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日本語の複文には2種類のタイプが組み込まれていて、ひとつは連用修飾節、もうひとつが連体修飾節です。 最後の述語に向かって、言葉は係っていくのですが、その終着点が用言(動詞・形容詞)か、もしくは、体言(名詞)なのかという違いですね。 Ⓐ金曜日にコンサートへ行くので、帰りが遅くなる。 という複文の場合、「金曜日にコンサートへ行くので」が、「遅くなる」という述語に係る連用修飾節になります。 金曜日にコンサートへ行くので、(帰りが)遅くなる。 一方で、 Ⓑ正直不動産から購入したマンションに住むヒロシ の場合、「正直不動産から購入したマンションに住む」が「ヒロシ」に係る連体修飾節です。 このⒶⒷの日本語を会話で言い変えるとすると、Ⓐの連用修飾節は自然な感じがしますが、Ⓑは、なかなか口にしないのではないかと思います。 「昨日、正直不動産から購入したマンションに住むヒロシに会ってさ・・」とは、言わないで
昭和初期の国文学者・折口信夫氏によると、日本語の表現のベースには「対偶欲求」というものが存在し、短歌・旋頭歌という形も、その対偶欲求性が繰り返されることで、作り出されているそうです。 たとえば、 かみのほくらも はしだてのままに (垂仁記) ところえぬ たまつくり (垂仁記) やまさちもおのがさちさち うみさちもおのがさちさち (神代記) これらは二句対の偶数律で、一句に対する一句、という対偶欲求により構成されています。 つまり、心地よいリズム表現を生むための、くり返しの欲求であり、後句は前句に対するバランス欲求だと言えるんです。 文や文章というのは一線状に表現されていきますので、読み手は文章を目で追っているとき、自然にその先の内容を自分なりに想定しながら読み進めているといいます。 一句に対しての一句、1文に対しての1文、といったように、細やかな「問」と「答」を対応させながらバランスがとら
英文法にはあるけれど、国文法では取り扱われないのが「関係詞」で、日本語の品詞に「関係詞」は存在しません。 「関係詞」というのは、関係節で修飾される内容を、前で受ける役割を持つ英単語のことです。 「when」とか「where」といった単語のことで、先に提示され、そのあとに続いて詳しく述べられるコトガラ内容が関係節になります。 Ⓐ Let's go to the living room where it's cool. (居間へ行こう/そこは涼しい) Ⓑ Do you remember the day when we first met ? (あの日のことを覚えているかい/その日に僕たちは初めて会った) いずれも、関係詞のあとに「そこは涼しい」「その日に僕たちは初めて会った」という修飾語が続いているのが読み取れます。 そう、英文の場合、関係詞をひとつの「しるし」として先に提示することで、関係詞
好きな俳優の声も聴きたいので洋画を字幕版でしか見ないという友人は、画面、字幕、画面と、目で追うのが忙しくて、といいます。 私はもっぱら、配信コンテンツでアメリカ映画を見るときは日本語の吹替え版。 最近の吹替は細部にわたりズレが調整されているので、デンゼル・ワシントンなんかが本当に日本語で話しているようで全く違和感を感じさせません。 昔のブルース・リー映画の吹替版なんかを見ていると、決めセリフはもう言い終わっているのに、口だけが動いていたりしていました(笑) そして、注意深く聞いていると、邦画とは違って、洋画の場合は連体修飾節で語られるセリフが頻繁に出てくるのに気づかされます。 連体修飾節は翻訳調の日本語と例えられるぐらいですから、翻訳する人が日本語に差し替えやすいのかもしれません。 「それはそうと、スミスよ、CIAが購入した海に入るときは潜水艇としても移動できるという例の高性能ジェット機の
日本のバブル経済の崩壊は、1990年1月の株価暴落から始まり、一般的に1991年2月頃に景気後退へ転じたといわれています。 哲夫さんが求人情報誌「ドーダ」を発行・販売する「求人センター」に入社したのは、まさにこの頃です。 彼が求人掲載の依頼を受けるために大阪で勤しんでいた期間、それはちょうど、日本の企業が揃って衰退していく時期とリンクしていたんですね。 まだ20代前半だった哲夫さんは、株価暴落に伴うこの国の景気の後退を、経済の現場で肌で感じ始めることになります。 企業は中途採用の計画を次々と取りやめていき、電話帳のようにぶ厚い求人情報雑誌の「ドーダ」は日に日に薄っぺらくなっていきました。 また、「求人センター」という会社の雰囲気も悪くなっていき、退職者も続出したんですね。 なにしろ、「求人センター」の現場には中途募集の情報が溢れているわけですから、好条件の待遇や、もっと楽で稼げる仕事を探す
