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長寿院の検索結果1 - 10 件 / 10件

  • 三十三間堂  千手観音像に守られた奇跡のお寺 - 京都案内  こうへいブログ

    750年前から守られてきたお堂 長さ125mの仏殿の中に、1001体の千手観音像が整然と並ぶ、国宝、蓮華王院・三十三間堂。それは、奇跡の宗教建築です。 後白河院が、当時住んでいたという法住寺殿の中に、長寛2(1164)年に建立しました。 そして、これを全力でサポートしたのが平家総帥・平清盛です。 1001体という黄金の観音の恵みを与えられることで、人々が救われる浄土を、後白河院と清盛はこの世に作ろうとしたのです。 千手観音の正式な名称は十一面千手千眼観世音菩薩といいます。つまり、千の眼をもって、世の人の苦難を見、千の手をもって、世の人の苦難を救う仏です。 人々が救いからもれてはいけないので、なるべく多くの手、すなわち千の手を持っているのです。 観音は33の姿に変身して現れ人々を救います。そのゆかりからお堂の内陣の柱の間数が33あり、三十三間堂と呼ばれるようになりました。 内部は極彩色の文様

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    • 誕生日に読み返す『星の王子さま』『一日一生』【再読】大切な本 - 光の人生ノート ~ My Scrap Book~

      読書が趣味です。 最近は、ブログのせいで本を読む時間が減ってしまっていますが、どこででも本を読んでいたい方です。 次から次へと読みたい本が出てくるので、買っても読めていない本が数冊あり、追いついていません。 そして、読み終えた本も大好きな本はなかなか処分できずにいます。 もう一度読みたいほど感動した本でも、なかなか実際には再読することってないのですが、 でも、自分の誕生日の日には読み直そうと思っている本が2冊あるのです。 数年前に決めたことです。 誕生日の日に読むことはできなくても、近い日に読み直そうと。 その本とは『星の王さま』と『一日一生』です。 誕生日に読み返す大切な本 『星の王子さま』 『一日一生』 まとめ 誕生日に読み返す大切な本 8月が誕生日でしたが、今年も読みました。 サン=テグジュペリの『星の王子さま』 天台宗大阿闍梨酒井雄哉さんの『一日一生』 1冊ずつ紹介してみます。 『

        誕生日に読み返す『星の王子さま』『一日一生』【再読】大切な本 - 光の人生ノート ~ My Scrap Book~
      • 新納氏は14世紀から続く、じつは南九州の歴史のカギを握る一族!? - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

        戦国時代の島津氏の家臣には、新納氏の名が見える。それなりに知られている人物としては新納忠元(にいろただもと)とか、新納旅庵(にいろりょあん)とか……。新納氏は島津氏の支族で、その歴史は14世紀の南北朝争乱期よりはじまる。 新納氏についてあらためて調べてみると、島津氏の歴史にものすごく絡んでくるのである。また、島津本宗家にはけっこう新納氏の血が入っていたりもする。 足利尊氏から新納院を与えられる 志布志の領主 新納忠臣 島津本宗家の外戚になる 新納氏と伊作氏 肝付氏の外戚にもなる 新納是久の娘(常盤) 新納忠澄と新納康久 新納家嫡流の隆盛と没落 新納忠元 新納忠堯 新納忠増 新納忠在(島津久元) 新納旅庵(新納長住) 新納久脩(新納中三) なお。日付については旧暦で記す。 足利尊氏から新納院を与えられる 島津氏4代当主の島津忠宗(しまづただむね)には7人の息子の名が伝わっている。その四男の島

          新納氏は14世紀から続く、じつは南九州の歴史のカギを握る一族!? - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
        • 島津義弘の戦歴(3) 異国での戦い、関ヶ原からの生還 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

