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philosophyに関するshinimaiのブックマーク (12)

  • 絶対的に大きなものはあるか - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

    先日「抽象的な話をする会(抽象会)」というものを開きました(3回目です)。抽象的なテーマについて議論し、最終的には多数決で結論を出すという趣旨の会です。 そのときのテーマのひとつに「絶対的に大きなものはあるか」という問題をあげました。これについては、わりと議論も用意していたのですが、当日あまり説明しきれませんでした。説明しきれなかった悔いと、考えていたことのログを残したいという思いと、まとめておけば誰かコメントをくれるかもしれないという思いをこめ、まとまった記事として残すことにしました。 なお、抽象会のログは以下で見ることができます。 http://youkoseki.com/diary/2010/05/05#p5 (書いてたら、やたらと時間がかかった上に長くなってしまいました。かくも細かく、切迫性もほとんど無いテーマに興味をもつ人がどれだけいるのかわかりませんが、公開はしておこうと思いま

  • デイヴィドソンを最大限活用するためのFirefoxプラグイン3つ - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

    さて、科学の多くは「見えるもの」を観察し、「見えないもの」について明らかにしようとするものである。 デイヴィドソンが「根源的解釈」という状況設定を通じて提案した「デイヴィドソンのプログラム」にも見えるものと見えないものが仮定されている。 わたしの書いた図は上半分と下半分に分かれるが、上半分に置かれた「信念」「欲求」および「言語の意味」が見えないもの、下半分に置かれた「文」と、人と文の関係である「真と見なす」「選好する」が見えるものである。 さしあたって人の頭の中、つまり「信念(事実として受け入れていること)」「欲求(価値付け)」はわからないものと仮定されている。その人が話す言葉もわからないものとして仮定されている。そういう風に状況を設定したのだから当り前だ。 一方、人が「どの文を真と見なしているか」「どの文を良いもの/悪いものと見なしているか」はわかるものと仮定されている。それは言葉の意味

  • 概念を分析するとはどういうことか - retrosectionblog

    概念を分析するとはどういうことか 分析と概念というと切っても切り離せない仲であって、よく論理学の教科書なんかでも最初に登場する。たとえば、カントの分析判断の例がだされ、次にライプニッツの結合法がだされる。カントの有名な分析判断の一つに、「金は黄色である」というのがある。これの場合、「金」という主語の内包として、「黄色」という色属性が含まれているから、「金」という主語から「黄色」という述語が分析的に出てくるとされる。このような例を出されると、それって恣意的なんじゃないの?という疑問を持つ人も少なくないだろう。かく言う僕もこの点で疑問を覚えた。歴史的に考えれば、カントがこのようなことを言っていたときには、いまだ「化学」なるものは現代のような形では存在しておらず、物質が基的に分子構造とそれが実現する電子軌道のもつ性質からなるなどとは、誰も考えていなかった。しかし、このような現代的常識を中学生

  • 「形而上学でモテ(仮)」読書会第〇回 - 2008-11-15 - 呂律 / a mode distinction

    読書会好きの赤田くんが読書会をするというので 読書会好きの俺も いってきたよ@新宿 いきなり集合場所を間違えておった。 この時点で、なんの読書会なのか まだわかってない。 自己紹介中@カレー屋 id:at_akada (blog) id:shinimai id:tanakax id:contractio id:kolja id:kugyo id:conchucame (自己紹介順) ここで、「形而上学でモテを目指す」ことを高次の目的とした読書会であることが判明。 あと、全員が はてなid 所持者。リアルはてな村状況。 候補列挙&選定中@ルノワール Contemporary Debates in Metaphysics (Contemporary Debates in Philosophy) 紹介 A Survey of Metaphysics 教科書 Metaphysics: Contem

    「形而上学でモテ(仮)」読書会第〇回 - 2008-11-15 - 呂律 / a mode distinction
    shinimai
    shinimai 2008/11/15
    なんて仕事がはやいんだww
  • ハイデガーにおける論理学と形而上学 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    理性を解明し規定することが正当に且つ必然的に《論理学》と呼ばれるかぎり、西洋的な《形而上学》は《論理学》であるとも言える。存在者たるかぎりの存在者の質は、思惟の視圏のなかで決定されるのである。 ハイデガー「ニーチェ ヨーロッパのニヒリズム」isbn:4582761844.78-9より カテゴリー論と形而上学の関係 ハイデガーの大きな問題点は、科学と技術を安易に同一視しているのと同じように、論理学と形而上学をも一緒くたにしてしまうことだ。この場合、形而上学とはアリストテレス的なカテゴリー論のことであり、トマス・アクィナス経由で西洋哲学が受け継いでる思考法でもある。実際にハイデガーは(若き時分にブレンターノの論文で出会った)トマス・アクィナス的なアリストテレス理解への批判を出発にしているところがある*1。ところで、カテゴリー論とは何か。カテゴリー論とは物事をカテゴリーに分類する議論のことだ。

    ハイデガーにおける論理学と形而上学 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
    shinimai
    shinimai 2008/11/15
    相変わらずアツイエントリーだ!
  • ハイパーテキスト版 論理哲学論考 (Tractatus Logico-Philosophicus)

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  • 必読新書!ルクール『科学哲学』文庫クセジュ | URGT-B(ウラゲツブログ)

