが、「曹操は曹参の後裔ではない」がどこから導き出されたのか、今ひとつ判然としないところです。

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  • 隋の煬帝の墓が出土 - 枕流亭ブログ

    ご無沙汰ぶりのブログで、わりとビッグニュースの紹介です。隋の煬帝の墓が江蘇省揚州市邗江区西湖鎮司徒村曹荘で出土したとのことです。 ↑今回発見の墓 揚州市は長江下流域の北岸に位置している古くからの都市ですが、隋のころには江都と呼ばれていました。南朝の文化を愛した煬帝は、たびたびこの江都に来ておりまして、最期を迎えたのもここでのことです。煬帝は江都に宮殿を建てて趣味全開の遊興三昧。晩年に華北の情勢が怪しくなると、江都から離れようとせず、そのために部下の宇文化及に殺害されております。 さてこのたびの出土品ですが、鎏金銅鋪首や金瓖玉腰帯といった文物が出ているようですが、やはり決定的だったのは、墓誌の発見ですね。 「隨故煬帝墓誌」(隨は隋と通字)というようです。墓誌中に「隨大業十四年」とか「帝崩于揚州」とかあって、決め手になってるようです。 ↑鎏金銅鋪首 ↑発見された墓誌 あと今回発見の墓の東側の墓

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