日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人、正岡子規。 俳句、短歌の革新運動を進め写生論を提唱しました。 子規は「叙事文」という文章論で次のように述べています。 文章の面白さにも様々あれども、古文雅語などを用いて言葉のかざりを主としたるはここには言はず。将に作者の理想などたくみに述べて傾向の珍しきを主としたる文もここに言はず。ここに言はんと欲するところは、世の中に現れ来たる事物(天然界にても人間界にても)を写して面白き文章を作る法なり。 「実際の有のままを写す」手法を写実とも写生ともいう、と子規は言います。 写生という語からもわかるように、そこには絵画の影響が強く見られます。 絵画の手法というものが下敷きになっているその文語表現はいっそう具体的だと述べているんです。 そして、「ここには言はず」の例として、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」とまで言い放
日本語の核となっているのは述語であり、補足する構成素が述語の補語として加わり、次々と意味を限定していきます。 「述語の統叙」と呼ばれるこの働きは、述語の優位性を示していて、日本語の中心に位置するのが述語であることを裏付けています。 英語とは違って、日本語では、主体(動作主)中心の論理的な表現にこだわらず、主体不在の状況の推移を順次述べていって、最後の述語でまとめ上げるという表現法をとるんです。 動詞文「(もう)寝る(よ)」 形容詞文「(ずいぶん)寒い(ね)」 名詞文「(また)雨だ(ね)」 といった述語文を基本として、次いで、「が」「を」「に」に見られるような、格助詞に名詞が付いた補語の要素が追加されて、さまざまなパターンの文が構成されているんですね。 たとえば、「彼が彼の棲家である岩屋を出ようとした」という文の場合、述語「出ようとした」が核となって、「彼が」「彼の棲家である岩屋を」という2
日本語の文のタイプは、動詞述語文、形容詞述語文、名詞述語文と、わずか3種類に限定されています。 それぞれの述語は「統叙」という機能を持ち、前に並ぶ文の成分を最後にまとめ上げるんです。 たとえば、 雨が降り出したので、裕子とパシフィックホテルに駆けこむ。 という動詞述語文の場合、「駆けこむ」という述語が「雨が降り出したので」「裕子と」「パシフィックホテルに」という3つの成分をまとめ上げて文を完成させています。 「雨が降り出したので駆けこむ」 「裕子と駆けこむ」 「パシフィックホテルに駆けこむ」 君は薔薇より美しい。 という形容詞述語文の場合でも、「美しい」という述語が「君は」「薔薇より」という成分を統叙しているわけです。 では、残る名詞述語文はどのような構成になっているのでしょうか。 あの人気バンドのドラムスがヒロシだ。 厳密にいうと、この文の述語である「ヒロシだ」の「ヒロシ」という名詞その
ではあるのだけれど 夏目漱石の小説のなかに「吾輩は猫である」という著名な作品があります。 漱石はなぜ「吾輩は猫だ」とせずに「猫である」というタイトルにしたのでしょうか。 「である」と「だ」という言葉は繫辞(けいじ)と呼ばれていて、主題と述語を結ぶ品詞の役割をはたします。 このタイトルの場合、主題が「吾輩」で述語が「猫」にあたり、それを「である」で最後に括ることで文として完成されているんです。 「猫ではある」「猫ではない」、この「ではある」「ではない」という二つの言い方は、日本語で判断を表すための肯定否定の典型的な形式となっているんですね。 断定の助動詞「だ」を連用形「で」にして、「は」という係助詞で受けとめ、形式用言「ある」「ない」で括っています。 「ではある」と聞くと、「ではあるのだけれど」と続くような感じがします。 そう、「だ」と、断定的に言い切らないことで少し柔らかな表現とされている
