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2007年8月1日のブックマーク (3件)

  • ベンヤミンなど - jun-jun1965の日記

    ベンヤミンの「複製技術時代の藝術」という評論は、なんでああ有名なのか。あれを読むと誰もが、ベンヤミンが「オーラが消えた」ことを肯定しているのか否定しているのか分からなくて悩むのだが、それ以前に、いったい当にオーラは消えたのか。カラヤンにせよグレン・グールドにせよ、別に複製技術でもオーラ、全然消えてないと思う。つまり、ベンヤミンは間違っていたことが既に証明されているのだ。それにしては誰もそれを言わないような気がするが、どこかで言われているのだろうか。 ベンヤミンって、なんか西洋の小林秀雄みたいだよね。

    ベンヤミンなど - jun-jun1965の日記
    shinimai
    shinimai 2007/08/01
    あれは実際にアウラなるものがあって消えたっていってるんじゃなくて、複製技術の誕生によって「アウラが消えた」という認識が誕生した結果、アウラという観念が成立するというパフォーマティヴな言説として読めよ。
  • 岩田正美『現代の貧困』、および「前衛」07年7月号

    岩田正美『現代の貧困』、および「前衛」07年7月号 格差とは貧困の問題だ ぼくは斎藤一なる「社会問題研究家」の一文を評して、 「格差を否定する議論や肯定する議論がかまびすしいなか、『格差』を問題にするだけでは単にその問題を解決できず、『格差という相対的把握に、最低生活という絶対的視点を導入する必要がある』『「貧困」という視点から格差の拡大をとらえ直さなければならない』とする。『不平等は、社会の他の構成員の不利益を招かない限りにおいて、是認される』というロールズの正義論を逆説的にひいて、“どこまでが耐えられる貧乏か”を考えないといけないという。斎藤が設定するのは生活保護ラインである(生活保護を受けないで最低限の生活するためには、税や社会保険などで生保世帯の所得の×1.4が必要という)。斎藤の試算では、生保ライン以下の世帯は生保世帯以外にも勤労層のなかに大量に存在し(斎藤は1割とみている)、高

  • 真鍋昌平『闇金ウシジマくん』――呉智英の「平板さ」にもふれて - 紙屋研究所

    真鍋昌平『闇金ウシジマくん』 ――呉智英の「平板さ」にもふれて ※9巻の感想はこちら 前回につづいてまた呉智英ネタで申し訳ない。 前回ぼくは、呉について、オタク的知識の幅広さ、古典や教養をひも解くペダンチズムゆえに面白いけども、その論じ方に「平板さ」があって、それは呉が戦後民主主義や左翼的良識への対決を売り物にしてきたために、その仮想敵の影響力が小さくなった現在では単純な対決図式だけが残ってしまったことを起源にしている、というむねを述べた。 この「平板さ」について、『団地ともお』や梶原一騎、近藤ようこの作品などを例にぼくはのべたが、たとえばそういう「平板さ」は、『闇金ウシジマくん』の読みなどにも現れてしまう。 呉は『マンガ狂につける薬 下学上達篇』において、「爛熟した文明に出現した『下流』」と題して、三浦展『下流社会』とあわせて真鍋昌平『闇金ウシジマくん』を評している。 はじめに結論を書い