資料に関するsmtz8のブックマーク (42)

  • 精英博客 控制面版 - 精英博客

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    smtz8 2012/06/01
    柏崖村惨案。
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    ハリイカの焼売と中華炒め ハリイカをよく、見かけるようになりましたよ。生け簀で、泳いでいたものを一杯購入しました 立派な大きな墨袋や肝は冷凍保存して 柔らかな身は季節のお豆、お野菜と合わせて中華の炒めものに。新鮮なにんにくの茎は刻み、香り高く欲そそられますね 下足はミンチにし…

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    smtz8 2012/04/29
  • 通州事件に関する日本側証言は正確か?(Sさんの体験談3) - 誰かの妄想・はてなブログ版

    「Sさんの体験談」における事実誤認部分の指摘です。長いので分割し、3回目です。その5を取り扱います。 Sさんの体験談 Sさんの体験談その5 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1 虐殺現場の目撃談6・東門付近の集団虐殺 (略)「日人が処刑されるぞー」と誰かが叫びました。 (略)Tさんはやはり支那人ですから私程に日人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。家に帰ろうと言っている私を日人が処刑される広場に連れて行きました。それは日人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。 そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。そして恐らく五十名以上と思われる日人でしたが一ヶ所に集められております。ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりまし

    通州事件に関する日本側証言は正確か?(Sさんの体験談3) - 誰かの妄想・はてなブログ版
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    smtz8 2012/03/22
    『「国民政府軍の将校」と「共産軍の人達」が同居』『主要な虐殺現場全てに、まさに虐殺が行われている時間帯に、効率よく巡って目撃』広めた人達はこのあたり何にも疑問に思わなかったのか?
  • 中国革命と中国革命史の研究について | CiNii Research

  • 延安における東方各民族反ファッショ代表大会(一九四一年)について | CiNii Research

  • 慰安婦の被害事実(証言を含む)が認定された8件の裁判 - Transnational History

    「従軍慰安婦」裁判は、1991年から2001年まで日の裁判所に10件の提訴がされた。このうち地裁、高裁の判決において、日軍の関与・強制性等の加害事実や、元慰安婦の被害事実(慰安婦になった経緯、慰安所での強要の状態など)が認定されたのは以下の8件の裁判。 ■軍関与・強制性・被害事実の認定の有無 裁判名 提訴年 地裁 高裁 最高裁 アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟 1991 ○ ○ 棄却 釜山「従軍慰安婦」・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟 1992 ○ ○ 棄却 在日元「従軍慰安婦」謝罪・補償請求訴訟 1993 ○ ○ 棄却 オランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償訴訟 1994 ○ ○注1 棄却 中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟(第一次) 1995 × ○ 棄却 中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟(第二次) 1996 ○ ○ 棄却 中国山西省性暴力被害者損害賠償等請求訴訟 1998

    慰安婦の被害事実(証言を含む)が認定された8件の裁判 - Transnational History
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    我が家のダグウッド ダグウッドとはハナミズキのことである。昔、日からポトマックリバーの桜の苗木を送った返礼として、アメリカから送られて来たのが日での始まりで、アメリカ原産でアメリカヤマボウシともいうらしい。 最近では日でも、あちこちで、街路樹であったり、庭木であっ…

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    smtz8 2012/03/13
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  • 「憲兵物語」における通州事件と冀東暴動 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    コメント欄でid:smtz8さんに御教示いただいた点についてです。 ネトウヨおなじみの通州事件は1937年7月29日に起きた事件ですが、この事件とは別に「冀東暴動」という事件が1938年7月に起きています。通州事件のほぼ1年後です。森堅吉氏の「憲兵物語」では通州事件と冀東暴動が混同されていますが、前後の記述を読む限り同書中の記載はほとんどが1938年の「冀東暴動」を指しており、1937年の通州事件のことではないことがわかります。 114ページに、 冀東暴動のとき、冀東政府最高顧問の細木原特務機関長は、中国要人との宴会から帰って、着替えの間もなく殺され、つづいて日人二百人以上が惨殺された。 とあり(「細木原」は「細木」の誤記として)、この説明はどう考えても通州事件を指しているのですが、その他の場所で「冀東暴動」と呼んでいる事件では通州事件とは別個の事件を指しています。 どうも、森氏がこ

