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2018年2月14日のブックマーク (5件)

  • ③『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、その可能性の中心を探る

    ①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか? ②『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、「ロキノンの末席」からの変容 現在、この島国におけるポップ音楽についての「書き手」のスタイルというのは、多岐に渡っている。単純に肩書きとしても、音楽評論家、音楽ライター、音楽ジャーナリスト、批評家――当の人が自らの肩書きにどの程度、意識的かどうかは置いておいたとしても、これまた多岐に渡るのは間違いない。 だが、受け手側の大半に関しては、おそらくはそうしたまったく違った役割と意識、スタイルをもった書き手を、ただ十羽ひと絡げに「音楽ライター」というフォルダに投げ込んでいるという現状がある。そのフォルダの中から、信頼を置ける評論スタイルを持った書き手だけを取り出して、その言説に耳を傾ける――ここまではとてもリーズナブルだ。とても健康的だと言っていい。 だが、同時に、個々の「音楽ライター」が提示する

    ③『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、その可能性の中心を探る
  • ②『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、「ロキノンの末席」からの変容

    書物というものは何度も読み直されなければならない。そうした視点の下、音楽ジャーナリスト柴那典が書き下ろした『ヒットの崩壊』という書物を、著者自身の言葉を借りながらまた別な角度から見てみよう、そんな目的意識から出発した企画、パート2である。 パート1の内容をごく簡単にレジュメするなら、それは主に彼の著作『ヒットの崩壊』がそのタイトルとは裏腹に、「ヒットの崩壊、その後」に起った、さまざまな変化に対する希望的観測を軸に書かれたことを示そうとするもの。パート1を未読の方はまず以下のリンクから読み進めてほしい。 ①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか? つまり、パート1における対話は、「『ヒットの崩壊』の読み方」を巡るものだ。そして、このパート2から語られているのは、主に「柴那典の読み方」だと思っていただきたい。 まず確認しておこう。誰もが「柴那典」という書き手に対して認める

    ②『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、「ロキノンの末席」からの変容
  • ①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか?

    2016年に出版された音楽関係の書物の中でももっとも注目された作品のひとつとして、音楽ジャーナリストの柴那典が書き下ろした『ヒットの崩壊』の名前を挙げることに異を唱える者はいないだろう。 乱暴に言うなら、彼の著作『ヒットの崩壊』は、主にゼロ年代から2010年代のポップ産業における、ヒットを生み出す構造の変化にフォーカスを当てた書物であり、そうした構造変化と共に、ポップ音楽とその受け手であるリスナーの関係性そのものにいくつもの変容が生まれたことを示すものでもある。 と同時に、『ヒットの崩壊』というタイトルとは裏腹に、多くの市井の人々が自らが暮らす時代を考える上での「対話のプラットフォーム」として機能するだろう、新たな「ヒットの誕生」を祝福する書物でもある。つまるところ、この『ヒットの崩壊』という作品は今に対する厳しい批評である以上に、これからの未来に対する可能性とヒントをちりばめた「希望の書

    ①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか?
  • サマソニ&フジロック 第一弾ラインナップ発表 雑感 - Pop Life

    における2大洋楽フェス SUMMER SONIC、FUJI ROCKのラインナップが第一弾発表された。昨年に話を戻すとフジロックは20年目の節目から総決算的な意味合いが強い年であった。またサマソニは2003年に初めてソールドアウトしたときのヘッドライナーRadioheadを、フジロックは伝説の第一回目のトリを務めたRed Hot Chili Peppersを最大の目玉として置いてくるというお互いの手札の中で最強のカードを切ってきた年でもあった。そういう意味でも単純に自分が観たいのが出るか以上に今年はそれぞれがどういう手を打ってくるのか個人的には非常に楽しみだった。そして2月に入り、サマソニは虫いからの出演者によるリークという史上稀に見るゴタゴタを経て6日に、フジロックは10日に渋谷の巨大スクリーンに映す形で第一弾ラインナップを発表した。そのラインナップやそれにまつわる様々な意見に対し

    サマソニ&フジロック 第一弾ラインナップ発表 雑感 - Pop Life
  • 【徹底討論】インディー・ロックは死んだのか? | Monchicon!

    1月21日付のビルボード・チャートで1位を獲得したアトランタのヒップホップ・トリオ、Migosの「Bad & Boujee」。 先週末、Dirty ProjectorsのDave Longstrethが、この曲の歌詞を引用したインディー・ロックの現状についての問いかけをInstagramに投稿し、Fleet FoxesのRobin Pecknoldらを交えた議論に発展するなど、大きな話題となっています。きっかけとなったのはこちらの投稿。 ※以下、訳は大意です 酷くて、ブルジョワ的になっているのは僕なのか、それとも24世紀の半ばにおけるインディー・ロックの状態なんだろうか? 酷いというのは来の意味で、つまり音楽的につまらなく、成文化されたサウンドの形式を真似て、重要なことを発見したり、僕らが今経験している世界を反映するというよりも、相続しているに過ぎず……またサルトルの言う自己欺瞞のように