ブックマーク / pto6.hatenablog.com (49)

  • 豆乳ラヴァ - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    コップに乳白色の液体を注ぐ。 ここのところ毎日飲んでいる無調整豆乳だ。健康にいいからと母親に勧められて以来、自分でも驚くほどに嵌まってしまった。 キャップを閉め、パックを冷蔵庫へと戻す。またすぐに取り出し2杯目を注ぐことになるのに、それでも一旦は戻しておく。豆乳は冷え具合が大切なのだ。 ちょっとでも温いと、せっかくの美味しさが損なわれてしまう。空気に触れ過ぎるのも厳禁。しっかりとキャップを閉めておくことが肝要だ。 私は改めてコップと対峙する。勢いよく注いだせいか、表面にはいくつかの気泡が浮かんでいる。縁に口をつけ傾けると、どろりとした液体が舌の上に流れてきた。飲み終わると、まるで舌がコーティングされたような感覚が残る。少し遅れて、仄かな後味が鼻から抜けていく。 案の定、私は冷蔵庫を開き、ふたたび豆乳をコップに注いだ。こうやって1パックをわずか2日ほどで空けてしまう。このパックももう無くなり

    豆乳ラヴァ - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう
  • 小説読本 - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    三島由紀夫の『小説』を読み終わった。 文学評論の趣を帯びたエッセイ集だ。自らの制作手法を赤裸々に明かしつつ、文学への尽きない追求心をつまびやかに書き記している。 三島ほどの偉大なる作家が、これほどまでに探究し続けているという事実には、文章を書く者のひとりとして感銘を受けさせられた。そういった意味では、作家志望の人達にとっての小説指南書とも言えるだろう。 相変わらず知性に満ちた文体で書かれている。たまに筆が走りすぎて、読者を置いてけぼりにしてしまうほどの高度な論理展開を見せる。そんなところも含め、「文章に圧倒される」という希有な陶酔感を味わえるというのが、やはり三島文学を読む上での魅力だ。 小説という形態は「自由」であり、どのようにでも書くことができる。だからこそ、どのような小説は「書かないか」、そこに強い信念を持っていることが伝わってきた。「真の小説」なんてものは人それぞれ、だとしても

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  • 「できる自分」の積み重ね - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    昨日は社内資格の試験を受けてきた。 入社したての時に取った資格の更新だ。現業とは関連の薄い内容だし、もはや若手とも言えない立場なので別に更新しなくてもいいのだけど、持っていて損はないので一応試験を受けた。もらえる奨励金もおいしいし。 受けるとなると落ちたくはない。最低限の勉強はして臨んだ。これまでも試験と名がつくもので、失敗した経験は少ない。性格の問題だろうか。もしくは小学校のころから積み重ねた“試験は得意”という自負を、今でも引きずっているのかもしれない。 思えばそのような自負、言いかえるなら矜持を持つことは、大事なことのように思う。そしてそういったものを持つためには、最初の入り口が肝心なのではないか。 小学校の試験なんて、普通にやったら誰もが良い点数が取れるだろう。そこでしっかりと良い点数を取って「自分はできるんだ」という自信と快感を得るのが、意外と大切なことなのだと私は思う。 いった

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  • スネ子ちゃん - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    娘は最近スネ子ちゃんだ。 なにか意に反することがあると、ふてくされてスネてしまう。完全にかまって欲しいがゆえのポーズなのだが、そのスネっぷりはなかなかにクオリティが高い。 昨夜も、娘からご飯前に遊ぼうと誘われたが、ご飯をべてからね、と私は断った。すると、娘の首はうなだれる。そしてわかりやすいくらい肩を落として、とぼとぼとリビングから出て、ひとり寝室へと引き篭もる。 一見落ち込んでいるようだが、そうではない。片方の口端をつり上げ、眉間にしわを寄せるように目を細め、これでもかというくらいに不愉快な顔を作っている。 しばらくしても戻ってこないので、仕方なく私が寝室へと迎えに行くと、娘は入り口にお尻を向け、ベッドの上でうつ伏せになっていた。片肘をつき、その手のひらにはほっぺたを乗せている。 私は回り込んで娘の顔を見た。相変わらず、あのむすっとした表情を浮かべていた。私が動くと娘もくるりと身体の向

