今の自分は、出会った人や読んできた本によって、できあがっている あの小冊子は、新聞の付録だったのか、記憶が曖昧で定かではないのだが、1ヶ月に1回程度の頻度で届いていた気がする。オールカラーで内容もさまざまだった気がする。その中には、プロ野球の選手名鑑もあって、私は、母から受け取り、大切にしていた記憶がある。母は、…
宗教的、倫理的判断とは - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - モヒカン族 http://mohican.g.hatena.ne.jp/summercontrail/20080525/rinri 自殺を「思いとどまらせる」、っていう発想がダメ。 「思い」くらいで何とかなるなら、自殺など考えない。 大切なのは、エリザベス・キューブラ・ロスの「分析」ではなく、実践。 たとえば、ネットの暴れん坊≒内省的自我の暴走をネット上だけで更正させることができるのかどうかという仮定の話ならどうだろうか? それが日々の生活に原因を持つものだとしたら、いくらネット上で=言葉で「大切さ」を説かれても何の役にも立たない。 インターネットは、言葉は、絶望的なツールとしてまず考えるべき。 力なき言葉は「跳躍」しない。 <追記>という名目の声の大きい独り言 そもそも自殺を「我執」と表現したのが、気に入らなかった。 も
レスのようだけど、話題はむしろモヒカンのようにシフトしているという関心で。参照エントリが短いので比較して引用部分は大きくなってしまうけど。 ⇒夏のひこうき雲 - 悪意ととる感性への敗北 真のモヒカン族になりきるなら活性化は可能だけど、それはたぶんとてもよくないことのような気がするし。 でもまあ客観的な意義は大きいようにも思える。ある種の予防にもなる。自分を押しとどめるのは、憎まれ役になることを回避しようという保身の気持ちであるようにも思える。よくわからないな。 私が文脈を外しているかもしれないけど、すでに一部では進行しているっぽいのだが、それなりに注目されているブロガーが別ハンドルでぶくまとかで扇動していたりしているみたいに、私なりとかが数名組んで、別匿名で、あるネットの活動を展開したりすると仮定する。冗談でいえば、finalventほのめかしなし、みたいな。その暴力性みたいなものはどんな
本当に対話の手段としてブログは極めて非効率的なのでしょうか?そうとは思えません。 対話の手段としてブログは極めて非効率です。左近さんとのやり取りも、対面での話し合いなら1時間にもなりはしない内容でしょう。だから、左近さんとの対話自体が私の主な意図ならば、電話という手段を使ってます。そうせずにこうしてブログで書いているのは、もっと他のところに意義を見出しているからです。 記事の改訂について とりあえず、効率をコミュニケーションによって得られたリターン÷コミュニケーションコストとします。ネットを通したコミュニケーションコストは確かに高いですが、コストを投入するしないを期待リターンによって選択できるのでトータルではコストは抑えられます。まあ、徳保さんやbewaadさんみたいに律儀に応対していると無制限にコストが増えますがそれはそういう選択をしているからでメディアの性質ではないです。リターンは人に
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大晦日イブの夜、今年10月下旬に発生した日本橋無断リンク事件を振り返ってみたい。 【2005年10月22日(土)】 ブログ「日本橋で暮らすということ」の管理人:reims3(らんす)さんが、エントリにて「むやみやたらと、本名を明かすのも、ほどほどに。」と、Webや電子メールにおける個人情報の扱いについて注意を促す記事を書いておられた。 しかし、らんすさんの公開プロフィールは詳細に記述されており、本名こそ書かれていないものの、数ページに及ぶプロフィールには詳しい経歴や職歴・趣味嗜好などが綴られていた。 そこで私は、「むやみやたらと、経歴を明かすのも、ほどほどに。」と、トラバ送信を行った。 takoponsの意味 - 言動不一致 この↑エントリを読まれたらんすさんは、「あたしのプロフィールを見て個人を特定することはできないわ。」というようなコメントを日本橋ブログ内に残され、常連の方も「大丈夫で
1. 一連の記事群へのリンクは末尾に。 人間はオートマトンではない/応答の真っ当さ(左近さん) 3月8日に応答をいただいてからしばらく間が空いたのは、どうにも私の思うことをうまく書けなかったから。とりあえず以下の書きかけの文章をしまいこんでおくのももったいないような感じがするので、これを公開して、この話題は棚上げにします。 2. 左近さんが「人格」というキーワードを抽象的なレベルでどう定義されているかは、たびたびのご説明のおかげでよくわかったのですが、そこから具体例を引き出すことが難しい。私が「人格の否定ってこんな感じ?」と提示した事例がことごとく「それは違います」と退けられていますよね。 「えっ!?」と思ったのが、「女はやっぱり感情の動物だな。これだから困るんだ」というセリフの解釈。私が付した状況説明を斟酌して、かなり寛容な立場を表明されています。左近さんがそこまで周辺事情に配慮して判断
そのようには生きられない(2007-03-02)の続き。 1. 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び(左近さん) 被害者が抗議しても、抗議自体が「女性は感情的だからな」「AB型は二重人格だからそういう抗議をする」などという話に解消されてしまって、まともに受けとめてもらえない(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論) という部分は読まれたのだろうかと疑問に思いました。 もし女性は感情的で、AB型は二重人格で、感情的な人や二重人格の人の主張は無価値と立証されているなら、その対応は別に間違っていないと私は考えます。どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。と主張する人には、甘んじて外道と呼ばれます、と私は答えます。 けれども、女性の発言が全て感情的であるはずがなく、AB型の人が100%二重人格のわけはなく、感情