日本語と英語の違い 言語博士の金谷武洋氏は、日本語と英語の発想の違いを次のように説いています。 「日本語は人間を表すというよりも、自然中心の言語表現が多くて、逆に、英語は人間の行為をせっせと表現する。」 つまり、意図を持った行為として言語表現する傾向が英語の場合は非常に強いということなんですね。 「国文法」の世界では、日本語は「(ある)言語」、英語は「(する)言語」と呼ばれているんです。 ここで分かりやすく見るために、同じ内容のセンテンスを日本語と英語で比べてみましょう。 Ⓐ I have time.→ 時間がある。 Ⓑ I understand Chinese.→ 中国語が分かる。 Ⓒ I like this city.→ この街が好きだ。 Ⓓ I see Mt.Fuzi.→ 富士山が見える。 Ⓔ I hear a voice.→ 声が聞こえる。 英語の例文はことごとく他動詞を使った積極
文学的な表現 ときおり、小説の物語に出てくる異質な表現、それは、「文学的な表現だね」などと、よく言われます。 実際に読んでいて、「あれ、これって文学的な描き方だな」と思わされることも少なくありません。 独創的な発想で描かれた、その作家の表現を読んでいるとき私たちは、「何が書かれているか」よりも、「どう描かれているか」という文体表現そのものを味わっていると言ってもいいのではないでしょうか。 たとえば、それは、助詞がひとつ置き変えられた文を読んだだけでも感じとることができるんです。 Ⓐそのはんかちは、苗子の涙にぬれていた。 (川端康成 古都) ごく自然な文章ですが、「涙で」ではなく、「涙に」とされているところに、何か引っかかりを覚えます。 こういった微妙な表現の違いだけでも、読み手である私たちに文学的な印象を感じさせるのです。 たとえば、 Ⓑ① 雨でそでがぬれる。 Ⓑ② 雨にそでがぬれる。 と
自然と人間 「踊る文章」、作家の井上ひさし氏は、自然と人間との対比が見事に描かれている文章をこう呼んでいます。 自然と人間とを同時に捉えるということ。 自然の細やかな変化やその美しい現れを人間との対比において巧みに描くことができれば、そのとき、文章は勝手に踊り出していくに違いないと説いているんですね。 人が自分の存在を自然のなかで意識するとき、目、耳、鼻、肌など、感覚器官を全開にして自然を捉えているのだと氏は言います。 自然に感覚器官をぶつけて、客観世界と親しく触れ合う。 この触れ合いによって精神が踊り出し、自然と自己が同時に発見されるに違いないということなんです。 では、参考文章として、主人公の感覚器官が全開され、もはや自然と一体化しているさまが見事に描きだされた名作の一部を見てみましょう。 静かな夜で、夜鳥の声も聴こえなかった。そして下には薄い靄がかかり、村々の灯も全く見えず、見えるも
中立法 文章を構成している一つひとつの「文(センテンス)」。 句点「。」から句点「。」までの単位を「文」とするなら、主語と述語が一つずつしかないという単純なものはほとんど見られません。 複数の主語と述語が組み合わさって、複雑な「複文」として書かれているのが普通ではないでしょうか。 そして、その「複文」のなかでも最もよく使用されているのが、いわゆる「中立法」と呼ばれるものです。 中立法には2種類あって、まず一つ目が、次の例文に見られるような動詞の連用形です。これを「~し」形としましょう。 空はひび割れ、太陽は燃え尽き、月は砕け散っても。 もう一つの形態が「て」形です。ここでは「~して」形と呼んでいきます。 黒板の前に立って、生徒たちに問いかけた。 「~し」形と「~して」形、極論を言うなら、中立法を使えばどこまでも文を続けていけることができるのです。 ただ、中立法で区切られた前の動詞は、独自の
混用 私たちが文章を書くとき、その文体のスタイルというのは、丁寧形(です・ます)、普通形(る・た)といったように、大きくふたつに分けることができます。 少・中学校の作文の授業では、ふたつのタイプの文体を混ぜ書きすると、「統一しなさい」と赤ペンで大きく訂正が入れられました。 実際に混ぜ書きした自分の文章を改めて読み返してみると、確かに、何か違和感を感じたものです。 前回の記事では、文末を省略した投げ出し提示文と、丁寧形を混ぜ書きしても、表現として特に問題はないということを確認しました。 ですが、語尾を省略することなく(る・た)と書ききった普通形タイプと、丁寧形タイプを上手く混用させるなんてことは、果たして可能なのでしょうか。 もし可能であるとして、上手く使いこなせれば、きっと、自分自身の文章表現の幅は確実に広げることができるはずです。 今回は、どうすればそうした混ぜ書きを自然に表現できるのか