    フランス現代思想に興味を持っている編集者や読者、また、大書店の哲学思想書の担当者にとって必読書となる新刊が文庫クセジュの一冊として刊行されました。文庫といってもクセジュの場合、新書ですけれども。 科学哲学 ドミニック・ルクール(1944-)著 沢崎壮宏(1971-)+竹中利彦(1971-)+三宅岳史(1972-)訳 文庫クセジュ(白水社) 2005年8月刊 体951円 新書判164+19頁 ISBN4-560-50891-7 ■カバーの紹介文より:ウィーン学団やバシュラールを経てクワインやハッキングへと至る科学哲学は、サイエンスの目的と方法をめぐる探求である。書は、学説史を詳しく解説しながら、ヨーロッパや英米の伝統が合流する将来を展望してゆく。フランス科学哲学界を代表するルクールによる、わかりやすい入門書。 ■原書:"La philosophie des sciences" par D

    必読新書!ルクール『科学哲学』文庫クセジュ | URGT-B(ウラゲツブログ)
  • 記号主義の生成(7)  感情の内観? (弐) - 現在思想のために

    パースに言わせるなら、人間の感情はすべて外界の対象にかかわりを持つことで成立する。逆から言うと、外部の事物に関係しない感情などはない。 たとえば私が腹を立てたとする。(私が怒ったのは、単に私の虫の居所が悪かったからか。けっしてそうではない。それはたとえば、私が新聞紙上で悪辣な轢き逃げ事件を読んだせいかもしれない。)この<怒り>の感情が、単なる私的かつ内的領域で完結する、何か「主観的状態」などではないのは明らかではなかろうか。 この<怒り>を命題のかたちに敷衍してみよう。もちろん、感情は明晰な言語表現にはなりにくいのが持ち前である。しかしあえて感情の言語化が可能だという想定に立ってみよう。そうすると、たとえば、「犯人は悪辣で非道だとおもえる」といった命題が(ひとつ)得られるだろう(他にも命題の候補者には数多くのものがあるに違いない。)命題の観察から、感情が、外部の事物に関する述語を表現するも

    記号主義の生成(7)  感情の内観? (弐) - 現在思想のために
    shinimai
    shinimai 2008/11/10
    「人間の感情はすべて外界の対象にかかわりを持つことで成立する。逆から言うと、外部の事物に関係しない感情などはない。」中学のころそういうこと考えていた。
  •  ドナルド・デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』読了 - 西東京日記 IN はてな

    ドナルド・デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』を読了。 デイヴィドソンを知らない人にとって、「主観的、間主観的、客観的」なんてタイトルを聞くと、いかにも固くてつまんなそうなに思えるでしょうが、これがなかなかスリリングでラディカルなです。 このはデイヴィドソンの第3論文集で、第2論文集の『真理と解釈』の問題意識をさらに発展させたものになっています。中心となるテーマはは「自分の心に関する知識」、「他人の心に関する知識」、「共有された世界に関する知識」の3つの知識の内容とその相互関係です。 古来、哲学者は「自分の心に関する知識」を確実なものと考えそこから2つの知識を導きだすか,逆に「共有された世界に関する知識」こそを正しいものとしてそこから2つの知識を導きだすかで議論を重ねてきましたが、デイヴィドソンによればどちらか優位と言うというものではなく、これらは密接に絡み合っているものです。

  • ジャッケンドフ「意図と意志的動作」を訳読してみよう (2):§8.2 - left over junk

    2008-04-05 optical_frog 2008-04-05 通りすがり 2009-02-11 optical_frog 2009-02-11 @minorimironim 2009-02-11 @minorimironim 2012-06-02 optical_frog 2012-06-02 toohuudoo 2009-02-11 optical_frog 2009-02-11 dh 2012-12-31 optical_frog 2012-12-31 ponchi 2012-12-31 optical_frog

  • 分析哲学が分かる人だけにしかお勧めしない記事です - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    いきなり追記:内容に自信がなくて書いてから公開をしばらくためらっていたのですが、思い切って出しちゃいます。適当に割り引いて読んでください さらに追記:勘違いと思えるところを一部削除(横棒の入った部分)しました(08/10/11) 注 こちらのブログのコメント欄に書こうとしたコメントを、長大で難解な文章になったので、別にしてそのままこっちに転用(文体が滅茶苦茶なのはそのせい)。一切分かりやすく書いてないので、理解できなくても全く心配ありません(むしろ矛盾や論理の破綻がないか心配なくらい)。 理解するコツは「様相命題→普通命題→モデル」の三段階であることを考慮することです。来のモデル論的論証は「普通命題→モデル」レベルの話だが、モデル論的論証による批判が強烈になるのは様相命題を持ってきたときである(なぜなら可能世界意味論が指示の因果説や選り抜きの集合に頼っているからだ)。ちなみに、この文章で

    分析哲学が分かる人だけにしかお勧めしない記事です - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 2つの可能世界 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

    ■前書き 可能世界について。 以前から、様相論理の意味論で使われる「可能世界」と哲学の議論に出てくる「可能世界」は別のものなんじゃないかと思っていたが、クリプキを読むことによって、その思いが確信に近くなった。 この点について説明してみる。 ちなみに、私は論理学も分析哲学もほとんど独学で学んだため (しかも勉強中のため)、話の正確さにあまり自信がない (つっこみを歓迎する)。 ■真理関数のインプット 様相論理で言う「可能世界」は、「真理関数のインプット」のことだと考えるのがよいと思う。 現代論理学の標準的手法では、論理式を、「何か」をインプットすると、「真」「偽」のいずれかをはき出す関数だと考える。これを真理関数的意味論という。この「何か」が何であるのかは、命題論理の場合と述語論理の場合で異なる (詳しく説明すると面倒なのでしないが、命題論理では「真理値割り当て」、述語論理では「モデル」と呼

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