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  • 箱入り娘 - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    娘は段ボール箱に入るのが好きだ。 昨夜も、物置部屋で大きな空き箱を見つけると、それに入って遊び始めた。言っても離れないので、仕方なくその箱をリビングの方へと運んであげた。物置部屋だと物が多くて危ないからだ。 リビングでも、娘は引き続き箱に入っては出て、入っては出てを繰り返していた。時に私にも入ってみるよう要求し(身体が大きくて蓋が閉まらなかった)、時にミッキーの人形と共に潜り込み、私たちに蓋を閉めさせた。 娘の身体の半分ほど高さのある箱だったので、出入りは安定性に欠いた。なんどか箱ごと倒れ、見ていてひやひやとさせられた。それでも箱を支えてあげたり、足場をつくってあげたりして、娘の遊びをサポートしていた。 次に娘は箱を横に倒し、犬小屋のような形態にして中に入った。そこからひょっこり顔を出すので、私はオモチャの材を与えた。察しの良い娘は“餌をもらう犬”になりきって、わんわんと甘えるような声を

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  • セミの抜け殻とり - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    投票に行った帰り、家族で公園遊びをした。 娘は嬉々としてすべり台に上り、私はそれを追いかけた。しばらくすると、虫網を持った男の子たちが目に付いた。見ると、母親とセミとりをしているらしい。 娘はその様子を興味深げに眺めていた。夏ならではの光景に、私も妙に子ども心をくすぐられてしまった。そこで、セミ自体とまではいかずとも、娘に抜け殻くらいは見せてあげたいという気持ちになった。 娘の見守りを一旦に任せ、私は公園内を散策した。するとある一角に、10あまりセミの抜け殻が置かれているところを見つけた。きっとどこぞの子が集め、そこに置いていったのであろう。 私はそのひとつを手に持ち、娘のところへと持って行った。それを見ると娘はぎょっとする。そして「こわい」と言われ、遠ざけるよう邪険に手を振られた。 私は少し残念に思いながらも、でも女の子だしなと納得し、抜け殻を元あった場所へと戻しに行った。しかし、そん

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  • 夜のゆかた祭 - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    浴衣を着るとそれだけで志気が上がる。なぜだろう。 昨日は、夕方から『梅田ゆかた祭』に行ってきた。と私は浴衣に身を包み、娘は甚平を着た。人混みを歩くので下駄はやめ、各々にサンダルを履いて出かけた。 これで何度目かの参加となるが、例年この『梅田ゆかた祭』は、そこまで参加者が多くない。それゆえに、梅田に向かう途中、ほとんど浴衣の人を見かけないので、何度も不安な気持ちにさせられてしまう。 会場付近まで来ると、さすがに何人か浴衣の人を見かけた。私もも一安心。日時を間違えていたわけではないのだ。時間通りに来たのですぐに盆踊りがはじまる。しかし古風な音楽が流れ、娘が露骨に退屈そうな顔をしたので、先に縁日ブースへと遊びに行くことにした。 そこでは、娘がふたつのゲームを体験した。ひとつめはピンボール。いくつかの球を弾き、盤に空いた穴に3つボールを落とせば景品がもらえる。娘は見事に4つの穴にボールを入れ、

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  • 七五三の前撮り - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    昨日は、写真館で七五三の前撮りをしてきた。 娘は終始お利口さんだった。撮影前、ひとり鏡の前に座らせ、髪のセットとお化粧をしてもらった。そこでも娘は大人しく振る舞い、スタイリストさんとにこやかな笑顔を交わしながら、華麗なる変貌を遂げていった。 髪型はお団子をふたつ作るようお願いしていた。しかしそこはプロ。ただのお団子にはせず、ロッドと櫛を駆使し、綿飴のようなお団子スタイルをつくってくれた。 多少髪を引っ張られるので、娘も途中、険しい顔をした際もあったのだが、「綺麗は我慢」を既に心得ているような女の顔を浮かべ、ひとことも弱音をはかなかった。 化粧の際も、チークを軽くまぶし、リップブラシで口紅を引いたのだが、いずれもスタイリストさんの言われるがまま動き、鏡の中の自分を神妙に見つめていた。 とくに口紅を引く際、薄目で唇を突き出す様がとても可愛らしく、メイクアップされた娘には、いつも以上に惚れ惚れと

