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坂本龍一とデヴィッド・ボウイの出会いは1978年12月にまで遡る。 当時2回目の来日公演ツアー中のボウイを、ソロとしてもYellow Magic Orchestra(以下、YMO)としてもデビューしたばかりの坂本龍一がインタビューするという雑誌の企画においてだった。 互いの音楽や日本の文化についてなど、話題は多岐に及んだが、ボウイのほうから三島由紀夫の話を持ち出しているのはおもしろい。言うまでもなく、坂本の父は三島由紀夫を手掛けた高名な文芸編集者だった。もちろん、ボウイの知るところではなかったが。 坂本龍一(2017年『ヴェネツィア国際映画祭』) ふたりの再度の出会いの場所は4年後、南の島だった。 ニュージーランド・クック諸島のラロトンガ島。映画『戦場のメリークリスマス』で俳優として共演したのだった。今ではニュージーランド有数のリゾートアイランドとなっている同島だが、当時は大きなホテルは島
アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は岸田繁のルーツを探る。1996年にくるりを結成し、同バンドで活躍する一方で、ソロ名義では映画音楽のほか、管弦楽作品や電子音楽作品なども手がける岸田。そんな彼の音楽遍歴とは? 取材・文 / 大谷隆之 「なんか心が気持ちいいなあ」音楽は自分だけが知ってる喜びだった実家の近くに、チンチン電車が走ってたんです。真夏の暑い日に、職員さんが車庫の軌道敷に水を撒いていて。おじいちゃんか誰かに連れられて、それを見ていたのを覚えています。京都の市電が廃止されたのが昭和53年9月なので、僕が2歳半くらいの頃かな。たぶんそれが、僕の中で一番古い記憶ですね。 父親がクラシック音楽好きで、休日はよく家でLPレコードを聴いていました。ベートーヴェンとかチャイコフスキーとか、わりと王道のやつです。
ロックバンド・一風堂のボーカルで、1982年に『すみれ September Love』を大ヒットさせた土屋昌巳(70)が、ENCOUNTに亡き坂本龍一さん(享年71)への思いと自身の「今」を語った。かつて同じバンドで活動した坂本さんとの思い出は数多く、その生きざまに影響を受けてきたことを明かした。 ロックバンド・一風堂のボーカルで、1982年に『すみれ September Love』を大ヒットさせた土屋昌巳(70)が、ENCOUNTに亡き坂本龍一さん(享年71)への思いと自身の「今」を語った。かつて同じバンドで活動した坂本さんとの思い出は数多く、その生きざまに影響を受けてきたことを明かした。(取材・文=福嶋剛) 坂本さんが亡くなって約1か月。土屋はしみじみと言った。 「『教授(坂本さん)の思い出を語ってほしい』と言われた時、僕が一番みなさんに伝えたかったことがあります。それは、YMO時代や
2023年3月26日、慶應義塾大学三田キャンパスにて『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』(集英社新書)の刊行記念シンポジウムが開催されました。登壇者は私のほかに、著者の片岡大右氏、IfYouAreHere委員会を組織し検証サイトを立ち上げたkobeni氏、『炎上社会を考える 自粛警察からキャンセルカルチャーまで』(中公新書ラクレ)の著者で社会学者の伊藤昌亮氏、以上の4名です。オンライン配信も行われ、おかげさまで盛況のうちに終えることができました。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。 以下の文章は、当日会場でわたしが発表した報告です。片岡氏の了承を得たうえで、こちらのnoteにも掲載しておきます。 2021年夏の小山田さんの一連の辞任騒動件に関しては、インターネットやいじめ問題など、様々な出来事が複雑に絡み合って引き起こした悲劇だという話は片岡さんの本でも詳しく書かれてい
ミュージシャン、細野晴臣(75)のスタッフ公式アカウントが17日、更新。音楽グループ、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の盟友で3月28日に死去した音楽家、坂本龍一さん(享年71)へのメッセージが掲載された。 「坂本くんは数年かけて準備をし永眠しました。御本人も御家族も後悔なく、静かに旅立ったと聞きました。それを知ってから、僕も安らげています。細野晴臣」と記された。 細野は同日未明に放送されたinterfm「Daisy Holiday!」(日曜深夜1・0)で坂本さんを初めて肉声で追悼。1月に死去したメンバーの高橋幸宏さん(享年70)にも触れ、「悲しい知らせが続いて心の整理ができていませんが、明るい未来に進んでいくしかない。同時に、高橋幸宏、坂本龍一への追悼は一生続くと思います」としのんでいた。
