ジョブズはピクサーをコンピュータ製造の会社に変えたが、そのせいで倒産危機に陥ってしまう。大リストラを始めた彼は、CGアニメ制作部門の閉鎖を求めた。そこには後に「トイ・ストーリー」を生むジョン・ラセターもいたのだが───。 音楽産業、エンタメ産業そして人類の生活を変えたスティーブ・ジョブズの没後十周年を記念した毎日連載、二十一日目。 ■「ジャスト・メイク・イット・グレート」 その日、ピクサーの経営会議は荒れているようだった。 ジョン・ラセターは、自分のブースで待っていた。会議室で何が起きているか、薄々感づいてはいた。いよいよリストラが始まろうとしている。オーナー、ジョブズの戦略ミスでピクサー社は大赤字が続いていたのだ。 閉鎖すべき部門があるとしたら、まず自分らだろう。コンピュータ販売を生業とするこの赤字ヴェンチャー会社に、アニメ制作部門があること自体が浮いているのだ。机をおもちゃだらけにして
「ルパン三世 カリオストロの城」に衝撃を受けたラセターだったが、念願の来日が叶い、「トトロ」を制作中だった宮崎駿監督に会う。興奮冷めやらぬなか今度は横浜で、窮地にあったジョブズとピクサー社を救うことになる「トイ・ストーリー」のアイデアを彼は着想する───。 音楽産業、エンタメ産業そして人類の生活を変えたスティーブ・ジョブズの没後十周年を記念した集中連載、第二十弾。 ■ネコバスそっくりに笑った宮崎駿 一九八七年。武蔵野はアカシデの森に秋風が舞う頃、三十歳になったジョン・ラセターは中央線に乗っていた。宮崎アニメに衝撃を受けてからもう六年が経ち、ディズニーを解雇された彼はピクサー社に転職していた。 来日できたのには理由があった。 オーナーのジョブズを驚かせ、じぶんの首を繋いでくれた世界初の短編CGアニメ、「ルクソーJr.」は日本のアニメ業界にも衝撃を与え、東京のカンファレンスに招待を受けたのだ。
歴史は数々の天才たちの仕事が絡み合って出来上がっている。宮崎駿監督がアニメ産業に起こしたイノヴェーションは、ピクサーのラセター監督を目覚めさせ、巡り巡ってジョブズの復活、iPhoneの誕生、そして世界の音楽産業の再生にまで連なっていく───。 エンタメ産業そして人類の生活を変えたスティーブ・ジョブズの没後十周年を記念する集中連載、第十九弾。 ■ジョン・ラセターと宮崎駿 二〇一四年、宮崎駿がアカデミー名誉賞を受賞した。日本人では黒澤明以来の快挙であり、アニメ監督としては史上初だった。この賞を得るともう他の賞は授与されなくなる、もしくは貰う意味がなくなるとすら言われている。映画界のノーベル賞といっていいかもしれない。 「アニメ史上、この芸術表現に誰よりも貢献した人物がふたりいます。ひとり目がウォルト・ディズニー。その次が宮崎駿さんです」 配給を担当したディズニー社を代表して、レッドカーペットの
ジョブズと「トイ・ストーリー」のラセター監督。ふたりには共通点があった。共にテクノロジーとアートの交差点を愛していたこと、そして若き日に追放された会社をやがて救う天才だったことだ。時代を変えるふたりが、出会おうとしていた───。 音楽産業、エンタメ産業のみならず人類の生活を変えたスティーブ・ジョブズ没後十周年を記念した集中連載、第十八弾。 ■天才をクビにしたディズニー社 彼は文字通り、待っていた。 CGでディズニー級の映画を創る。それこそ六〇年代、誕生したばかりのCGを見た学生時代からの、キャットムルのほんとうの目標だったからだ。ついにディズニー社が私のところにやってきた…。一九八二年のことである。 だが、デモンストレーションに張り切るキャットムルの心と裏腹に、視察団の反応は冴えなかった。 その背景にはAppleの創業が火をつけたパソコンのブームもあった。コンピュータが職場に入り込めば様々