血液型による性格判断を扱うテレビ番組に行き過ぎがあり、放送倫理・番組向上機構(BPO)が「いじめや就職差別を生んでいる」との抗議をもとに民放各社に慎重な対応を求める――11月末に流れたニュースをきっかけに、12月に入っても多くのブログで議論がされている。性格から考えて娘の血液型に納得がいかず、再検査したお母さんとか実に様々。 ABO式血液型による性格分類は、日本人のかなりが無意識に信じている面があって、ブログ上でも肯定派と批判派とに分かれる。いちいち数える訳にいかないと思っていたら、東工大奥村研が開発、提供している「blogWatcher」に参考になる機能を見つけた。キーワードの評判情報、つまり好悪の表現がブログ上に現れた数をカウントし、時系列グラフにしてくれる。ここに「血液型」を入れて調べたのが左のグラフだ。赤がポジティブ、青がネガティブな表現が現れた数である。検索の仕組みを考えると直ち
血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性(左近さん) ごく狭い範囲に限定して反応します。 いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。(1)(2)(3)それぞれに問題がある。 私はいずれも程度の問題だと思っています。とくに(2)と(3)については柔軟に考えたいと思っています。だから日常生活において、血液型性格判断への批判は(1)に限定しています。 (2)については、例えば「日本人にはアルコールの分解能力がなかったり、劣っていたりする人が多い」という情報があって、日本通の外国人ならこのことを知っています。だから私がカリフォルニアのロータリークラブの昼食会に招かれたとき(注:クラブ主催の短期交換留学プログラム
J-CASTニュース - 場の空気が読めない「モヒカン族」 何で今頃になってこんな話が出て来たのだろうか……謎。 しかも似非モヒカン族と混同しているような。 ちなみに「場の空気が読めない」ではなく、 「あえて読まない」か「読んだ上で状況に応じて壊す」のが モヒカン族だと思っているのですが……違っているか? と思っていたら、取材されていたotsuneさん自身が、 こんなエントリ立てていました。 http://www.otsune.com/diary/2006/10/22/2.html#200610222 職業も違っているなんて、酷い記事だったんだなぁ。 あ、はてなとWikipediaでは解説が全然違う事に驚きました。 それはもう全く別物ってぐらいで。 ・モヒカン族(はてな) ・モヒカン族(Wikipedia) (24日昼追記 Wikipediaの方は編集された後なので、 上の履歴タブで昔の記
Alerting humanitarians to emergencies 日本語ニュース ★スーダン政府、国連高官のダルフル入りを拒む ノルウェーの難民救済組織も退去へ (アルジャジーラ 4日16時07分) http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1824712/detail BBC News website スーダン特集 in Depth sudan: divided nation http://news.bbc.co.uk/1/hi/in_depth/africa/2004/sudan/default.stm スーダン・ダルフール危機情報wiki http://wiki.fdiary.net/sudan/ Reuters AlertNet - background material スーダン・ダルフール危機とは CRISIS PROF
日経春秋 ああ、恥ずかしいこの無教養(id:finalvent さん) エサウと暴風さん(id:summercontrail さん) 旧約聖書の話題。聖書は死ぬまでに一度は読みたいと思っているのだけれど、小中学生向けにリライトされたものでさえ、読んでいると欠伸がとまらないので、当面は無理なんじゃなかろうか、と思ってはいる。よくわからないけれど、何らかの波長が合わないのでしょう。それでも読みたい。ずーっと、そう思い続けている……だけで何もしないのが私らしいところ。 書店で聖書を立ち読みしてみたりはするのですが、広辞苑を1ページ目から読むようなものだなあ、と。最初は面白いですよ。でも、10ページも耐えられないでしょう。私にとって聖書というのは、そんな感じの本なんですね。聖書入門みたいな本もたくさんあるわけですが、別にキリスト教自体に興味があるというわけではなくて、私の場合、いろいろな小説や随筆
当たり前ですが。 ちなみにキリスト者とかイエス者(←普通こういう表現はしませんが笑。「人間イエスおっかけ」です)とか羅列してると、サウスパークシーズン801の挿入歌、「素晴らしいチンチンもの~金玉のためにある~」を思い出します。「←それは逆じゃないのか」という意見を男性の方から聞きましたが、別にそんなのどうだっていいんだー。 なんか私が自分のエントリ「聖書学は~」でオヤジポエマー様(マイネトア)の語る聖書学への想いに絡んでいたことについて、左近さんが「正しい信仰とは盲信を強要するものでも理性を制止するものでもない」にて引用紹介なさって下さっていたのだけど、なんか位相がずれてるとすれば、総体としてみんなでずれまくってるような気がしたので、確定申告後に体力が残ってたら概観を纏めてみようかなーとか思いました。 なぜって、私の長文コメントが更に渾沌を招いてしまったからー。あう。 ★3/18 やっと
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