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軍学者の検索結果1 - 8 件 / 8件

  • 「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

    「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)年名称概要1531年享禄・天文の乱浄土真宗本願寺派の権力闘争である享禄の錯乱。管領・細川晴元が一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文の錯乱。1532年北部九州天文の乱大内氏と大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆が大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前・筑前・肥前を平定した。1533年稲村の変安房里見氏当主・里見義豊が、叔父の里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。1536年花倉の乱駿河守護・今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳が勝利し今川義元を名乗った。1537年河東の乱北条氏と今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏が武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏が今川領に攻め込み河東地域を占領した。1542

      「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)
    • 桂小五郎:イケメン志士の未知なる一面、剣豪から[政治家]への道

      病弱だけど悪ガキだった木戸孝允 木戸孝允は1833年、天保4年6月26日、長門国萩城下(はぎじょうか)の呉服町に生まれます。父は藩医の和田昌景(わだまさかげ)、なんと木戸孝允は武士の出自ではなかったのです。木戸孝允は医者の長男、和田小五郎(わだこごろう)として成長していきますが非常に病弱でした。父は「この子は成人まで育たないだろう」と悲観して小五郎がいるのに娘に養子を取らせて家督を継がせてしまいしまいます。 しかし、これが和田小五郎少年の運命を変えてしまいます。その頃、隣の百五十石の桂家(かつらけ)の当主が危篤(きとく)になり、すでに婿養子を取っていて和田家を継ぐ必要がない小五郎が急遽養子に迎えられたのです。これにより藩医の倅の和田小五郎は、大組士の桂小五郎になるのです。病弱だから大人しいだろうと思いきや、少年時代の小五郎は大変な悪ガキでした。萩城下を流れる松本川に潜って、そこを往来する船

        桂小五郎:イケメン志士の未知なる一面、剣豪から[政治家]への道
      • 上杉謙信は「義の武将」にあらず? 近年の研究で見えた実像は|好書好日

        上杉謙信像(一般財団法人太陽コレクション蔵) 寺社焼き打ち・言い訳して侵略…人間臭い当主 先月出版された『謙信襲来』(能登印刷出版部)は、越後を本拠とする謙信に侵攻された北陸側の視点から謙信の実像をとらえる。著者の萩原大輔・富山市郷土博物館主査学芸員が、越中・能登・加賀の3カ国について、謙信が焼き打ちを行った伝承が残る寺社を集計したところ、147に及ぶことがわかった。 「本当に神仏を敬っていたなら、これほど寺社を焼くはずがない。謙信に関しては、そのエピソードの多くが『神話』だといっていい」 萩原さんによると、謙信にとって、あれほど主張した「義」もスローガンに過ぎなかった可能性が高いという。その論拠が、1570年12月に書かれた神仏への奉じ文だ。謙信はそこで「越中へ馬を出し(略)、越中存じのまま、一篇に謙信手に入れ候わば明年の一年は必ず日々看経(かんきん)申すべく候なり」(越中へ攻め込み、思

          上杉謙信は「義の武将」にあらず? 近年の研究で見えた実像は|好書好日
        • 「手紙で人を口説く達人」秀吉の筆まめ文章術

          日本史において、手紙の「文章」は、命運を賭けた戦略を遂行するうえで、重要な役割を担っていました。拙著『心をつかむ文章は日本史に学べ』でも詳しく解説していますが、実際、織田信長や豊臣秀吉、西郷隆盛、坂本龍馬など、歴史に名を残した人たちは、何かにつけて手紙を活用しています。 文章の達人でもあった豊臣秀吉 なかでも豊臣秀吉は、常日頃から相手を気遣う手紙を方々に送っており、そのおかげで「本能寺の変」の後、いち早く明智光秀を倒し、天下統一を果たすことができました。秀吉は、対面でのコミュニケーション力が高く、「人たらし」といわれますが、実は文章の達人でもありました。 秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)を務めた学者の大村由己(おおむら・ゆうこ)が、『関白任官記』の中で秀吉を、「不肖にして、文書を学ばざること悔ゆ。唯今儒者を招きて数巻の古伝、諸家の系図等これを学問し、悪を捨て膳を用うること多し」と書いたことから

            「手紙で人を口説く達人」秀吉の筆まめ文章術
          • 日本の甲冑 | 日本服飾史

            古代の甲冑 ~短甲・挂甲~ 日本における甲冑の歴史は実に古いものです。 古くは弥生時代の遺跡から短甲(たんこう)(木製)の部分とおぼしきものが発掘されています。 古墳時代の短甲(左)と挂甲(右) 古墳時代に入ると、金属が使用されるようになり、短甲にも金属製のものが見つかっています。また、古墳時代の甲冑の様子を窺い知ることができるものとして、古墳から出土した埴輪で武装した姿のものが見つかっています。 短甲とは、胴を守る丈の短い甲のことで、「みじかよろい」とも呼ばれます。 金属製の短甲は鉄板同士を接続する鋲留めの技法や、覆(ふく)輪(りん)の技法が用いられています。 この時代の短甲には、腰回りの防御である草摺(くさずり)、肩から二の腕を守る肩鎧(後世の袖に当たる)、腕を守る籠手(こて)、脚を守る脛(すね)当(あて)などを揃えるようになり、おおよそ後世で甲冑武装する時の部分が完備し始めています。