ヒッピーのような長髪、坂本龍一との出会い 坂本龍一の功績についてはすでにさまざまな形で語られているし、それに関して付け加えたいことも無い。それに、これからも彼が残してきた作品に触れることができるのだから彼の音との対話は続けられる…。そう思うしかないな、というのが正直な気持ちだ。 坂本龍一は、確かに類まれな才能の持ち主だと思う。しかしそれと同時に、彼のような音楽家が登場したことも、日本の70年代以降の音楽シーンの “空気” を象徴していたのではないかとも感じられるのだ。 坂本龍一を知ったのは1974、5年のこと。当時、僕はオープンしたばかりの荻窪ロフトでブッキングを手伝っていたので、かなりの頻度でロフトに通っていた。そこで客として来ていた坂本龍一と会っているのだ。 ヒッピーのような長髪でいつもラフな黒っぽい服に身を包んでいた彼は、ライブ後のミュージシャンと音楽の話をしたり、一緒に飲んだりして
文●宮沢 和史 texto por Kazufumi Miyazawa 何から書き始めていいか分からない。坂本さんの音楽への思いや、坂本さんとのいくつかの思い出を語れば、与えられた文字数でこの原稿を埋めることはできるだろう。だが、そんなものはどうでもいい気がしてきた。世界中の音楽家、音楽ファンの心に流れていた大きなひとつの水系を我々は失くしてしまったのだ。今はまだその水脈の素晴らしさや、そこからいただいた恵み、そこでの思い出を語る気にはなれない。 世界中の音楽家、音楽ファンと書いたが、その他の芸術家・映画関係者・ファッション界・広告界・芸能界・出版界・執筆家・政治家・教育者・社会活動家・環境活動家・・・・、様々な環境の第一線にいる人間たちに坂本さんは多大なる影響を与え続けてきた。もっと言えば、80年代初頭にYellow Magic Orchestraを熱狂的に支持した人たちの多くは音楽家、
ニューヨークで演奏する坂本(左、1998年2月)と大江(右、2016年7月)。80年代から縁が続いた PND RECORDS & MUSIC PUBLISHING INC., EBET ROBERTS/GETTY IMAGES <「教授」が愛車のボルボで迎えに来てくれた思い出から、3時間に及ぶLINEでの会話まで、大江千里が坂本との思い出をつづった> インスタグラムを開くと、よく知っているアメリカのレコード会社の女性とヨーロッパのミュージシャンが哀悼の意を示していた。投稿には1952年1月17日―2023年3月28日とある。嫌な予感がして僕は画面を閉じた。ずっと心の隅で恐れていた。必死で目をそらそうとした。 この日、春の嵐の強い風が吹くニューヨーク・ブルックリンの屋外へスリッパのまま飛び出ると、少し日が長くなった空に白く丸い月が浮かぶ。目の縁がにわかに熱くなり、鼓動が激しくなる。 それは熱
長くなってしまったので最初にまとめると、ジャニー氏・ジャニーズ事務所・マスコミ・告発者への暴言だけをぶっ叩いてその他はとりあえず静観すべきかもしれないというお気持ち表明です いや全然関係ないじゃんって思う人もいるだろうし本当に関係ないかもしれないけど AV業界にいたとき印象的だったことを思い出したので書いてみる 文章下手なのでむちゃくちゃで申し訳ないけど AV女優になる人のバックグラウンドはさまざまだけど まあまあ多いのが身内からの性虐待を受けていた経験がある、というもの もちろん公にすることはないけど結構いた あと風俗にもめっちゃいた 私も同じく身内から性虐待を受ける→家出→売春→風俗→AVというテンプレコースだった 私はそもそも性虐待を除いても親が嫌いだったので死ねとしか思わなかったのだけど 色んな人の話を聞いて、性虐待以外は優しいという親がまあまあいることを知った 父や兄弟と本気で愛