イノヴェーションのジレンマは近年、日本の家電産業、世界の音楽産業も苦しんだ致死率の高い難病だ。Appleもそれで倒産しそうになった。そしてジョブズはこのジレンマを何度も乗り越えてみせたゆえに史上最強の経営者と呼ばれるようになった。 が、彼が初めてそれを成し遂げることになったのはコンピュータ産業においてではなく、その鍵をもたらしたのはアニメおたく上がりのアーティスト、ラセター監督だった───。 音楽産業、エンタメ産業のみならず人類の生活を変えたスティーブ・ジョブズ没後十周年を記念した集中連載、第十七弾。 ■天才創業者の死後。イノヴェーションのジレンマ ハリウッドの丘の麓。 椰子の並木道、屋敷、世界の六大映画スタジオが、カリフォルニアの陽を浴びて佇んでいる。音楽産業が売上を十倍しても届かぬ、映画産業の本拠地だ。 なかでも元祖「アニメの聖地」、ディズニー・アニメーション・スタジオは人気スポットだ
「PIXAR」は、経営、戦略、財務、といった経営層の考え方や実践を追体験したい人におすすめのビジネス書です。自分自身規模こそまったく異なりますが、いち経営者として共感する部分が多くありました。「PIXAR」のレビューします。あと、ジョブズのアップル外でのエピソードも多く、Appleファンにもおすすめのビジネス書です。 ビジネス書「PIXAR<ピクサー>」とは ピクサー社は、トイ・ストーリーなどの制作で有名なCGアニメーション制作スタジオです。現在はディズニーの傘下ですが、かつては独立系アニメーションスタジオでした。 本書では、その成長の経緯などを、最高財務責任者であるローレンス・レビー氏の視点で、その成功までがつづられています。 翻訳者は、井口耕二さんでIT技術にも明るく数々のビジネス書をヒットさせています。読んだあとに「ジョブズ本もこの人だったのね」と気づいて、その面白さにみょうに納得し
ジョブズは晩年、Appleの創造性の秘訣を「テクノロジーとアートの交差点」だと語っていた。彼はApple復帰時、その哲学を経営手法にまで発展させるが、「トイ・ストーリー」のジョン・ラセター監督との出会いこそジョブズのピクサー社を救った「テクノロジーとアートの交差点」だった───。 音楽産業のみならず人類の生活を変えた男、スティーブ・ジョブズ没後十周年を記念した集中連載第十六弾。 ■アニメおたくがアーティストになるまで 後に『トイ・ストーリー』を監督するジョン・ラセターは、ジョブズと年はほとんど変わらないが、ふたりはキャラクター設定でもしたかのように好対照だった。 黒のタートルネックのジョブズは菜食主義者。厳しい顔立ちで、その言葉は寸鉄人を刺し、職場に恐れをもたらす。アロハシャツのラセターはチーズバーガーが大好物。いつも冗談ばかり言って職場のみんなに愛されていた。 そんなラセターだがこの職場
「CG映画の制作なんて儲からないことは止めてCGワークステーションを売れ」それがジョブズの与えた指示だった。そのせいでピクサーは大赤字の会社になってしまう。だが社長のキャットムルはCG映画を創る夢を捨てていなかった───。 音楽産業、エンタメ産業そして人類の生活を変えたスティーブ・ジョブズ、没後十周年を記念した集中連載、第十四弾。 ■ジョブズは学ぶチャンスを得た 「はやく引っ越してこい」 買収早々、ジョブズはそう言って何度もせっついてきた。イノヴェーターは、既成の枠組みから物理的にも心理的にも外れたがる。初代Macの開発時もそうだった。若きジョブズは、早くも大企業病の兆候を見せ始めたAppleの本社ビルを嫌って、敷地の外れにある建物に籠もって開発を続けた。 おなじく「スターウォーズ」のルーカス監督はハリウッドの伝統に巻き込まれることを嫌い、スカイウォーカーランチをカルフォルニア州の外れに建