最後にくる言葉 日本語の文体において、読み手が最も注視するのは文末です。 なぜ注視するのかというと、文末というのはもっとも重要な情報が含まれているために焦点化されやすいからなんですね。 また、日本語というのは語順が決まっていて、最後にくるのは必ず述語となります。 読み手は焦点化されている文末をとくに関心をもって読み進めていくのですが、つまりそれは、常に述語の内容に注目しているということと同じことになるんです。 実際に日本語の会話というのは、「昨日、どうした、行ったの?」「行った、でもたいしたことなかったよ」「そう、たいしたことないんだね」といったように、なんの話題なのか、お互いが認識さえしていれば、「行った」「たいしたことない」という述語だけで十分に会話は成り立つのです。 これを文に置き換えても同じことで、書き手が本当に伝えたい内容は述語に集約されているといえます。 あくまで述語を補足する
ケイゾク 前回の記事では、「ボイス」と呼ばれる出来事における書き手の立場を表す概念について考察しました。 「する・させる」というように能動的な立場をとるか、それとも「れる・られる」といった受動的な立場をとるのかといった違いです。 引き続き、文末表現における重要カテゴリーとして、今回は「アスペクト」について少し触れていきたいと思います。 出来事がどのような「局面」にあるかを表すのがアスペクトです。文法用語では「相」と訳されています。 局面とはつまり、出来事が「完結」しているのか、それとも、まだ「継続」しているのか。それが、アスペクトの基本的概念となるんですね。 まずは、わかりやすく例文を見ていきましょう。 Ⓐヒロシはさっきごはんを食べた。 Ⓑヒロシはさっきごはんを食べていた。 ⒶⒷの共通点は、「過去」の出来事を表しているという点にありますが、Ⓐは「さっき」の時点で「ごはんを食べる」という事態
二者択一 世に出ている日本語文法の入門書のたぐいというのは、ピックアップされている重要項目がほぼ共通しています。 そこでは、①ボイス②アスペクト③テンス④ムード といった4項目が基本として構成されているんです。 ブログで記事を書くときでも、自分の書いた文章が何となくしっくりこない時は、この4つのうちのどれかを見直すことで大抵の問題は解決できると思います。 というよりも、書くときに試行錯誤をかさねてしまうのは、ほとんどこの4項目の使い方を無意識的に模索してしまっているからなんです。 どういうことなのかというと、これら①~④は、全て、文の最後の動詞述語に付ける言葉で表現されるものであり、まさに、そこは文の尻尾(しっぽ)のところにあたる言葉なんです。 そして、それらは例外なく二者択一という形がとられています。 ①のボイスでは、(能動「する」 vs 受身「られる」)という対立、②のアスペクトでは、
感情移入 小説を大雑把に区分けすると、一人称視点の小説と、三人称視点の小説に分けることができるのではないでしょうか。 ここでいう視点とは、つまり、物語が誰からの目線によって語られているかということなんです。 対象をどこから見つめているのかを表す「視座」と言い換えることもできるのですが、この記事では「視点」という表現で続けていきたいと思います。 まず、一人称視点の小説では、「ワタシ」「ボク」「オレ」といったように、自らを一人称で語る主役が登場し、物語は展開されていくことになります。 逆に三人称視点になると、まるで天の声のような、ナレーションによる語りを聞くように、読む進めていくことになるんですね。 一人称視点で語られる小説は、どこまでも一人称で物語は続いていくのですが三人称視点の場合は少し構成が変わってきます。 ナレーションによる外からの視点で物語が進行していくだけでなく、途中ところどころに
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思いをぶつける文章 「~するコト」、という言い方を私たちはよくします。 「負けないコト」「投げ出さないコト」「信じぬくコト」 じつは、この「コト」という言葉は「形式名詞」と呼ばれていて、動詞述語文や形容詞述語文の後ろに続くことで、名詞文に変換させてしまう文法的役割を持つんですね。 たとえば、「そこに行かなければならない理由は・・」という連体修飾節を例にして説明しますと、「そこに行かなければならない」という言葉は、「理由」という主名詞を修飾する修飾語の役割をはたしているといえます。 あくまでこの文の主役は「理由」であって、「そこに行かなければならない」という文節は、「理由」という名詞を詳しく説明するための補足・飾りにすぎないんです。 ところが、「そこに行かなければならないコトは・・」という文になった場合、その意味合いは大きく変わってきます。 このように「コト」という言葉でまとめ書かれた文で主
