今日はICレコーダーを忘れた。まあ録音したのをそのまま起こしても使い物にならないし、いいか。 *フーコーの「統治性」 まずは近世絶対主義の内政国家における統治の論理――フーコーの言葉でいう「統治性governmentality」「統治理性governmental reason」についてのフーコーの議論を確認しておこう。 フーコーにおける「統治」なる語の用い方には気をつけておかねばならない。すなわちフーコーによれば、国家は統治の唯一の主体などではないし、国家が統治の典型的な主体とみなされる時代は一時的な、過渡的なものに過ぎないということである。フーコーの考えるところでは統治は教会の「司牧」と同一の系譜に連なる営みであるわけで、更に我々はすぐさま「家政」の概念に行き当たる。フーコーが注目する古典主義時代の内政国家とは、いわば「国家の家政」の主体であったわけである。 話は少しそれるが、フーコー没
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