jack 内府 @nakedboss1964 Q 鎌倉幕府や室町幕府がなぜ江戸幕府みたいに安定しなかったの? A.江戸幕府がおかしいんだよ これに尽きる 2022-10-29 18:51:20
室町幕府が滅亡する1年前、戦国武将の織田信長が、当時、幕府の中枢を担っていた武将、細川藤孝に送った書状が見つかりました。「あなたの働きこそが重要だ」などと書かれていて、調査した研究者は、足利将軍の側近と信長が対立を深める中、藤孝を頼っていたことがうかがえる貴重な資料だとしています。 細川家にまつわる歴史資料などを保管する東京 文京区の永青文庫では、信長に関する文書を数多く所蔵していて、今回、熊本大学などの研究グループが収蔵庫で新たな書状を発見しました。 見つかった書状は、室町幕府が滅亡するおよそ1年前の1572年8月、当時、幕府の中枢を担っていた細川藤孝にあてて信長が送ったものだということです。 この中で信長は、将軍の側近たちが手紙などを送ってこないとしたうえで、「あなたからは、初春にも太刀と馬をお贈りいただきました。例年どおりお付き合いくださり、この上なくめでたいことです」とあり、多くの
戦国時代に生きた武将を思い浮かべたとき、関東の武将の名前を言える人は多くない。その関東に目を向けると、室町幕府の見え方が大きく変わる。『13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。』など、日本史をわかりやすく伝える本で人気を博すお笑いコンビ「ブロードキャスト!!」の房野史典氏と、関東の戦国武将の姿から上杉謙信の行動を紐解いた一冊、『謙信越山』を上梓した歴史家・乃至政彦氏の対談、第2回。(全3回)(JBpress) 研究の差が激しい東国の武将 ――房野さんが『謙信越山』に感銘を受けたという話は前回うかがわせていただきましたが、登場した関東の武将で気になった存在を挙げるとすればだれですか? 房野 これはもう里見義堯ですよ。 乃至 里見義堯のことは以前からご存知でしたか? 房野 全然知らなかったんですが、めちゃくちゃ魅力的だと思いました。乃至先生はこの本(『謙信越山』)を書かれていて好きになっ
牧野友衛 | Tomoe Makino @tomoe 京都文化博物館の「祇園祭—足利将軍が見た山鉾巡行—」と「足利将軍、戦国を駆ける!」展へ。⾜利将軍が⼭鉾巡⾏を⾒物した様⼦の資料や、国宝・東寺百合文書等を紹介。撮影不可。「祇園祭」は8月13日まで。「足利将軍」は8月6日まで。 bunpaku.or.jp/exhi_sogo_post… bunpaku.or.jp/exhi_sogo_post… pic.twitter.com/16AO0nsFo6 2023-07-06 19:10:54 リンク 京都府京都文化博物館 - 京都の歴史と文化の紹介。京都府京都文化博物館のご利用案内。総合展示、特別展、フィルムシアターでの映画上映、その他の催物の最新情報。京都府京都文化博物館別館(重要文化財・旧日本銀行京都支店)の紹介。 ~室町幕府滅亡後450年〜足利将軍、戦国を駆ける! - 京都府京都文化博物
冒頭「出陣じゃあ!」と叫んだ武田信玄。…と思いきや、一言でドラマから去っていった石橋凌さん。 「ひったてぇ!」と将軍足利義昭を宇治槇島城(番組最後の紀行で紹介していました)から連れ出し、「これからは、我らの世でござる。」と光秀に告げる木下藤吉郎秀吉。 光秀は敬意を表して、深々と頭を下げる。将軍にね。秀吉じゃないよ。 オープニング曲が始まる前に、ドラマが進む進む(;'∀') ドラマとしてのネタバレではありませんが、史実におけるこの先のネタバレがありますので、ご了承ください。 目次 『麒麟がくる』第37回「信長公と蘭奢待」あらすじ 武田信玄 義昭追放 朝倉義景 浅井長政 今井宗久 蘭奢待 三淵藤英 『麒麟がくる』第37回「信長公と蘭奢待」あらすじ 武田信玄が死に、足利義昭は追放され、浅井・朝倉は戦に負け自害し、いよいよ信長の世になっていく。 武田信玄 死にのぞんで武田信玄は、3年の間、喪を秘す
松永久秀「所司代」 天文18(1549)年、阿波国の戦国大名・三好 長慶(みよし ながよし)は、将軍・足利義晴を京都より追放しました。 実質的に洛中の支配権を握っていた長慶でしたが、初期の頃の権限内容については史料がほとんど残っていないため、よくわかりません。 ただ、家臣である松永久秀を「所司代」に任命したことから、洛中の治安権が中心であったのではと推測されています。 天文22年ころから永禄3(1560)年にかけて、その支配力は揺るぎないものへと強化されていき、その永禄3年には、長慶一族と松永久秀に対する朝廷からの贈位任官が急速に進められました。 ですが、この頃、三好長慶は京ではなく摂津・芥川城に住居し、必要に応じて入洛していました。 京都支配の実権をにぎりながらも、完全な意味での政権の支配者には、なり切っていなかったのです。 長慶が選んだ場所 長慶には強い軍事力の基盤がありました。それは
