タグ

アイドルと乃木坂46に関するsubaru660のブックマーク (8)

  • 乃木坂46時代は“選抜落ちアイドル”だったが…地上波・初主演の伊藤万理華「大逆転の理由」 | 文春オンライン

    「きっかけ」という美しい歌がある。群衆の中で青い信号を見上げながら、自分の意思と人生の決断について考え始める一人の少女を主人公にした歌で、Mr.Childrenの桜井和寿が2016年に寺岡呼人のイベントにゲスト出演したステージでカバーしたことで一般にも知られることになった。 きっかけはアイドルグループ乃木坂46の曲 桜井和寿がこの歌をカバーしたことは、当時ある種の驚きを持ってWEBニュースで報じられた。ネットの動画サイトに上げられた録音音源では、実際のステージで観客が曲前の紹介で「えーっ」と一斉に声をあげているのがわかる。 その声は単なる驚きだけではなく、明らかにネガティブな拒否反応を含んでいた。桜井和寿が「ぜひカバーしたい」と寺岡呼人に申し出たというその曲「きっかけ」が、アイドルグループ乃木坂46の曲だったからだ。 桜井和寿は特にアイドルに好意的なアーティストではない。握手券付きのCDが

    乃木坂46時代は“選抜落ちアイドル”だったが…地上波・初主演の伊藤万理華「大逆転の理由」 | 文春オンライン
  • アンビバレントさに留まることから――『乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』刊行|香月孝史

    書は、「演じる」をキーワードにしながら、アイドルというジャンルを生きる人々について、あるいはその職能の“理解されにくさ”について考えるものです。 ここでいう「演じる」とは、しばしば芸能人に対してあてがわれがちな、「偽りの姿/真の姿」というような単純さで捉えられるものではありません。2010年代の女性アイドルシーンにあっては、オンとオフとが互いに侵し合うようなメディア環境を駆使してきたことも相まって、パフォーマーとしての〈表〉の領域と、「プライベート」としての〈裏〉の領域とを峻別しうるような捉え方は、的を射たものではなくなっています。 また、アイドルはいくつもの場所、いくつもの位相のアイコンを「演じ」続けることを職能としますが、そうした役割はひとつのスペシャリティとして世に理解されにくく、どこまでも非熟練的な存在として規定されがちです。アイドルが日々おこなっている「アイコンの上演」という

    アンビバレントさに留まることから――『乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』刊行|香月孝史
  • 「乃木坂論壇」は生まれ得るのか?(『乃木坂46のドラマトゥルギー』読書メモ)|レジー

    タイトルの通り乃木坂46が主題ではありますが、それを語るにあたってAKB48や欅坂46といった周辺グループももちろん引き合いに出されており、10年代のアイドルシーンを総括するとしての意義もあります。また、乃木坂46に絞っても、テレビを見ているだけではなかなか伝わらない「舞台演劇と乃木坂46」という切り口は新鮮です。 以下、気になったポイントのメモ 橋奈々未と生駒里奈文中では乃木坂の面々の過去インタビューでの発言がたびたび引用されていますが、橋奈々未と生駒里奈、この2人の「自分の言葉を持っている感じ」には驚かされました。 前者は比較的年長者としてアイドルグループに入った人としての「アイドルと若さ、刹那」的な価値に対する独特の距離感を、後者はよくわからないままグループのシンボルに据えられてきた立場も踏まえての「結局アイドルって何なんだろう」ということに対する哲学を、自然体かつ何物にも揺る

    「乃木坂論壇」は生まれ得るのか?(『乃木坂46のドラマトゥルギー』読書メモ)|レジー
  • 乃木坂46、グループが育んできた基調とは ドキュメンタリー映画が映すメンバー同士の愛着

    乃木坂46のドキュメンタリー映画『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』(以下、『いつのまにか、ここにいる』)は、2010年代に作られてきた多人数アイドルグループのドキュメンタリー映画群のなかでも、ひときわ静的なたたずまいを持っている。わかりやすくセンセーショナルな映像が呼び物になるわけでも、不条理な負荷が映し出されるわけでもない。けれども、もちろんそれはドラマの欠如を意味しない。 このドキュメンタリーが軸にするのは、乃木坂46メンバーそれぞれが他のメンバーたちに向ける愛着、あるいはそれぞれが乃木坂46メンバーとして過ごす日々に抱く愛おしさである。それはなにか特定の劇的な事件によって駆動されるのではなく、穏やかな言葉や振る舞いのうちに豊かに滲み出してくるものだ。一方でこの作品は、日レコード大賞の連続受賞や西野七瀬の卒業など、グループの形も社会的位置も否応なく

