およそ八十年前の東京・上野桜木に、現在のデジカメ感覚で写真を撮り続けた少年がいた。 少年が手にしたカメラは、小さな家が買える程の高価なカメラだった。 カメラが貴重だった時代に、家族や街並み、海水浴や学校など、少年は思いのままに撮り続けた。 プロカメラマンとしての目線ではなく、少年の目線での普段着の目線で・・・ 忘れ去られつつある普段着の昭和初期が今蘇える。
およそ八十年前の東京・上野桜木に、現在のデジカメ感覚で写真を撮り続けた少年がいた。 少年が手にしたカメラは、小さな家が買える程の高価なカメラだった。 カメラが貴重だった時代に、家族や街並み、海水浴や学校など、少年は思いのままに撮り続けた。 プロカメラマンとしての目線ではなく、少年の目線での普段着の目線で・・・ 忘れ去られつつある普段着の昭和初期が今蘇える。
【ニューヨーク=吉形祐司】第2次世界大戦中の1942年4月、フィリピン・ルソン島のバターン半島を攻略した日本軍が、米軍やフィリピン軍の捕虜を炎天下で100キロ歩かせて多数の死者を出したとされる「バターン死の行進」の写真について、配信元のAP通信は、数週間後の遺体埋葬の写真だったとして65年ぶりに写真説明を訂正した。 写真は米軍が日本軍から押収し、45年に「『バターン死の行進』で同僚の捕虜に運ばれる死傷者」との写真説明で配信された。歴史的な1枚として繰り返し使用されてきたが、ニューメキシコ州に住む生存者の元米兵が昨年8月、地元紙に掲載された写真を見て間違いを指摘。AP通信が国立公文書館の資料などと照合した結果、捕虜収容所で撮影された写真だとわかった。 AP通信は、写真説明を「『バターン死の行進』後に捕虜収容所で行われた埋葬の模様」と訂正した。通信社が、歴史的な写真について訂正を出すのは異例だ
2008/04/10 管理人のイエイリです。 先日、「日本橋に首都高が架かる瞬間!昭和38年の航空写真を無料公開」というお話を紹介しましたが その“続編”が昨日(4/9)できました。 NTTレゾナントが運営する「goo地図」上で、昭和22年(1947年)の戦後間もない東京を、 米軍機から撮影した航空写真が公開されたものです。 当時の様子を、ナ、ナ、ナ、ナ、ナント、 現在の住所で一発検索 して見られるという便利さ。 さらには、駅名や郵便番号、施設名などでも検索できますし、現在の地図も重ねて見られるので、 いろいろな用途に活用できる第一級の近代史資料といっても過言ではないでしょう。 早速、いろいろな場所を見てきました。 左から昭和22年、昭和38年、現在の日本橋。戦後の首都高のないオリジナルな日本橋の姿がうかがえます(以下の画像:goo地図より) 同じく東京駅周辺の姿。
NTTレゾナントは、同社のオンライン地図サイト「goo地図」において、昭和38年(1963年)に東京23区内で撮影された航空写真を無料公開した。トップページの「古地図」タブからアクセスできる。 航空写真はスクロールが可能で、最大約1500分の1から7階層の縮尺で閲覧できる。現在の地図と重ねた表示のほか、ディスプレイ画面全体のフルスクリーン表示にも対応する。 東京オリンピックに向けて建設中の代々木体育館をはじめ、後楽園球場、羽田空港、帝国ホテル、雷門、有楽町駅前などの当時の様子が確認できる。これらの航空写真は、国土地理院と米軍が撮影した。 4月上旬には、昭和20年代の航空写真の提供も予定している。 ■関連情報 ・NTTレゾナントのWebサイト http://www.nttr.co.jp/
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く