突然の出来事 長享3(1489)年、室町幕府第9代将軍・義尚(よしひさ)は、弱冠25歳の身でありながら、近江の陣中で戦死しました。 この予期せぬ事態により、足利将軍の座が空白になったので、隠居の身でありながらも大殿の立場にあった義尚の父・義政は、急遽、美濃国にいた弟の義視(よしみ)を京に呼び戻します。 応仁の乱で西軍の大将格だった義視は、敗戦の責任を取らされ追いつめられて、美濃の斯波氏に保護される形で亡命していたんですね。 負け組となってしまった彼は、もう京の町に戻れることはないだろうと覚悟していたのですが、義尚の突然の死という事態に奇跡的な復活を遂げることになるのです。 ただ復活といっても、義視自身が将軍になれるわけではありませんでした。 義視にとって戦死した義尚は甥にあたるので、甥の後継ぎとして叔父が将軍になることになり、それを受け入れることを幕府は出来なかったからです。 こういった前
はじまりの場所 足利政権のはじまりのときに、どこに幕府を開くのか、鎌倉にするべきか、それとも京都にするべきなのかという議論が繰り返し行われました。 新たな幕府にとって政権の所在地をどこにするのかは、極めて重要なテーマだったからです。 そして、国家を不穏な情勢へと導いたある深刻な事件が起きたために、議論の結果選定を待つこともなく、幕府所在地は必然的に京都に固定されることになりました。 後醍醐天皇が大和国吉野に亡命して、南朝政権を発足させたのです。 京都・北朝を守備する必要にせまられた足利尊氏は、新制幕府で対抗することとなり、南北朝の混迷状態がここから長く続いていくことになります。 のちに、室町幕府と呼ばれることになるこの足利政権は、王朝を抱く京の都に始まったのですが、尊氏たちは、やはり馴染みのある東国の要、鎌倉の地に思いをはせていたのでしょう。 このような事態にならなければ、足利一族は、でき
室町幕府は、なんで変なのか 以前も書きましたが、室町幕府を作った足利尊氏が変な人だったというのが1番の理由です。 とにかく、源氏という血筋で、遠くても近くても親戚が集まって、鎌倉幕府を倒して新しい世界を作ったのです。 いろんな源氏どもを一つにまとめるというのは、ただ優秀とか強いとか、そういうことだけでは無理だったのですね。 この足利尊氏という特殊なキャラクターというかカリスマだからこその偉業だったのです。普通の人じゃ無いの。すごく変。 精神に問題をかかえていたみたいな。 とにかく活躍した武将に褒美をやりまくる。 自分の欲というものが無い人なんです。 この初代の将軍が気前が良すぎて、幕府創生期に協力してくれた他の武士たちが広大な領地を持ち、将軍はそうでもないと言う状況で、「みんなで盛り立ててね」という態度の幕府ができてしまいました。 じゃあ大名は 室町時代の守護大名の領土の広さといえば、常識
鎌倉幕府と室町幕府 最新研究でわかった実像 (光文社新書) 作者:山田 徹,谷口 雄太,木下 竜馬,川口 成人光文社Amazon Kindle版もあります。 鎌倉幕府と室町幕府~最新研究でわかった実像~ (光文社新書) 作者:山田 徹,谷口 雄太,木下 竜馬,川口 成人光文社Amazon 鎌倉幕府が滅亡したのは偶然が重なり合った結果だった。 あるいは室町幕府は応仁の乱ののちも存在感を発揮し続けていた―― いずれも、近年の日本史研究で議論されている論点であり、 従来の日本史の常識を覆す研究が次々と発表されている。 本書では、新進気鋭の中世史研究者たちが、 それら最新の学説をまとめて二つの幕府の実像を明らかにする。 巻末には、どちらの幕府が強かったかを議論する執筆者の座談会を収録。 中世史ブームに一石を投じる、すべての歴史愛好家注目の一冊。 2016年10月に上梓された新書『応仁の乱』がベスト
北朝の天皇-「室町幕府に翻弄された皇統」の実像 (中公新書) 作者:石原 比伊呂発売日: 2020/07/20メディア: 新書 Kindle版もあります。 北朝の天皇 「室町幕府に翻弄された皇統」の実像 (中公新書) 作者:石原比伊呂発売日: 2020/09/30メディア: Kindle版 内容(「BOOK」データベースより) 建武三年(一三三六)、京都を制圧した足利尊氏は新天皇を擁して幕府を開いた。後醍醐天皇は吉野に逃れ、二帝が並び立つ時代が始まる。北朝の天皇や院は幕府の傀儡だったと思われがちだが、歴代将軍は概して手厚く遇した。三代義満による南北朝の合一以降、皇統は北朝系が占めた。一見無力な北朝は、いかに将軍の庇護を受け、生き残りに成功したか。両者の交わりをエピソード豊かに描き、室町時代の政治力学を解き明かす。 南北朝時代の天皇といえば、「天皇親政」を目指す南朝と、室町幕府(足利家)に擁
7月 18日は、室町幕府最後の年の1573年,15代将軍足利義昭が織田信長によって追放 され,幕府が滅亡したとされる日です。 (足利義昭とは) 室町幕府の最後の将軍・第15代将軍の足利義昭(よしあき)は、第12代室町幕府将軍・足利義晴(よしはる)の子供で、第13代将軍・義輝の弟です。 室町時代の末期1568年10月18日、足利義昭が、室町幕府・第15代将軍に就任します。 (信長を頼り将軍に) 足利義昭は、越前・福井の朝倉義景のもとに身を寄せていましたが、 自分を将軍にするために上洛しようという意思が見えない朝倉義景のもとを去り、 織田信長を頼って尾張に行きます。 1568年9月に、信長は義昭を奉じ、6万の大軍を率いて上洛します。 そして10月18日、義昭は朝廷から正式な宣下を受け、室町幕府・第15代将軍に就任します。 (信長と対立→京都追放) しかし、足利義昭と織田信長は、考え方の違いから
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