田尻は近世儒学、とりわけ山崎闇斎や垂加神道の研究者である。数年前、『山崎闇斎の世界』(ぺりかん社)をじっくり読ませてもらった(予想していたより淡泊だった)。千夜千冊ではヴィクター・コシュマン(997夜)の『水戸イデオロギー』(ぺりかん社)の翻訳者として名前を記したことがあった。 その田尻がコンパクトな江戸思想史入門を書いた。中公新書では源了圓(233夜)の『徳川思想小史』以来だ。新書だからさまざまに削いではあるが、こちらは淡泊ではない。それなりの特質を強調していた。 本書で田尻が前提にしたのは、かつて内藤湖南(1245夜)が「日本のことは応仁の乱以降をどう見るかにかかっている」と言ったこと、網野善彦(87夜)が「日本は14世紀に民族史的な転換をおこした」と言ったこと、この二つを指標に、5つの組み立てをいかして江戸思想史を見ようということだった。 徳川期の社会思想は切り離されて議論されるべき
Oil speculators risk 'short squeeze' if impulsive Saudi Prince throws OPEC surprise (脊髄反射なサウジアラビアの王子がOPECサプライズをやらかせば、石油投機家が「売り浴びせ」ちゃうかも) By Ambrose Evans-Pritchard Telegraph: 9:33PM GMT 02 Dec 2015 Saudi Arabia risks a 'horrible family feud breaking out into the open' at a make-or-break OPEC summit on Friday サウジアラビアが金曜日の大事なOPECサミットで「薄汚い内ゲバをばらしちゃう」恐れあり。 Hedge funds have taken their bets. The market
〈物語化〉の方法は人類共通だが、人によって傾向が違う 「黒子のバスケ」脅迫事件の超偶然 ・「ほんとうに起こるかと言われたら、(案外)起こるかもな」と思うこと ・「作り話だけど、ほんとうらしいな」という納得感を持つこと このふたつのあいだにはズレがある、という話が前回出ました。そこで思い出したことがあります。 藤巻忠俊の人気漫画『黒子のバスケ』(集英社)をめぐって、2012年から翌年にかけて、大きな事件が起こりました。 「喪服の死神」「黒報隊」「怪人801面相」と名乗る人物が、『黒子のバスケ』作者の出身高校・大学、関連イヴェント(同人誌即売会を含む)の会場、アニメの放送局、グッズの製造元・小売チェーンに毒物を送付し、大量の声明文・脅迫状を送ったのです。 イヴェントの中止も多く、被害総額は莫大なものとなりました。 この一連の事件の最初の一歩は、作者・藤巻さんの母校・上智大の男子バスケットボール
ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz (1646-1716) ―宇宙は生命に満ちている ライプニッツの思想を簡単に説明するのは非常に困難です。ラッセルは、ライプニッツの論理思想を知らずにライプニッツを理解することは出来ない、と言いました。同じように、アリストテレスやスコラ哲学を知らずにライプニッツを読むことは出来ない、と言うこともできるでしょう。でもそんなことを言っていると切がありません。ここではライプニッツの「モナド(monade)」という概念を中心に説明します。 ライプニッツは「実体(*)」の意味を、アリストテレスが「本質=形相」と考えたのと同じように、精神的な存在と理解し、これに「モナド(単子)」という名を与えました。これは原子のようなものではありません。ギリシャ語の monas (一つ)という語から作られた、「私」の「意識(=表象)」がその原型であるよう
そのたびごとにただ一つ、世界のはじまり~瀧本往人のブログ いのちと世界のかけがえのなさに向けて、語り続けます。 ライプニッツは、奇妙な概念「モナド」を提起した。 モナドは、「アトム」と異なり、物理的な意味での「最小単位」ではないが、ある「実体」における「必須」のものであり、場合によっては「魂」とか、「いのち」「細胞」さらには「エネルギー」などと呼ばれることもある。とりあえず、「モナドロジー」でライプニッツが述べているものを抜粋して、その意味合いをつかんでみよう。 ・モナドは、真の意味で「アトム」(=原子)、分割できないものである (モ三、四) ・モナドは、(複合体をつくっている)個々の実体(基体)である (モ一) ・つまり、存在するものはすべてが、異なる (モ九) ・モナドに「窓」はない(外部がない、連関がない、部分がない) (モ七) →フッサールの解釈:精神的モナドは、その全面が窓である