    乃木坂46、グループが育んできた基調とは ドキュメンタリー映画が映すメンバー同士の愛着
  • アイドル=少女というイメージは払拭できるか 乃木坂46らの功績と社会の現状から考える

    AKB48に代表される2010年代の女性グループアイドルシーンについて論じられるとき、その群像劇はしばしば「成長を見守る」ことを旨とするコンテンツとして解釈されてきた。芸能の入口に立つ人々を多く含んだ若年者たちによる表現の魅力のありかが語られるうえで、それはいかにも飲み込みやすい説明ではある。実際、彼女たちのパーソナリティが継続的に享受対象となるこのエンターテインメントにおいて、芸能者として成長してゆくプロセスや物語性が訴求力になってきたことは間違いない。 「成長を見守る」といった視点でグループアイドルを枠付けることは、「未熟さを愛でる」ものとしてアイドルを捉えてゆくことにつながりやすい。加えて、グループアイドルの代表格として存在してきたAKB48が、学生服を着想元にした衣装をたびたび製作したことも、アイドルの表現に若さや未熟さのイメージを結びつける。 AKB48がその多様で繊細なプロダク

    アイドル=少女というイメージは払拭できるか 乃木坂46らの功績と社会の現状から考える
  • AKB48、坂道グループ……今、世の中が求めるアイドルグループのあり方を改めて考える

    AKB48『ジワるDAYS』(TypeA) AKB48は、所属するメンバー個々が自己表現の方法を模索するためのフィールドとして、アイドルというジャンルを整備した。重要なのは、そこでメンバーたちが模索するアウトプットが、必ずしも歌唱やダンスといった音楽活動に直接紐付いたものだけでなくてもよいということだった。 所属メンバーたちは、有名性のきわめて高い組織の一員として活動することを媒介にして、自らの適性を世にアピールしつつその先の道をつかんでいく。指原莉乃がさまざまな媒体で卓越した平衡感覚を発揮しメディアのスターたりえたのも、吉田朱里らが動画配信やSNSでの立ち振る舞いで支持者を開拓したのも、AKB48が単にダンス&ボーカルグループとしてでなく、個々にとって間口の広い自己表現の土壌として存在したためである。あるいは柏木由紀のように、長い年月をかけてアイドルという表現スタイルそのものを洗練させ、

    AKB48、坂道グループ……今、世の中が求めるアイドルグループのあり方を改めて考える
  • AKB48、坂道グループ……今、世の中が求めるアイドルグループのあり方を改めて考える

    2010年代の終盤に至って、女性アイドルシーンは「坂道シリーズ」を軸にして特集され、語られることが多くなった。女性アイドルグループの代表的な特徴のひとつになってきた「競争」的なアングルに順応するのではなく距離をとり、いくぶん相対化するようなこれらのグループが大きな支持を集めているのだとすれば、そこには世の中がアイドルグループに何を求めているかについての、パラダイムの変化をみてとることもできるかもしれない。 乃木坂46『今が思い出になるまで』(通常盤) 他方、視点を変えれば、現在までAKB48の大きな武器としてある「現場」やSNSは、坂道シリーズの各グループが48グループほど駆使できていない要素でもあった。とりわけ2010年代前半にAKB48の熱狂のありかとして論じられてきたのは「現場」がもたらす一回性や共時性の感動や面白みだったが、同時期、乃木坂46は頻繁にライブを行える場をもたず「現場」

    AKB48、坂道グループ……今、世の中が求めるアイドルグループのあり方を改めて考える
  • 第4回 乃木坂46が「内と外」をつなぐ最新舞台公演 | 青弓社

    香月孝史(ライター。著書に『「アイドル」の読み方』〔青弓社〕、アイドル関連の記事多数) この連載の第2回で、乃木坂46が毎年恒例にしている演劇公演『16人のプリンシパル』について考察した。それは、AKB48との差異化や、グループ独自のカラーを演劇に求める意図から始まったこの企画の魅力と、同時に常にともなっている困難についてまとめたうえで、今年(2015年)開催される予定だった4度目の『16人のプリンシパル』を見据えるための論考だった。 しかし2015年、乃木坂46は恒例になっていた『16人のプリンシパル』の開催をやめ、演劇に関して新機軸を打ち出した。『16人のプリンシパル』のかわりに、2つの新たな演劇公演をおこなったのだ。それらは、連載第2回で詳述したような、入り組んだ上演形態をもつ『16人のプリンシパル』に比べればずっとシンプルなものだ。あらかじめ配役が固定された戯曲を上演することだ

  • 1