            • 9月10日は蛸島キリコ祭り、御田刈祭、グルテンフリーライフの日 、愛する小倉トーストの日、球都桐生の日、メディキュットの日、牛タンの日、キャッシュレスの日、和光堂ベビーフードの日、弓道の日、給湯の日、コンタクトレンズの日、 ロマンスナイトの日、下水道の日、知的障害者愛護デー、等の日&話題 - 風に吹かれて旅するブログ (話題・記念日&ハッピートーク)

              おこしやす♪~ 9月10日は何の日? その時そして今日何してた? 2023年(令和5年) 9月10日は蛸島キリコ祭り、御田刈祭、グルテンフリーライフの日 、愛する小倉トーストの日、球都桐生の日、メディキュットの日、牛タンの日、キャッシュレスの日、和光堂ベビーフードの日、弓道の日、給湯の日、コンタクトレンズの日、 ロマンスナイトの日、下水道の日、知的障害者愛護デー、等の日です。 ■蛸島キリコ祭り(早船狂言)(~11日)【石川県珠洲市蛸島町、高倉彦神社】 2023年9月10日(日)、2023年9月11日(月) www.youtube.com 高倉彦神社を中心に、奥能登の漁師町・蛸島を練り歩くキリコは、その装飾の多さと豪華さから能登のキリコの中で最も美しいと言われています。ふんだんに使われる金箔と総漆塗り、そして見事な彫り物はまさに動く芸術品。 担ぎ手は、神の遣いとされる猿を模して顔を白塗りにし

                9月10日は蛸島キリコ祭り、御田刈祭、グルテンフリーライフの日 、愛する小倉トーストの日、球都桐生の日、メディキュットの日、牛タンの日、キャッシュレスの日、和光堂ベビーフードの日、弓道の日、給湯の日、コンタクトレンズの日、 ロマンスナイトの日、下水道の日、知的障害者愛護デー、等の日&話題 - 風に吹かれて旅するブログ (話題・記念日&ハッピートーク)
              • 第1回 信長の器量を見抜いた「道三の眼力」 | 名ぜりふで読み解く日本史 | 呉座勇一 | 連載 | 考える人 | 新潮社

                斎藤道三像 常在寺蔵(Wikimedia Commons) はじめに 書店に行くと、「戦国武将に学ぶ決断力」といった書籍・雑誌企画をしばしば目にする。こういう発想は今に始まったことではなく、その淵源は江戸時代に始まる。勇将・智将の言行録が多数編まれて、人生訓が語られた。 ただし、この種の名言・美談には真偽不明のものが多い。武田信玄の名言として知られる「人は城、人は石垣、人は堀」(『甲陽軍鑑』)にしても、伊達政宗の名言と記す史料もある。 とはいえ、江戸時代に創作された話であっても、江戸時代の人間の価値観が反映されており、歴史研究の素材になり得る。本連載では信ぴょう性の高い名言をなるべく取り上げるが、怪しげな名言も、創作の可能性を念頭に置きつつ読み解いていきたい。 「国盗り」の意外な真相 連載スタートの今回は美濃のまむし、斎藤道三を取り上げる。歴史好きで彼の名前を聞いたことがない人はいるまい。

                  第1回 信長の器量を見抜いた「道三の眼力」 | 名ぜりふで読み解く日本史 | 呉座勇一 | 連載 | 考える人 | 新潮社
                • 毛利元就とは (モウリモトナリとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

                  毛利元就単語 1337件 モウリモトナリ 1.4万文字の記事 19 0pt ほめる 掲示板へ 記事編集 生涯後世の評価『三本の矢』の真実元就の息子達信長の野望における元就関連動画関連商品戦国無双における毛利元就戦国BASARAにおける毛利元就戦国大戦の毛利元就戦極姫における毛利元就関連項目掲示板「毛利元就(もうり もとなり)」(1497年4月16日 - 1571年7月6日)とは、日本の戦国大名。 人物概要は、概ね次の通り。 弱小領主の次男として生まれながら、権謀術数を駆使して勢力を拡大。一代で中国地方を制覇する。 傑出した戦略家・謀略家。戦国時代最高の智将、『謀神』とも呼ばれる。 息子達に家族の結束をくどいほどに訴えた、筆まめで心配性な教育パパ。家康も顔負けの健康通。 その死後も、周囲に影響力を遺した賢人。彼の政治基盤は、後の長州藩の母体となる。 彼曰く、 能や芸や慰め、何事も要らず。 武

                    毛利元就とは (モウリモトナリとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
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