1000億円超。これは東日本大震災後、日本赤十字社が各国の赤十字社から救援金として受け取った額だ。日赤は「この規模の寄付を受け取ったのは初めてだった」という。震災から7年がたち、救援金の94%はすでに使われている。一体なにに使われたのか。ジャーナリストの伊藤詩織氏がリポートする――。 世界で初めて「原子力災害の対応ガイドライン」を策定 震災翌日の2011年3月12日、日本赤十字社(日赤)は福島県の浜通りを中心に12の救護班を送ったが、放射線の基礎知識や防護装置などを持っておらず、一時撤退せざるをえなかった。日赤の職員・藤巻三洋さんは当時を「苦い経験だった」と振り返る。 日赤にとって東日本大震災は復興支援と原子力災害対応を初めて経験した災害だった。これまでの大規模災害では医療救護活動に終始していたため、東日本大震災ではなにもかも手探りで進めた。苦い経験を克服すべく原子力災害対応の中心になった
首都直下地震などの大規模災害に備え、埼玉県の草加・八潮両市の病院や開業医でつくる草加八潮医師会は、両市の歯科医師会や薬剤師会と連携し、災害医療に即応できるよう「草加八潮メディカル・アソシエーション・チーム(略称SYMAT=シーマット)」の体制づくりを始めた。人口密集地での混乱や救命活動の遅れを防ぐのが狙い。医師会などが主導して災害時のチームを発足させるのは県内でも珍しい。【武田良敬】 参加するのは、同医師会(医療機関数計137)と両市の歯科医師会(同125)、薬剤師会(薬局数72)の5団体。各団体は2000年代から災害時の医療救護活動で協力する協定を両市と結び、両市の地域防災計画に基づく活動の具体化に取り組んでいる。
東日本大震災で被災した岩手県大槌町で、会えなくなった人に思いを伝える「風の電話」のボックスが、老朽化して壊れる寸前になっている。被災した人らが多く訪れて受話器を握り、心の内を語ってきた。この場所を守りたいと、設置した同町吉里々々(きりきり)の庭師佐々木格さん(73)が使わなくなった電話ボックスを探している。 風の電話は、佐々木さんが2009年に病死した親類の遺族のために発案した。「電話」を通じ、親類が亡くなった人に心の内を話して欲しいという意図だった。閉店したパチンコ店にあった木製の電話ボックスをもらって自宅の庭に運び、線のつながっていない黒電話を置いた。 屋根を付けたり、周囲の庭造りをしたりして完成間近だった11年3月11日、震災が起きた。4月に完成すると、報道や口コミで広まり、多くの遺族らが訪ねるようになった。 「あなたは誰と話しますか 風の電話は心でします」。電話ボックスの中にはそん
「日本政府は支援継続を」=原発事故で自主避難の森松さん-国連人権理 東京電力 廃炉 原発事故 【ベルリン時事】東京電力福島第1原発事故後、福島県郡山市から大阪市に2人の子供を連れて避難している森松明希子さん(44)が19日、ジュネーブで開かれた国連人権理事会でスピーチした。森松さんは、郡山など避難指示区域外からの自主避難者に対する支援継続などを日本に求めた理事会勧告について、「政府は完全に実施してほしい」と呼び掛けた。 【特集】いざ廃炉の最前線へ~東電福島第1原発・見聞録~ 森松さんは、「情報が与えられず、無用な被ばくを重ねた。母乳を与えるため、汚染された水を飲むしかなかった」と振り返り、「政府は市民を守る施策をほとんど講じず、放射線量の高い地域への帰還を促してきた」と訴えた。 人権理事会は昨年11月、自主避難者も含めた被災者支援の続行や死刑制度廃止など、計217項目の人権状況改善を日本に
東北が東日本大震災から復興する様子を「地図屋」として見守り続ける男性がいる。地図大手ゼンリン(北九州市)社員の下山紀夫さん(61)=同市小倉北区。震災後に着任した被災地で変わりゆく街の様子を調査、4年8カ月の滞在中、数千人の被災者と会い、悲痛な体験にも耳を傾けてきた。北九州に帰任した後も「変化する街の姿を追いたい」と定期的に現地を訪問。今月も足を運び、歳月の流れを見つめる。 ゼンリンは震災後、津波で家屋が消失するなどの被災状況や、仮設住宅の情報を反映させた地図を作るため、岩手県と宮城県に三つの拠点を特設して調査員を派遣した。下山さんもその一人だった。 当初の任務は、5万1千戸の仮設住宅を訪ね、各戸の居住者を確認すること。その中で、忘れられない光景に遭遇した。 80代の女性宅を訪ねた時のことだ。4畳半一間の部屋に段ボール紙が敷かれ、その上に五つの位牌(いはい)が並んでいた。震災で家族5人を失