読書余滴 2008/05/08 戸張 道也 道元のコスモロジー「正法眼蔵」の核心 岡野守也著(関東学院大学大学院神学研究科修了) 大法輪閣 平成16年3月 「コスモロジー」:「宇宙」がどのようなものであるかを語る言葉(ロゴス)の体系 1. 序章 「タイトルと本文について」 「正法眼蔵」:しょうほうげんぞう 「正しい真理・教えの眼の蔵」の意 道元(1200年ー1253年)鎌倉時代曹祠宗の開祖であり、法然、親鸞、日蓮、一遍らと並んで、「鎌倉仏教の代表的な存在の一人とされる。 「正法眼蔵」は、その主著である。 2. 道元の生きた時代雰囲気 「無常観」 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる者久からず、ただ春の世の夢のごとし。(平家物語) 3.家庭的な不幸と時代の混乱 父久我通親(新古今和歌集選者) 満二歳のときなくな
先日「公共哲学とは何か」を批判的に取り上げたところ、著者である山脇氏から「私自身はこの本が貴方の言うように「無害ないいとこどりの本」とは全く思っておりません(中略)現代社会のあり方について激しく論争しましょう。」とのコメントをいただきました。 僕も市民の端くれとして、このお誘いには誠実に対応しなくてはならないでしょう。というわけで山脇氏の講義で教科書にも指定されている「グローカル公共哲学」の書評とともに、僕の意見を述べたいと思います。 結論から言えば、それは「この公共哲学は理想主義ではあっても、理想的現実主義ではないのではないか」ということです。 ここでは「正義」の話はやめよう まずはじめに断っておきますが、僕は公共哲学が目指している価値について、その是非を判断しません。つまり何が正義だとか、何が倫理的だとか、語るつもりはないということです。それはこの記事の主題ではありません。 (むしろ個
3Mで開催されたブロガー向けセミナーに参加してきました。もう6回目なのですね。今回のテーマは「フッ素」でした。「フッ素」と聞いてもピンとこなくて、歯磨きペーストに入っている? くらいの認識でしたが、どういう素材なのか、利点があるのか、どういう場所で使われているのか、ということがよく分かりました。 自分のツイートをまとめておきます。 「フッ素」とは? 自然界にあるのは「蛍石」。鉱物の一種。主成分はフッ化カルシウム。 3Mとフッ素は? 1940年代からフッ素化合物がビジネスにならないかと研究していた 1952年に100人投入 当時としては3M史上最大の研究プロジェクトだった #3mjp — コグレマサト (@kogure) 2015, 6月 17 パッツィー・シャーマン 同僚がフッ素化合物を新品のテニスシューズにぶちまける 洗ったけど取れない! スコッチガード繊維保護剤ができる(撥水・防水スプ
高校の同級生たちに会った。こんなご時勢である。みなそれなりにしんどい事情を抱えている。だから、近況に属する話はさっぱり盛り上がらない。言えば愚痴になるし、聞いてもよく分からんし、分かってもしんみりするだけだし。で、結局は昔話になる。要するに「あのころは底抜けにバカなことやってたよねー」という、人畜無害な回顧談である。 そのバカなことの代表例といえば、間違いなく「悪事」であろう。私が通っていたのは広島市内にある私立男子校だが、私たちに限らず、あれくらいの年齢の男子は、危険な香りが大好きで、わけもなく向う見ずであることを競うものだ。その格好の標的になるのが、禁じられた行為、すなわち悪事であり、そこにギリギリまで接近することが少年たちの勲章になったりするのである。 「そういえば、麻薬クラブみたいなのを作ってたやつらがいたなぁ。あれAだっけ?」 あったあった、そんなことが。何ともさわやかさを欠く青
最近の大学ではレポートの書き方を教わる前にいきなりレポート課題が出ると小耳に挟んだので、大学1年生向けに卒論を書くころには知っていることになるレポートの書き方をまとめます。 私が文系だったので、理系の方には申し訳ないですが文系の方向けに書くことにします。ただし、教授がレポート形式を指定した場合はこのまとめに従わないでください。授業では教授が法律です。 レポートには「考えなくても書けるようになる」テンプレがある レポートで大事なのは中身です。ですから何を最初に書くか、どんな文体で書くかといった形式に関わる部分はあまり頭を使わないで済むように形式が決まっています。チェックする教授にとっても安心して読み進めることができますので、形式を守るようにしましょう。 【レポートを書く順番】 1.先行研究では議論がどう進んでいるか 2.先行研究だけでは足りない点はどこか 3.自分の意見(with 新しい資料