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    smtz8 2012/01/19
    わかりやすいエントリー感謝します。
  • 「憲兵物語」における通州事件に関する記述 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    通州事件のエントリーに関して以下のコメントを頂きました。 『憲兵物語』森堅吉(構成・三宅一志)によると ・通州事件の原因 共産党による長期的な地下工作の成果→事件後関係者は共産軍に逃避 日側は華北における共産党の浸透ぶりを軽視していて最後まで翻弄された ・中国側の残虐行為 遺体にも残虐行為をする、残虐行為の質は向こうのほうが上→日軍の残虐行為は それに対する報復 とされており当時の報道や証言は概ね事実に沿ったものと思われる http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20110813/1313252419 「憲兵物語」は随分以前に読んだ記憶がありましたが、さすが記憶が曖昧だったので図書館で確認してみました。ですが、 元憲兵の森氏は事件当時の通州にいたわけではなく事件直後に通州に入ったわけでもなく、同じ冀東*1でも主に唐山に勤務していたわけですから、通州事件に関する

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    smtz8 2012/01/16
  • 北平近郊における通州事件直前の日本軍による虐殺事件 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    「日人は差別されているという右翼の言い分もまた、きちんと聞かなければならないということだな」*1と言われたからではありませんが、主に南京事件否定派が「中国人による日人虐殺」と大騒ぎしている通州事件について、これまで結構調べてきました。 今回調べたのは、通州事件当時、通州近郊の状況はどうだったかのか、と言う点。 軍事行動については通州事件/通州(通県)起義の背景に記載しましたが、それ以外の部分です。なお、通州事件の際に通州だけではなく、順義でも保安隊の反乱が起こっていたと言う記述が寺平忠輔氏の「盧溝橋事件」にありますが、これ以外では見かけません。これについては要調査というところです。 さて、調べてみると、日軍は北京包囲の態勢を作る過程で進行路上の住民を少なからず殺害していることがわかります。 1937年7月27日 大興区 大興区は北京南方にあり、総攻撃時の主戦場となった南苑のすぐ西南部

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    smtz8 2011/12/02
    『北京周辺の戦争被害についてまとめた「北京抗戦損失調査」/とりあげた事例は、実態よりも少ないように感じますが、おそらくは精査して確証の少ないものは取り上げていないためではないかと思います』
  • 通州事件関連エントリー - 誰かの妄想・はてなブログ版

    通州事件歴史的な意味は、日が日中戦争にまい進していくにあたっての国民動員のためのプロパガンダとして利用されたという点にあります。正当性のない中国侵略を、どうして日国民が支持したのか、というのは歴史研究の重要な論点ですが、(軍部の責任が大きいのは言うまでもないですが)昨今ではメディアの責任についても研究が進んでいます。その意味では通州事件歴史学上、どのようにプロパガンダに利用されたかという点に重点が置かれています。 一方で通州事件をメディアとの関連ではなく、事件そのものとして研究した成果というのは、少なくともネット上ではあまり見かけません。軍事史学会などで通州事件関連の論文もありますが、日軍がなぜ居留民を守れなかったかというのが主眼になっており*1、事件そのものについては踏み込んだ研究がされていません。 通州事件そのものの存在については、否定するものはまずいませんので、「利用される

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    smtz8 2011/11/10
    『正当性のない中国侵略を、どうして日本国民が支持したのか、というのは歴史研究の重要な論点』
  • 通州事件の政治利用の始まり - 誰かの妄想・はてなブログ版

    通州事件に関する情報が通州外に届いたのは、7月29日正午ごろ日軍偵察機による報告が最初と見られます。しかし、29日中は航空機のみの情勢把握が行われただけで、ある程度の詳細が知れるのは翌30日午前1時半ころの通州城内の日軍守備隊との通信によってです。 この通信も無線通信で情報量には限界があり、そもそも日軍守備隊が兵営から出られない状況でしたから、居留民の被害についてはほとんどわかりませんでした。 居留民被害について明らかになるのは7月30日の夜明け以降で、通州外部からの救援が到着するのは30日午後4時になってからです。 報道機関が被害状況を現地取材したのは8月2日以降で、取材結果が報道されたのは8月4日以降です*1。 通州事件の詳細がまだ報道されていなかった8月2日、以下のような通信が上海の日大使館付武官から発せられました。 通州事件其他に関する報道の件 【 レファレンスコード 】