2018年2月22日、取材で福島市内にある飯舘中学校を訪れた。本来は飯舘村にある飯舘中は、村が全村避難を決めたため、原発事故後に仮設校舎に移転している。 今春、新たな節目を迎える。昨年3月に大部分が避難解除された飯舘村に戻ることが決まったのだ。「仮設」の役割を終えようとしている校舎に誇らしげにかかった垂れ幕があった。 「第69回 全日本中学校英語弁論大会 福島県代表 三年 佐藤安美さん」。 この時、取材で追いかけていた元テレビユー福島の記者で、飯舘村職員に転じた大森真さんが隣でしみじみと言う。 「このスピーチ読んだことある?すっごいんだよ。本当に深い中身で、俺が言いたかったことを言葉にしてくれたなぁって思ったんだよね」 「被災者と呼ばないで」学校関係者にお願いしたら、英語と日本語の両方を渡してくれた。タイトルは『Don't Call Us Victims』、日本語では「被災者と呼ばないで」
東日本大震災発生直後より被災地を訪問したり、義援金を募集したり、復興支援活動を継続的に行ってきたAKB48グループのメンバーたち。今回のイベントには計24名のメンバーが参加し、3手に分かれてイベントを実施。ライブでは「ヘビーローテーション」「恋するフォーチュンクッキー」「365日の紙飛行機」などのヒット曲、震災復興応援ソング「掌が語ること」などを披露した。また各会場を電話でつなぎメンバー同士がそれぞれの様子を報告したり、じゃんけん大会やハイタッチ会などを行ったり、楽しい時間を参加者たちと過ごした。さらにイベント開催前後にメンバーは被災で犠牲になった人たちへ献花を行い、黙祷を捧げた。 峯岸みなみ(AKB48)はイベントについて「この活動は、私の中で7年前のことを忘れないでいられるきっかけになっていますので、大切な活動だと思って毎回足を運ばせて頂いています」と述べ、宮脇咲良(HKT48)も「こ
発生から11日で7年を迎えた東日本大震災。広島経済大(広島市安佐南区)では発生以降、学生グループが継続して被災地に入り、被災者へのインタビューなどを続けており、初の記録集作成を進めている。貴重な証言を集めたインタビューの集大成で、完成後は被災地に届けるほか、県内の図書館などにも配布する予定。グループのメンバーは「被災者の貴重な証言を風化させない」と言い切る。 広島経済大では平成23年3月の東日本大震災の発生後、学生たちが被災地に入って復興を支援。そうした学生たちの提案で翌24年、学生主体の「東北支援プロジェクト」が始動した。 被災者の経験を後生の教訓として生かすため、継続的に被災地に入り、被災者をインタビューしている。 29年春、プロジェクトの代表に就任した谷岡潤哉さん(21)は廿日市市出身。中学校時代に学校の行事として被災地の中学生と手紙などを交換する体験もしていた。 大学に入ると「被災
東日本大震災の被災者に向けた宮城県石巻市の「石巻復興きずな新聞」は一度は終刊しながら復活した無料情報紙だ。編集長の岩元暁子さん(35)は資金難から震災5年を区切りに発行をやめたが、以前に読者の「おっちゃん」から言われた「仮設に残る俺たちを見捨てるんか」という言葉がよぎった。「被災者にとって5年はなんの節目でもない」。最後の1人が仮設を出るまで続けると決め、被災者に寄り添う。 情報紙は毎月10日発行。A4判4ページで、市内の仮設住宅約1000戸と市街地の災害公営住宅(復興住宅)の住民に計約6000部配布する。1月発行の1面トップは「どんと祭裸参り参加記」。無病息災を祈りさらし姿で町を歩く裸参りに記者が挑戦した体験記だ。「石巻でも裸参りをやっているんだ」「今月も待っていたよ」。新しい石巻の姿に喜びの声が届く。
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