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「1185年でも1192年でもない」源頼朝をトップとする鎌倉幕府が成立した本当のタイミング 『吾妻鏡』にはそう書いてある
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「1185年でも1192年でもない」源頼朝をトップとする鎌倉幕府が成立した本当のタイミング 『吾妻鏡』にはそう書いてある
「それなりの町」だった鎌倉に武士が押し寄せた さて、頼朝たちがやって来た当時の鎌倉の地について、『... 「それなりの町」だった鎌倉に武士が押し寄せた さて、頼朝たちがやって来た当時の鎌倉の地について、『吾妻鏡』は、漁師などしか住んでいない辺鄙な田舎。〔所はもとより辺鄙にして、海人・野叟(田舎者)のほかは、卜居の類これ少なし〕とド田舎だったように記している〔治承4年(1180)12月12日条〕。 しかし、これは言い過ぎである。 鎌倉は、源頼義が岳父(妻の父)平直方から譲られて以来の「河内源氏」の根拠地であり、寺院も複数建てられている、それなりの町であった。ちなみに、このような場所を現在、歴史学界では「都市的な場」(分かり易く言い換えれば、「都市っぽい場所」)という、考えてみると意味のよくわからない言い方で呼んでいる。 だが、頼朝の鎌倉入りが、鎌倉の町の様相を激変させたのは間違いない。 鎌倉入りの時点で、頼朝は相模・武蔵・安房・上総・下総の南坂東五カ国に伊豆を加えた六カ国を支配下に収めていたので