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    smtz8 2011/11/09
    id:gimonfu_usr氏 本論では「ゲリラ」(冀東保安隊の性質も戦闘形態もゲリラやゲリラ活動とはとうてい言えない)の話は一切していないし、他の疑問は関連エントリーを読むことをお勧めします
  • 歴史修正主義者の通州事件認識 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    通州事件に関しては以前、いろいろ調べた上で巷間言われているような猟奇的な集団虐殺ではなく、南京事件をはじめとする他の虐殺事件と同様の軍民虐殺であることを記事にしました。通州事件歴史的な意義は、日が対中全面戦争に突入するにあたっての国内向け反中プロパガンダに利用されたという点くらいで、虐殺事件そのものとしては特筆して取り上げる価値はあまりありません。 もし、通州事件を虐殺事件として歴史教育で取り上げるなら、平頂山事件や南京事件はもちろん、陽高事件、廠窖虐殺事件に至るまで取り上げなければバランス感覚に欠けると言えます。 バランス感覚に欠けた歴史修正主義者にとっては、通州事件中国を非難するための便利な道具でしかありませんから特筆して誇張して何度も何度も叩きます。 一方で、真面目な研究者にとっては、通州事件を詳細に調べる動機があまりなく*1、結果としてネット上では適当な通州事件プロパガンダが

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    smtz8 2011/11/03
  • 64年前の虐殺に対して賠償命令 - Apeman’s diary

    「壊れる前に…」さん経由で。 The Miami Herald, 09.15.11, "Indonesian massacre widows welcome Dutch ruling" (ASSOCIATED PRESS) 他の報道*1も参照すると、オランダ政府は60年代の終わりには事件について公式な調査をしていたようですが、「遺憾の意」を表明したのは2005年になってからのことだったようです。 今回の判決で興味深いのは、次の部分です(強要は引用者)。 In a landmark ruling Wednesday, a Dutch court said it was "unreasonable" for its government to argue the statute of limitations had expired for the 1947 massacre that left

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    smtz8 2011/09/17
  • 壊れる前に…: 裁かれた大虐殺

    Indonesian massacre widows welcome Dutch ruling - オランダの裁判所で戦争犯罪に関する注目すべき判決が下されたようです。独立を宣言したインドネシアに対する旧宗主国オランダの軍による大量虐殺事件に関する判決です。 事件は、敗戦によって日の占領から解放されたインドネシアが独立を宣言した1945年とオランダが独立を承認した1949年の真ん中、1947年に起こりました。当時 Rawagedeh、現在は Balongsari という名前の村で、オランダ軍が村の男性を皆殺しにしたそうです。殺されたのは150人とも430人とも言われています(この事件も、戦時中の大量虐殺で犠牲者の数を正確に知ることがいかに難しいかを物語っていると思います)。 この大虐殺については、オランダ政府は長い間、沈黙を続けてきて、2005年に初めて、インドネシア各地での蛮行の一つと

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    smtz8 2011/09/17
  • 日本「南京」学会という団体が何の注釈もなく記述されている件 - 法華狼の日記

    朝日新聞の熊地域情報において特集されている「軍都の風景」シリーズに、疑問符をつけたい記事があった。 中立的な報道を目指す朝日新聞の悪い面が出ているというべきか。双方の言い分を報じた内容自体は興味深いのだが。 http://mytown.asahi.com/kumamoto/news.php?k_id=44000001108170003 師団の関与 なお論争 古びた従軍手帳に、その一文は記されていた。 約三百補領ス 全部殺ス 書いたのは、陸軍第六師団の騎兵隊伍長だった牧野信人。日中戦争が始まって間もない1937年12月、国民党政府の首都だった南京攻略戦での記述だ。「捕虜300人を受け取り、全員殺した」と解釈できる。 39年5月、牧野は30歳で戦死。遺品の手帳は、故郷の山村(現・熊市植木町)に送られた。今は長男の久仁博(78)が風呂敷に包んで仏壇に納めている。 熊市を拠にしていた第六

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    smtz8 2011/08/24
    『中国首都まで乗り込んでおきながら「身を守るため」とは厚顔にすぎる。命令された末端の兵士は横に置いても、中国市民を殺さないと身を守れない場所まで軍を進めた指導者の責任はまぬがれない』
  • 通州事件に関する日本側証言は正確か?(Sさんの体験談) - 誰かの妄想・はてなブログ版