文と文をつなぐ接続助詞にはさまざまなタイプが存在します。 たとえば、 Ⓐ紅葉の時期を迎えると、京都は観光客で溢れかえります。(順接条件節) Ⓑいくら練習をかさねても、少しも上達しません。(逆接条件節) Ⓒ風を引いたので、仕事を休みます。(原因・理由節) Ⓓ資格を取るために、学校へ通います。(目的節) 各文ともに、「と」「ても」「ので」「ために」といった接続助詞によって、前後ふたつの単文をつなぎ合わせて複文が構成されているのがわかります。 これは、ふたつの文が接続助詞で連結されることによって、何らかの論理的関係がそこに生みだされていることを意味するんです。 当然、そこには時間的前後関係や因果関係があり、「前半+後半」というメリハリがふたつの出来事を強く倫理的に結びつけていることがわかるんですね。 ですが、これらの接続関係というのは、前半の従属節にモダリティ表現が含まれてしまうと、ひとつの文と
昨日、BARで 今回は、文が他の文の(修飾)成分になる「連体修飾」について考察したいと思います。「連体修飾」は、名詞を修飾する言葉ですね。 まず次の文を見てみて下さい。 Ⓐ昨日、BARでヒロシがきれいな女の子とお酒を飲んでいた。 昨日 飲んでいた BARで 飲んでいた ヒロシが 飲んでいた きれいな女の子と 飲んでいた お酒を 飲んでいた このように、左に並べられた文の成分たちは基本的に右の述語「飲んでいた」を修飾することで「連用修飾成分」と呼ばれています。 ところが、この各成分の中にひとつだけ異質なものがあります。それが「きれいな」です。 そう、この「きれいな」という言葉は「飲んでいた」を修飾しているのではなく、あくまでも、「女の子」という名詞を修飾しているんです。 こうした名詞を修飾する成分は「連体修飾成分」と呼ばれ、直接述語を修飾する「連用修飾成
言葉の響きと文章の調 文章読本としては異例のロングセラーとなった「日本語の作文技術」。 著者である本多勝一氏はその本文のなかで、文章表現における巧みなリズム感の必要性を強く説かれています。 本多氏によると、人は本を読むとき目で活字を追いながら無意識にリズムを感じ取っているのだといいます。 だからリズムの無茶苦茶な文章は、読者を無意識的にイライラさせ、長時間の読書を耐え難くさせてしまう原因となってしまうのです。 また、谷崎潤一郎や川端康成といったいわゆる文豪と呼ばれる小説家たちが書き下ろした「文章読本」の類でも、このリズムとか調子に対する考察が大きな比重をかけて説かれているんですね。 とくに、川端康成のリズム調へのこだわりには並々ならぬものが感じられ、その思想に非常に興味深く引き付けられます。 少年時代、私は「源氏物語」や「枕草子」を読んだことがある。手当たり次第に、なんでも読んだのである。
そこに「場面」をともなうか 日本語の表現のひとつに、受身、または受動態と呼ばれている文法カテゴリーがあります。 「思われる」「求められている」「販売されている」などといったように、他に働きかけることを表す他動詞に「れる/られる」がついた表現ですね。 なぜ、私たちは知らず知らずのうちに文の最後に受身表現を使ってしまうのでしょうか。 さらに、それによって読み手にどのような表現効果を与えているのでしょうか。 その理由を考察するためには、まず前提として、日本語のテキストは2種類のタイプにハッキリと区分されているという事実をもう一度強く意識下に置いておかなければなりません。 ひとつは小説・報道文といった描写文であり、受身を使うことで主語に視点を近づけ「私」を投影することができます。このタイプのテキストには常に具体的な「場面」がともないます。 そしてもうひとつのタイプが、その具体的な「場面」をともなわ