          九州を席巻しつつあった島津氏だが、天正15年(1587年)5月に豊臣秀吉に屈服した。これ以降の島津義弘(しまづよしひろ)の戦いは、豊臣政権下でのものとなる。 天正15年8月から「島津義弘」と名を改める。それまでは「島津義珍(よしまさ)」と名乗っていた。島津義弘の「強さ」のイメージは、老境に入ったこの頃以降の戦いぶりからきているようにも思う。朝鮮の泗川(サチョン)の戦いのときは63歳。関ヶ原の戦いは65歳での参戦だった。 その戦場での凄みは、経験によるところが大きいと思う。なんといっても、踏んできた場数が多いのである。若い頃から厳しい戦場に身を投じ、そして生き抜いてきた。その中で「戦場での感覚」が研ぎ澄まされた、という感じだろうか。 豊臣政権下の島津氏 豊臣家に従う島津義弘、距離をおく島津義久 島津義弘が栗野に移る 文禄の役 日本一之遅陣 梅北一揆 転戦 島津久保の死、島津忠恒が後継者に 島

            島津義弘の戦歴(3) 異国での戦い、関ヶ原からの生還 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
          • 7 島津奔る 池宮 彰一郎(1989) - 小説を 勝手にくくって 20選!

            【中古】島津奔る 上巻/ 池宮彰一郎 価格: 460 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 豊臣秀吉の島津征伐後に家督を兄義久(龍伯)から譲られた島津義弘。秀吉の命により朝鮮に出兵したが、敗勢の中秀吉が薨去して帰国命令が出る。明・朝鮮連合軍は20万、対して島津軍は6千余り。しかも日本軍は皆退却の中にいて、援軍は期待できない。殿(しんがり)となった島津義弘は、「釣り野伏せ」の陣を引き、20万の連合軍を完膚なきまでに打ち破ると、続けて朝鮮水軍の英雄李舜臣をも撃破し、義弘は敵から「石曼子(シーマンズ)」と恐れられる。 しかし領国は、長年の戦闘続きで疲弊しきっていた。しかも軍事を担当する義弘に対して、内政を担当する前当主で兄の義久は、戦で名を高めた義弘に嫉妬心を持つ。家中では宿老の伊集院忠棟が秀吉の朱印状を盾に、家政を壟断する。義弘は息子忠恒を使い伊集院忠棟を切り捨てることで家中を治めたが、忠棟の子伊

              7 島津奔る 池宮 彰一郎(1989) - 小説を 勝手にくくって 20選!
            • <天下分け目の関ヶ原6>壮絶! 島津の退き口を追う(1/2) - 歴史ぶらり1人旅

              こんにちは、rekikakkunです。 関ケ原シリーズ最後を飾るのは、 やはり、島津の退き口ですよね~。 いつか探訪したいと思っていたところ、 このはてなブログで、私が読者として登録 させていただいてる記事に、 桐野作人さん著の「関ケ原島津退き口」 の著書がご紹介されておりました。 (加筆版ですが、2022年10月の初版です) 早速購入して読んでみたところ、読み応え充分。😊 多くの興味深い情報を得ることが出来、 かつとても面白かったです。 ご紹介ありがとうございました。m(__)m 今回、この本を参考にしながら行ける所まで、 島津軍退き口の史跡をおおよその時系列で 追ってみたいと思います。 今回投稿場所の地図です。 ①島津義弘の関ケ原布陣(薩摩池) ②関ケ原合戦開始(開戦地) ③島津軍突破開始(島津陣所跡) ④家康本陣を迂回(徳川家康最後の陣跡) ⑤伊勢街道に入る(地図上でプールを代替借

                <天下分け目の関ヶ原6>壮絶! 島津の退き口を追う(1/2) - 歴史ぶらり1人旅
              • 運慶(3)~神格化された名工 - 大和徒然草子

                皆さんこんにちは。 日本の彫刻史上、最も有名な人物の一人として知られる運慶を取り上げて今回が3回目の記事になります。 前回は、壮年の運慶の活躍を中心にご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 新たな時代の支配者として台頭してきた東国武士と、親密な関係を早くから構築した奈良仏師は、源頼朝が全国的な権力を掌握後、南都復興における仏像造像の中心的な存在となっていきます。 父、康慶最後の大仕事となった大仏脇侍の造像と、運慶が棟梁として初めて臨んだ東大寺南大門金剛力士像の造立で、慶派の南都復興における存在感は、最大のものとなっていきました。 今回は、その後の運慶と、没後の評価の変遷をご紹介したいと思います。 興福寺北円堂 晩年の運慶 高まる名声 運慶の実像 興福寺北円堂 1203(建仁3)年、東大寺南大門金剛力士像の造像を果たし、法印という僧鋼位の最高位に上り詰めた運慶。 次