    「Sさんの体験談」というのは、佐賀県基山町の僧侶調寛雅(しらべ かんが)氏(2007年1月死去)がタイで設立した慧燈財団*1による「天皇さまが泣いてござった」に掲載された通州事件の目撃者というSさんという女性の証言です。自体が手に入らないため、ネット上への引用を信頼して記述します。 この「天皇さまが泣いてござった」というについては以下のように説明されています。 調前理事長が著し、平成9年11月に上梓されたこのは、前半部分が先の大戦によって日が蒙った被害について書かれており、後半部分は主に、調前理事長の自坊である因通寺 (佐賀県)に戦後開設された戦争罹災孤児引揚養護施設「洗心寮」を昭和天皇が行幸された時のことについて著されたです。 調氏は学徒出陣した経験を持ち、終戦直後に実家の佐賀県因通寺で戦災孤児を養護しています。その後1989年になってタイ北部に訪れ、日兵の遺骨収集やタイの

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    smtz8 2011/08/12
    「Sさんの体験談」「天皇さま~」で検索したらこの話はそれなりに流通しているとも、ネットでこの程度なら、とも言える。それにしてもこんなマイナーそうな本からでも見つける人の熱意は(むだに)すごいな・・・
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    皇帝フリードリヒ4世が死んだときのラインハルトの気分。 それはさておき、暗黒の7年8か月が暗黒の7年8か月で終わるように努力することは、今もなお求められているのであって終ったわけじゃない。 舛添氏がこんなことを言っていました。 https://twitter.com/MasuzoeYoichi/status/1269429507917705216 かつてテレビで「北朝鮮」と呼称すると、「正式国名を言え」と抗議され、私は「あんな国ですから」と言って、「不適切な発言でした」と謝罪させられた。アメリカ韓国も正式国名ではないのに、これには無言。それが日のマスコミの姿だった。左翼文化人が日を支配していた時代だ。拉致問題の背景。— 舛添要一 (@MasuzoeYoichi) 2020年6月7日 抗議されたのは正式国名を言わないからではなく、「北朝鮮」という呼称が蔑視や“正式な国として認めない”と

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    smtz8 2011/08/12
  • 通州事件に関する初期の日本側報道・証言(村尾昌彦大尉夫人の場合) - 誰かの妄想・はてなブログ版

    村尾昌彦大尉夫人の1937年7月31日時点(事件2日後)の証言が、東日大毎特電として発信されています*1。 鬼畜も及ばぬ残虐 東日大毎特電 1937年7月31日 通州反乱保安総隊顧問、村尾昌彦大尉夫人が頭に包帯をして顔その他に傷を受け、30日深夜、命からがら冀東政府長官秘書・孫錯氏夫人 (日人) とともに北平交民巷に逃げ込んだ。身震いが止まず反乱隊の残虐ぶりをポツリポツリと語った。 「保安隊が反乱したので、在留日人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち、29日の午前2時頃、守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーッと近水楼や特務機関の前に殺到して来て、10分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。 近水楼の前は日人の死体が山のように転がっています。子供を抱えた母が三人とも死んでいるなど、二た目と見られない惨状でした。私達はこの時家にいました。29日午前2時頃、保安隊長の従

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  • 通州事件における民間人殺害状況の考察 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    前回書いた経緯からわかるとおり通州事件における民間人殺害は、1937年7月29日早朝の冀東政府や日軍・領事館警察関係者の監禁・殺傷事件と正午前ごろの一般民間人の監禁・殺傷事件の二つの様態があります。 第一の冀東政府・日軍・領事館警察関係者の監禁・殺傷事件は、政府軍関係者の始末という反乱を成功させるためには避けられない行動と言え、家族は言わばその巻き添えになったと言えます。この過程では、冀東政府に派遣されていた日人顧問や学生計4人、領事館警察の警官及びその家族、通州特務機関の機関員らが主に犠牲になっています。これらの施設は通州城内の北門付近と西大街路にありました。近水楼のあった西海子から見て真東に冀東政府のある北門、真南に西大街路があります。特務機関や領事館警察は西大街路にありました。 朝日軒、北平館という旅館*1も特務機関と同じく西大街路にあったようで*2、おそらくは日人の政府・軍

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    smtz8 2011/07/24
    『時間が経つごとに残酷な表現が増えていくと言った被害者心理による誇張とは思えない部分が見受けら/殺し方が残酷であることを中国人の特性などと、民族差別の根拠に利用するなどレイシストの跳梁』