アスペクト 皆さんがブログを執筆されるとき、そう、たとえば動詞を使って、一つの文の締めくくりを表現されているとします。 「走る。」「食べる。」「買う。」、確かに自分が書いている言葉なんだけど、妙に、何だかしっくりこないなと、感じられたことはなかったでしょうか。なにか、落ち着きが悪いというか。 そんなとき、「走っている。」「食べている。」と書き直すだけで、面白いほど、自分が表現したかった内容にピタッとハマったという経験をされたことがきっとあるはずです。 これはアスペクト(局面)と呼ばれる文法カテゴリーの話になるのですが、今回はそのアスペクトの法則を説明していきたいと思います。 「現在」「過去」「未来」、私たちは身に起きた出来事がどこの時点で発生したのか、もしくはするのかを常に意識しながら生きています。 「出来事」という概念は「事柄」と言い換えたほうがわかりやすいのかもしれません。 事柄が「い
たったひとつしかない係助詞 「は」 わたしたちが日本語で文を書こうとするとき、その語順は比較的自由に並べることができます。 英語の場合ですと、主語は原則として必ず文頭に置かれ、それに合わせてbe動詞や一般動詞の選択がされることになります。 つまり、語順を勝手気ままに変えることはできないんです。 一方、日本語ではあくまでも文末の述語が中心的存在になるので、名詞と助詞(後置詞)がセットになった補語を、述語にペタペタと貼り付けていくだけで文は完成されます。 だから、日本語の文では、「が」のついた主語が必ず文頭に置かれるなんて必要はどこにもないんですね。 ヒロシが 裕子に 花束を 贈った。 花束を ヒロシが 裕子に 贈った。 裕子に 花束を ヒロシが 贈った。 といったように、「贈った」という述語を中心としてどこまでも語順の並べ方は自由であり、「ヒロシが」という主語の定位置が別に決まってるわけでは
コンテキスト依存型 前回、ご紹介した奥津敬一郎(著)「(ボクハ ウナギダ)の文法」について、今回も少しだけ考察していきたいと思います。 奥津氏のこの著書は1978年に初版が発行されて以降、増版が繰り返され、文法書としては異例のロングセラーとなりました。 「ボクハ ウナギダ 文」という文が定型文のひとつとして呼称されるまでになり、テレビでも「わたしは スバルです」「やっぱり、俺は菊正宗」なんていう「モジリ文」のキャッチコピーを使ったCMが放送されるなどして、ウナギ文がそこら中に出回るようになったんですね。 「ボクハ ウナギダ 文」というのは、どういう文なのかというと、 僕は ウナギ を食べる 僕は ウナギ を釣る 僕は ウナギ だ というように、「食べる」「釣る」という動詞を、助動詞「だ」に置き換えた文になります。 ただ、「だ」型文の成立はあくまでそれまでの会話の流れ、文脈というコンテ
必ずでてくる例外 「日本語学の教科書」と呼ばれる、いわゆる文章教本をいろいろと読み漁っているうちに気づいたことがあります。 それは、日本語の文章論や文法の定義なんていうものを究極の部分まで細かく突き詰めようとしても、明確な正解なんてものを掴むことは、たぶん、できないんだということなんですね。 大まかな論理ではおよそ同じようなことが述べられ統一されてはいるのですが、細部まで突き詰めれば、真逆の説明がなされていることも多いのです。 たとえば、「日本語のセンテンスで一番大切とされるのは述語である」という理論はおよそ統一されているのですが、「同じように主語も大切だ」という意見もあれば、「主語なんてのは、他の補語と同じレベルに過ぎないんだよ、いや、そもそも主語なんて言葉すらもおかしいだろ、それは英文法の話なんだよ」なんていうように書かれている教本もあります。 どちらの理論を信じるのかは自分次第なんで
縦と横で織りなされるセンテンス 日本語のセンテンスは単文と複文に分けられるのですが、述語がひとつの文が単文、ふたつ以上の述語が組み合わされた文が複文です。 たとえば、 Ⓐヒロシはウワサを聞いた。 という文をひとつの単文だと捉えた場合、 Ⓑヒロシは(裕子が結婚するという)ウワサを聞いた。 という文は「裕子が結婚するというウワサ」という連体修飾節のついた複文ということになります。 Ⓑの複文の中には、Ⓐの「聞いた」で括られた動詞述語文と、 Ⓒ裕子が結婚するというウワサだ。 という名詞述語文が実質的に含まれていることになり、Ⓑの複文は2つの述語文で構成されていることになるわけです。 Ⓐの文が主節文で、Ⓒの文が従属節文です。わかりやすく言うと、Ⓐが本筋で、Ⓒがその補足文ですね。 ただ、この「裕子が結婚するというウワサ」という連体修飾節は、あくまで「ウワサ」の内容だけを詳しくまとめ説明するものであり、
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