                  運慶(3)~神格化された名工 - 大和徒然草子
                • <天下分け目の関ヶ原7>壮絶! 島津の退き口を追う(豊久編)(2/3) - 歴史ぶらり1人旅

                  こんにちは、rekikakkunです。 関ケ原シリーズ、島津の退き口の2回目です。 前回は関ヶ原を突破し、伊勢街道を南下、 鳥頭坂の史跡を越え、長寿院盛淳の戦死場所、 上石津町牧田の地まで追跡しました。 長寿院盛淳の碑(上石津町牧田) 牧田の地は関ケ原盆地から おおよそ4km程伊勢街道を南下した場所で、 養老山系北端の小さな平野です。 そしてここは南下の際に、養老山系の東側を通る道と、 西側を通る道の分岐点になります。 伊勢東街道、伊勢西街道とも言われたそうです。 マップに追記してみますと、下図の感じです。 関ケ原盆地から、伊勢東街道(赤線)と伊勢西街道(黄線)を見る 牧田の分岐点辺りで撮影した写真ですと、 こんな感じです。 中央少し左が養老山系。その北端から分かれる ここから、1つの有名な伝承で話を進めていきます。 長寿院盛淳達の奮戦により、東軍の追撃を 牧田の地で一時的に防いでいる間に

                    <天下分け目の関ヶ原7>壮絶! 島津の退き口を追う(豊久編)(2/3) - 歴史ぶらり1人旅
                  • 豊薩合戦、そして豊臣軍襲来/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(7) - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

                    島津義久(しまづよしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)の四兄弟の進撃は、島津氏の最大版図を築く。九州の大部分を制圧しようとしていた。 そして天正14年(1586年)、島津と大友が全面抗争へ。島津氏は大友氏領内への侵攻を開始する。一方の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)・大友義統(よしむね)は豊臣秀吉を頼った。豊臣秀吉は九州に大軍勢を派遣する。 島津と大友の微妙な関係 天正14年の九州の勢力図 島津の両殿体制、そして日向の末弟 島津と毛利 豊臣秀吉の惣無事令 戦を急ぎたい島津家臣団 豊後攻めが決まるが…… 筑前へ出陣 勝尾城の戦い 岩屋城の戦い 立花山城は落ちず 豊薩合戦 豊後南郡の戦い、落ちない岡城 島津家久の進軍 鶴賀城の戦い 戸次川の戦い 府内を陥落させる 将軍からの手紙 島津軍の撤退 根白坂の戦い 島津義久の降伏 それぞれの降伏 島

                      豊薩合戦、そして豊臣軍襲来/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(7) - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
                    • 「1185年でも1192年でもない」源頼朝をトップとする鎌倉幕府が成立した本当のタイミング 『吾妻鏡』にはそう書いてある

                      「それなりの町」だった鎌倉に武士が押し寄せた さて、頼朝たちがやって来た当時の鎌倉の地について、『吾妻鏡』は、漁師などしか住んでいない辺鄙な田舎。〔所はもとより辺鄙にして、海人・野叟(田舎者)のほかは、卜居の類これ少なし〕とド田舎だったように記している〔治承4年(1180)12月12日条〕。 しかし、これは言い過ぎである。 鎌倉は、源頼義が岳父(妻の父)平直方から譲られて以来の「河内源氏」の根拠地であり、寺院も複数建てられている、それなりの町であった。ちなみに、このような場所を現在、歴史学界では「都市的な場」(分かり易く言い換えれば、「都市っぽい場所」)という、考えてみると意味のよくわからない言い方で呼んでいる。 だが、頼朝の鎌倉入りが、鎌倉の町の様相を激変させたのは間違いない。 鎌倉入りの時点で、頼朝は相模・武蔵・安房・上総・下総の南坂東五カ国に伊豆を加えた六カ国を支配下に収めていたので

                        「1185年でも1192年でもない」源頼朝をトップとする鎌倉幕府が成立した本当のタイミング 『吾妻鏡』にはそう書いてある
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