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  • 文章読本 - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    三島由紀夫の『文章読』を読了した。 なにかと文学好きを漂わせてきた私だが、恥ずかしながら、日の近代文学にはめっぽう疎い。理由としては旧文体を読むのにストレスを感じるからなのだが、一方で機会があれば足を踏み入れたい世界だとは考えていた。 そんな私にキッカケが生まれる。あるネット記事で、谷崎潤一郎の『文章読』が紹介されていたのだ。私はそのタイトルも含め、とても興味を惹かれた。すぐに調べてみると、現代にはびこる“文章のハウツー”たちの元祖ともいうべき、名著と名高いだった。 すぐに読んでみようとした。しかしその章立てを見て手が止まる。その中で語られているのは、今では多くの人が口にする「文章は明晰が第一」というようなことばかりに見えたからだ。きっとこのが出所で、現代へと脈々と受け継がれてきたことなのだろうが、だとしても、今更読んで新たな発見は期待できないよう思えた。 そんなとき、類似商品

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  • 頼りない父親 - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    娘がベッドから落ちた。 背中から倒れるように。50cmほどの高さだ。幸い、娘が上手に受け身をとってくれ、大事には至らなかった。 娘は落下の恐怖と衝撃に、しばしのあいだ放心状態となった。ただ、すぐに抱きかかえ、優しく身体をさすってあげると、徐々にその混乱も収まってきた様子だった。 そして、落ち着いたことで怖い記憶が蘇ったのか、私に向かって「はやく、たすけてよ」と涙ぐみながら訴えてきた。おそらくは“ちゃんと、助けてよ”という意味合いを伝えたかったのだろう。 娘が落下するとき、私はすぐそばにいた。そして彼女が落下するその瞬間も、しっかりと見ていた。ただ、あまりに一瞬のことで、助けることができなかったのだ。 この事実は、私に少なからざるショックを与えた。 いつも私は娘に対し「パパが守ってあげるからね」と恩着せがましく言っていた。心からそのつもりだったし、とっさにでも身体が動くものとばかり信じていた

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  • やりすぎの境界線 - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    娘とはよく人形遊びをする。 そこは想像力がものを言う世界だ。次々と新たな設定や物語を吹き込み、その場のやりとりに展開を生み出す。 当然ある程度のリアリティは必要となってくるし、同時に、わくわくするような突飛な発想も重要となる。 昨日はレゴブロックの人形たちで遊んでいた。娘が女の子をもち、私が男の子をもった。「こんにちは、わたしはチョウチョちゃんだよー」という自己紹介から始まり、私たちは料を探しに冒険の旅にでることにした。 すいすい飛ぶように走るチョウチョちゃん。男の子のクルマくんは、息を弾ませながらそれに付いていく。チョウチョちゃんはそびえ立つキッチン山の上に料を見つけ、ひょい、ひょい、ひょいと崖を登っていった。 残されたクルマ君は困った。自分にはとうていこの崖を登ることなんてできない。うーん、うーんと悩んでいると、それを見かねたチョウチョちゃんが、山からピヨーンと飛び降りて、助けにき

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  • おしゃべりさん - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    娘はおしゃべりがどんどんと達者になっている。 連休中に印象に残った言葉たちを書き留めておきたい。 ぷりんせすみたい ワンピースなど、スカート系のお洋服に着替えたときの一言。自画自賛的に自分に対して言うときもあれば、お店で試着したに対して言うときもある。彼女にとっての最上級の「可愛い」の表現のようだ。こちらから言ってあげると、画に描いたような照れ笑いをしてくれる。 やっふぉー 喜怒哀楽の“喜”が頂点に達したときに言う。やった、やったー、やっふぉー、という連続コンボで発せられることが多い。言葉と同時に右手の拳を天に突き上げて、大仰なまでに喜ぶ。なんとも漫画的なリアクションだが、はたしてどこで覚えてきたのやら。 これなんだ!? なにか不可解なものを見つけたときに言うセリフ。たとえば足下におちてたホコリとか、急に現れた虫などに発せられる。これの出典はおそらくアニメ『こねこのチー』だろう。毎日10