「坂本龍一がいない世界がやってきた」。 そう表現するのは、坂本さんと長らく交流があった思考家の佐々木敦氏だ。日本のポピュラー音楽史を通覧する氏の近著『増補・決定版 ニッポンの音楽』 でも、4章のうち丸々1章がYMOと坂本龍一さんに割かれている。 3月28日に逝去した坂本龍一さんの人と音楽について、寄稿して頂いた(以下、文/佐々木敦氏)。 Photo by zakkubalan (c)2022 Kab Inc. 昨年12月に配信された最後のコンサート<Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022>は、dTVで見ることができる(期間限定) 1979年、私は中学生だった。ある日、学校から帰ると、自宅のテレビに奇妙な光景が映し出されていた。不思議ないでたちをした男たち(女性もいた)が、不思議な楽器(機械?)を無表情で操りながら、それまで聴いたことのなかった不思議
タイムアウト東京 > 映画 > 人生で観ておくべき、日本映画50選 日本映画には大きな魅力と素晴らしい監督の存在がある。特に黒澤明は、この地球上で最も偉大な映画監督といえるが、日本が生んだ名監督は彼だけではない。小津安二郎や宮崎駿、溝口健二、市川崑ら、映画「東京物語」「七人の侍」「となりのトトロ」など、圧倒的な名作を生み出し映画界に貢献してきた。 サイレント時代から戦後の映画黄金期をへて、パンキッシュで挑発的な1960年代のニューウェーブ、アニメーション作品の爆発的なヒットを生み出した。そして、多くの作品はアメリカやヨーロッパで大きな影響力を持つようになった。タランティーノやスコセッシは、大の日本映画好きで伝達者であり、ゴジラはハリウッドの大作映画としてとどろき続けている。 しかし、あまりに多くの作品があるため、何から観ればいいのか頭を抱えてしまうかもしれない。ここでは、タイムアウトワール
俳優でシンガー・ソングライターの泉谷しげるが4日、ブログを更新し、3月28日に死去した音楽家の坂本龍一さん(享年71)を追悼した。 泉谷は「坂本 龍一 逝く」のタイトルで更新。冒頭から「なんだこの衝撃は 特別親しくしてたアーティストではないのに凄く大事な人を失ってしまった衝撃たるや 今もって コトバにならないと云うか こうして文にもならないことを羅列してるだけだ」と、突然の訃報に強いショックを受けた様子を見せた。 1975年に吉田拓郎、小室等、井上陽水とともにレコード会社を設立した泉谷。アーティスト自身がレコード会社を経営するという当時の音楽業界で画期的なことを行っただけあって、同時期に世界を席巻したテクノグループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」にも尊敬の念を抱いている様子。「坂本龍一・細野晴臣・高橋幸宏の3人による『YMO』の時代から、日本人が海外でショーをやるときに『サム
3月28日にがんで71歳で亡くなった音楽家坂本龍一さんと、音楽活動をともにした作詞家売野雅勇氏(72)が3日、日刊スポーツの取材に応じて坂本さんの思い出を語った。 「最初の出会いは94年くらい。ダウンタウンのGEISHA GIRLSというユニットの『少年』という曲でした。坂本さんがニューヨークから帰ってきて、その翌日に打ち合わせして、翌々日が締め切り。1日で書いたんだけど、わりといいものができて、相性がいいんだとなった。全て“曲先”でした。その翌年に坂本さんが歌った『美貌の青空』。96年に中谷美紀さんのアルバム『食物連鎖』や、97年に中谷美紀 with 坂本龍一の名義でリリースされたシングル『砂の果実』で10曲くらい。あとはKinKi Kidsの『イノセント・ウォーズ』ですね」と振り返った。 「坂本さんは知性的で考えが深いけど、それに反するような本能的な、と言うか野性的な部分もあって、両方
LUNASEAおよびXJAPANのギタリスト、SUGIZO(53)が7日までにツイッターを更新。敬愛する音楽家の坂本龍一さんが亡くなったショックが癒えず、ツイッターを当面休止するとした。 SUGIZOは自身率いるジャムバンド「SHAG」のライブについて告知するとともに、「ただ、坂本さんの件で心身共にとても疲弊してしまい、正直ボロボロで。SHAG公演後、当分ここから消えようと思います。全てに疲れてしまった。。。」と吐露した。 SUGIZOは4日のツイートで、「この40年間、人生で最も影響を受けた人は坂本さんでした。坂本さんがいなければ今の自分は存在していませんでした。90年代以降、とても親しくさせていただき、音楽的に身近で本当に学ばせてもらいました。00年代は社会活動を共にさせていただき、多くを学ばせていただきました」と、坂本さんから受けた多大な影響についてつづり、「表現、理念、生き方、全て
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