ピクサーの創業はジョブズに復活の未来を与えたのみではない。彼が新たな経営手法を学び、史上最強の経営者になるきっかけとなっていた。だがキャットムルが第一印象最悪のジョブズを嫌っていたらその道は閉ざされていただろう。そうなっていれば音楽産業を変えたiPhoneも誕生していない───。 スティーブ・ジョブズの没後十周年を記念した集中連載第13弾。 ■ジョブズの第一印象は最悪だった 「面白い奴らがいるよ」 そう言って、ジョブズにキャットムルを紹介したのは、もうひとりの天才アラン・ケイだ。 若きジョブズやビル・ゲイツに自分のつくったGUIを見せて霊感を与え、パーソナル・コンピュータの時代を促したケイは、キャットムルにとって同じサザーランド教授門下の先輩だった。 「初めて会ったときから気に入っていた」とジョブズは、やがて友となるキャットムルとの出会いをそう語る[1]。 後にそのことを聞いて、キャットム
ジョブズの人生は彼一人が作ったものではない。とりわけピクサーの創業者エド・キャットムルは図らずも公私に渡って彼の成長に深く関わることになる。彼こそジョブズが史上最強の経営者に新生するきっかけとなった人物だった───。 音楽産業のみならず人類の生活を変えたジョブズの没後十周年を記念する集中連載、第12弾。 ■才能がないとわかった後 『ピーター・パン』のティンカーベルに初恋を患い、オタクとなったキャットムル少年(後のピクサー創業者)は、部屋に線画台をしつらえて黙々とセル画描きの真似事に没頭していた[1]。 だが高校生にもなると、才能がない自分を受け入れざるを得なかった。セル画は描けても、大切な絵心が欠けていた。それで彼は、憧れのディズニー社に就職する夢を捨てた。 かわりにできることはないのか。 悩んだキャットムルは、とりあえず数学ができたのでユタ大でコンピュータ科学を専攻、そのまま研究者になる
再起したジョブズだったがことごとく事業に失敗し、遂にじぶんの人格や経営手法にこそ問題があったのだと受け入れざるを得なくなる。そして彼は変わり始めた。その変容なくば今、Appleはこの世に存在せず、iPhoneも無く、サブスクで音楽産業が復活する未来も霞んでしまっただろう───。没後十周年を記念する集中連載第9弾。 ■夜明け前。どん底で変わり始めたジョブズ 一九九二年、若きジョブズを追放したスカリーCEO率いるAppleがパソコン販売台数で世界一を記録。対してジョブズの方は、もはや資金の限界に達していた。 なにもかも諦めてしまおうか。中学生の長女リサと、生まれたばかりの長男リードと、最愛の妻ロリーンとで静かに暮らそう…。 当時、そんな相談を周囲にしていたという[1]。人生の目標が家庭の幸せと安定だというならば、彼はもうそれを達成しつつあった。 もうひとつの会社ピクサーでは、世界初のCGアニメ
フォトジャーナリストの小平尚典氏が撮影したスティーブ・ジョブズ。1987年から米国で撮影してきた小平氏いわく「製品発表会でのジョブズは、いつも自信に溢れていた」(写真/小平尚典)この記事の写真をすべて見る 「創業者」という言葉では収まりきらない比類なきカリスマ。米アップル社を創業したスティーブ・ジョブズが2011年10月5日に亡くなって10年が経つ。美学を貫き、妥協を許さなかった彼から私たちは多くを学んだ。AERA 2021年10月11日号は「ジョブズ没後の10年」を特集。不在の「10年」を問う。 【眼光鋭いスティーブ・ジョブズ氏…80年代から撮り続けた小平氏の貴重な写真はこちら】 * * * 「十年一昔」という言葉がある。現代の偉人、スティーブ・ジョブズの急逝は、私たちの多くにとって、まだ記憶に新しいニュースだ。あれから10年、世の中は大きく変わった。 彼が亡くなった2011年は東日
The Morning After: Should you upgrade to an iPhone 16?
スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)といえば、Appleだけでなく、PIXAR(ピクサー)の創業者であることを思い出す人もいるかもしれません。1980年代に、ジョブズは1000万米ドル(10億円以上)でLucasfilm(ルーカスフィルム)の傘下だったコンピュータによる特殊効果を担当していたスタジオを買収し、PIXARアニメーションスタジオが誕生したのです。 その後PIXARスタジオは徐々にその知名度を高めていき、1995年には世界で初めての3D立体アニメ映画『トイ・ストーリー』をリリースし、大成功を収めます。そしてスティーブ・ジョブズもこの成功によって再び知名度を得て、自身のNeXT社をAppleに買収させる形でAppleに復帰するための伏線を張ることになりました。その後PIXARスタジオはディズニー(Disney)に買収され、ジョブズは個人としてはディズニーの最大の株主となって
多くの映画ファンにとってPixarと言えばCGアニメ映画「トイ・ストーリー」ですが、同社はApple創業者のスティーブ・ジョブス氏が設立した会社でもあります。そんなジョブズ氏がサインしたトイ・ストーリーのポスターがオークションに出品されることが分かりました。 スティーブ・ジョブズ氏のPixar伝説 Appleを追い出されたスティーブ・ジョブス氏は1986年、「スター・ウォーズ」シリーズで知られる映像制作会社LucasfilmのCG部門を1,000万ドル(約10億円)で買収し、Pixarと名付けて独立会社にします。このPixarを世界的な有名企業の地位へと押し上げたのが、Disneyと共同制作した映画「トイ・ストーリー」シリーズです。 1995年に世界初のフルCG長編アニメとして封切られた「トイ・ストーリー」は、アメリカだけで1億9,200万ドル(約201億円)、全世界で3億6,200万ドル
2005年10月21日付けUSAトゥデイ紙の「資産管理法」なるコラムに、次のような文言が書かれていた。書いたのは、マット・クランツである。 ピクサー株もきら星のようだ。株価は過去5年間で171%も上昇。これは22%もの年平均成長率に相当する。同時期にスタンダード・アンド・プアーズ500種指数は低下しているわけで、これは本当にすごいことである。 だが、2005年後期は、さすがのピクサー株も、スーパーヒーロータイツを身につけることができなかった。 実際、ピクサー株はきら星だった。過去5年間で、ピクサーの時価総額は15~30億ドルから60億ドル近くまで上昇した。その結果、株のほとんどを持っているスティーブは、単なるビリオネアからマルチビリオネアと呼ばれる超大金持ちになった。ここで大事なのは、株価上昇がヒット作連発という前代未聞の偉業を反映するものである点だ。
すごい製品の誕生は意外なほど時間がかかるものだとスティーブから聞いたことがある。どこからともなく登場するように見えるが、その裏には、開発、試験、やり直しなどの長期にわたるくり返しが隠れているのだ、と。 そのいい例がピクサーだ。『トイ・ストーリー』の誕生に向けた動きは、16年前、ルーカスフィルムのコンピューターグラフィックス部門であったころまでさかのぼることができる。 以来、ずっと、奮闘努力の日々だった。課題も尽きることなく湧いてきた。それだけに、1995年11月のある週、たったふたつの数字がピクサーの未来を決める状況になっていたのは皮肉なことだと言わざるをえない。『トイ・ストーリー』公開週末の興行成績とIPOの公開価格だ。 最初の数字、公開週末の興行成績からは、『トイ・ストーリー』の最終的な興行成績が予測できる。公開は感謝祭直前の11月22日水曜日で、ディズニーによると、その週の金曜夜のチ
スティーブとは電話で連絡を取っていた。ほぼ毎日、たいがいは1日に何度も、だ。時間は特に決まっていない。私の自宅には、キッチンのFAXに並んで仕事用電話が用意してある。この電話が毎晩のように鳴る。 スティーブはいつも激しく、トップギアで走りつづけているみたいだったが、会話はいつも気安く、滑らかだった。前回の続きがするっと始まるのだ。家族のことなどで手が放せなかったりしたら、少しあとにかけ直す。会話が始まると、時速160㎞まで瞬間的に加速する感じがした。 週末、スティーブは、よく、我が家まで歩いて来た。5分ほどの距離なのだ。 「やあ、ローレンス。散歩に行かないか?」 こう言われるので、一緒にパロアルトの街中をぶらつく。スティーブほどになれば好きなところに行けるはずだが、彼は、近所でいいらしい。オークの古木や古くてすばらしい家屋があると立ち止まって眺める。新しい家屋に興味を引かれることもあった。
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