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  • ベランダにテント - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    ベランダにテントを張って、皆でお弁当をべた。 3連休の最終日。今日は家でゆっくりと過ごす予定だったので、せめて少しでも娘に喜んでもらうため、そのようなランチを開催したのだ。ちなみにのアイデア。 が可愛いお弁当箱に、顔つきのおにぎり、卵焼きやウインナーをつめる。私はベランダにテントを立て、シートを敷き、その中に小さな棚とテーブルを置いた。娘はたちまちできあがった小さな家に、とても嬉しそうな声をあげ、はしゃいでいた。 テント内の天井にはBluetoothスピーカーを置き、夏らしいポップな曲をかけた。少し暑かったので、扇風機もベランダへと出して、テントの方に風を送った。準備をすませ皆で入ると、ワクワクした気持ちになった。 の作ったお弁当を開ける。娘は「うわぁ~おいししょ~」とテンションの高いリアクションをとり、いつもよりも嬉しそうに、おかずにかぶりついていた。私とも、おにぎり等を頬張り

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  • 何様 - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    朝井リョウの『何様』を読了した。 著者の作品を読むのは、直木賞受賞作の『何者』以来、これで2冊目である。著はそのアナザーストーリーが収録されていると聞き、手に取り読んでみた。 ちょうどこの前まで、重ための純文学作品を読んでいたので、箸休め的にライトなが読みたい気分だったのだ。結果として、私が期待していた通り、さらりとした読み心地が味わえた。 読み始めこそ、著者の特徴のひとつでもある“若者たちのリアルな会話”描写に辟易とした気持ちになったが、それにも慣れてくると、あとは軽快なテンポで読み進めることができた。 ほんと朝井リョウは器用な作家だよなぁ、それが読了後に私が抱いた感想だ。自分が世間から何を求められており、自分には何が書けるのか、そのことをしっかりと自覚し、受け入れた上で書いている。 以前、彼は何かのインタビューで「自分はエンタメ作家として求められているので」というようなことを言って

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  • ママ友のLINEグループ - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    プレ幼稚園に通うママ友達LINEグループができた。 そんな話をから聞いた。仕事後に梅田で待ち合わせ、百貨店の事処でソバを啜っていたときのことだ。 幼稚園も夏休みに入るし、子供同士で遊ばせる機会が欲しい、と前にが話していたので、私はよかったねと言った。しかし、はどこか浮かない表情をしている。 不思議に思っていると、一緒にLINE交換をしたメンバの中で、ひとりだけグループに招待されていないママがいると言うのだ。急に、話に薄暗い影が差してきた。 まずはそれが意図的なのか、ただのうっかりなのか。そして意図的だった場合は、善意からか、悪意からか。 「なんだか、ドキドキしてきた」 先の展開までを想像し、が憂そうに呟く。がどんなことを考えているのかが、私にも徐々に掴めてきた。 家に帰ると、がアクションをとった。とりあえず、グループをつくったママさんに、個別で連絡をしてみたと言うのだ。も

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  • 臆病、それが私の武器です。 - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    昨日、会社で先輩からこんなことを言われた。 「陰でそんな努力をしてるんだね」 いきなり癪に障ることを言うが、私は職場では“できる奴”だと思われている。仕事で関わる人達はみな信頼してくれているし、総括という立場がら、ほとんどの人達と仕事で関わっている。好き嫌いは置いといて、少なくとも一目置かれているという自負はある。そして結果として、人事評価でも連続で最高評価をもらっている。 そんな私はおそらく、涼しい顔してどんな仕事でもこなすことができる、資質に恵まれた人材だと思われているだろう。私は人からは天才だと思われたい、と思っているようなちょっとイタい奴なので、そのような周りからの視線には人一倍敏感で、一種の快感を味わっている。 ただ、そのように思われたいと思う反面、家族や仲の良い友人、そして信頼を寄せる先輩などには、当の自分を知ってもらいたい、という我が儘な欲も抱えている。 実際の私は、単に臆