我と汝 マイエッセイのページへ 学生時代、先輩に勧められてマルチン・ブーバーの「我と汝」という本を読んだ。難しい本であったが、とにかくこの世には「我と汝」の世界と「我とそれ」の世界があることがわかった。その後いろいろ人生経験を重ねるにつれ、この2つの世界というものを実感するようになった。 ブーバー先生が聞いたら怒るかもしれないが、この「我と汝」の関係と「我とそれ」の関係は男と女の関係にたとえれば簡単に理解できる。要するに愛の延長としてHするのが「我と汝」の関係であり、H自体が目的なのが「我とそれ」の関係である。すなわち相手を一人の人格として扱い、その関係において心の交流を認めるのが「我と汝」の関係であり、相手を自己の目的として扱い、心の交流を感じないのが「我とそれ」の関係である。 人間関係としての「我と汝」、「我とそれ」 いろいろな人と出会うと、人との出会いには「我と汝」的関係になる人とど
学生から受けた質問をメモ。 質問:「定義はわかったのだけど、何故それを定義する必要があるのかわからない」 回答:「今、議論している枠組みの中にその概念は存在しないから」 数学では世界を一から作る 高校までの数学や常識として「同等である」という概念は、既に学んでいる、あるいは、当たり前のこととして私たちは受け止めている。ところが、大学で集合論やら、線形代数論やらを学ぶたびに、毎回「AとBが同等であるとは、〜ということである」とその分野における同等という概念を定義する。なんで、そんなことをしないといけないのか? 中二病的に言うと、数学では世界を一から作るため。その世界には、定義として定めたことがら、公理として導入した事柄、定義と公理、そして既知の定理より証明された事柄以外は、存在していない。 たとえるならば、「むかしむかし、あるところに山があり、おじいさんとおばあさんがいました。」と世界を定義
失われた夜の歴史 作者: ロジャー・イーカーチ,樋口幸子,片柳佐智子,三宅真砂子出版社/メーカー: インターシフト発売日: 2015/01/24メディア: 単行本この商品を含むブログ (8件) を見るじっくりと考えてみるまでもなくこの世界において夜は──「半分」を占めている。であればこそ、夜を抜きにして語られた歴史は本来の歴史の半分しか語られていないといえる。本書『失われた夜の歴史』は、産業革命以前の「まだ、明かり(主に蝋燭)がそれほど多数に行き渡らず、高価だった時代」の中世ヨーロッパに焦点をあて、夜に人々がどのように生き、どのような行動が起こり、またどのような考えを抱いていたのかを様々な側面、一次資料から徹底的に洗いだした凄まじい力作である。 夜? 昔の人は寝てたんでしょ、と単純に思うかもしれない。もちろん、今とおなじく大半の人は寝ていた。覆しのようのない真っ暗闇の中で。強制的に執行され
自分は何かに対して怒ることがほとんどないんですが、パートナーが仕事で怒りを感じることがあって困っているという話をしていたので、それならアンガーマネジメントについて勉強しようかと、いくつか本を集めてきて一緒に読んだり、話したりしてみました。 今回紹介する本はその中でも特に納得度が高かったものです。自分には特に必要ないかなと思っていましたが、自分みたいな怒らない人間についてもその理由が言語化されていて楽しめました。 「怒り」がスーッと消える本―「対人関係療法」の精神科医が教える 作者: 水島広子 出版社/メーカー: 大和出版 発売日: 2011/05/10 メディア: 単行本(ソフトカバー) 購入: 12人 クリック: 41回 この商品を含むブログ (12件) を見る ※Kindle版は書籍版よりも400円安くて1000円ぐらい。凄い時代になったものです。 怒りは自分でコントロールできるという
以下の小論は小田部胤久『西洋美学史』を補間する形で書かれているが、(言うまでもなく)内容が同書の水準にあることを保証するものではない。文中で参照される章は同書の各章である。 バウムガルテンは認識を知性と(広義の)感性に区別し、感性的認識の学を美学とすることで、芸術的直観をわれわれの認識のうちにはじめて明確に位置づけた。感性的認識の学としての美学は美についての認識論的な主観主義を導き、バウムガルテンを「当時最大の形而上学者」として敬重したカントによって精緻化された。そしてカントの認識論を背景にもつカッシーラーの『象徴形式の哲学』における「認識の現象学」に至り、芸術の地位はこの系譜の上で人間の精神文化のひとつにまで高められることになる。 客観主義と主観主義 芸術における美が認められるようになってから、芸術の認識論的な問題は特にその美の主観性と客観性に関連して議論されてきた。なお、美と芸術の関係
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