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  • ティッシュ2枚 - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    世界ひろしといえど、 「ぱぱ、もういっかいっ!」 ティッシュ2枚でここまではしゃげるのは、娘くらいではないか。そんなことを、ふと思った。ただすぐに違う考えも浮かぶ。案外、どこの家庭においても、同じようなことをして遊んでいるのかも。 私は娘から2枚のティッシュを受け取り、再びベッドの上で中腰になった。腕を伸ばし、両手に持ったティッシュをできるだけ高い位置へと持っていく。その様子を、娘はわくわくするような目で見つめている。 私は少し勢いをつけて、片方のティッシュを前方に放った。ふわりと宙に舞うティッシュが、奇妙な曲線を描きながらに下降していく。娘は多少足をばたつかせながらも、それを必死に目で追いかける。ついには、目の前を横切ろうとしたティッシュを、娘が両手で捕まえた。 「つかまえたぁ!」 それを見るや否や、私は間髪入れずにもう一方のティッシュも放る。ふたたび対象が宙に舞ったことに気がつくと、娘

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  • ファシリテーション研修に参加してきた - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    昨日、一昨日とファシリテーション研修に行ってきた。 会議などの場で、皆が納得感をもった結論に辿り着けるよう支援する役割を『ファシリテータ』と呼ぶ。私は所属がら、職場でその立場を担うことが多いので、一度しっかりと基礎を固めておきたいと思ったのだ。 しかし結論から言うと、あまり実りの多い研修ではなかった。丸2日間も使って、会社も違う初対面の人達とグループワークをするのだが、かけた時間の割にはリターンが少ないように感じた。 そもそも、普段やっている自身のファシリテーションにもある程度の手応えを感じていて、①間違ったやり方をしていないかの確認と、②何か新しい発見はないか、という意気込みで参加したのもよくなかったのだろう。苦手意識を持った経験の浅い人向けの内容が多く感じた。 なるほどな、と思ったことを強いてあげるなら、チームにはそれぞれ「フォーミング(形成)」、「ストーミング(衝突)」、「ノーミング

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  • 充たされざる者 - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    カズオ・イシグロの『充たされざる者』を読了した。 900頁を超える超大作だ。これまでに私が読んだ文庫の中で一番分厚かった。イシグロ作品をすべて読破しようとしている人に、立ちはだかる最大の壁であろう。 私も一番最後に読もうかとも思っていたのだが、この前に読んだ『遠い山なみの光』でイシグロ熱が再発したことを受け、その勢いのまま挑戦してみることにした。 最初に書いておくと、このは万人にはお勧めしない。 普段から読書に、それも純文学の作品に慣れ親しんでいる人で、且つ、書き手としてのイシグロにその他作品を通して既に信頼を寄せている人。この作品はそんな人たちが満を持して手にすべきものだと、私は思う。 そうでなければ、間違いなく途中で挫折してしまうだろう。ただでさえ物語として長いのだが、それだけではなく、書き方は実験性に富んでおり、一見して支離滅裂な形で物語が進んでいくのだ。 更に言うと、ページを捲

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  • 小さなレディ - いつかこの日々を思い出してきっと泣いてしまう

    最近、娘は自分より年上の子を見ると「おにいちゃん」「おねえちゃん」と呼ぶようになった。そして明らかに年下の子を見ると「あかちゃん」と言って可愛がる。 そんな彼女に、どっちになりたい?という質問をしてみたことがある。「おねえちゃんになりたい」という回答が返ってきた。おそらくは、おねえちゃんになれば自転車やアトラクションに乗れて、楽しそうだからだろう。 そんなわけで、娘はおねえちゃんに憧れているのだが、かたや最近では赤ちゃんのマネもするようになった。語尾に「ばぶばーぶ」をつけて甘えてくるのだ。私はその可愛らしい“赤ちゃんごっこ”が大好きで、娘が発動するよう、なにかにつけて誘導しようとしていた。 昨夜もお風呂あがり、彼女の身体を拭いてあげているときに、「ばぶばーぶ」と言う語尾で娘に話しかけた。そうすることで、娘も乗って赤ちゃんごっこが始まることが多いのだ。しかし、このときの娘は違った。 「○○ち

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