稲葉振一郎さんのコメント、「そういうバカでてきていない小人もだましてなだめすかしておだてて使うことが必要です」に関連して。 まずは、レヴィナスの『全体性と無限 (上) (岩波文庫)』(熊野純彦訳)より。 ・・・私たちが語りにおいて接近することになるのは多くの場合、対話者、つまり私たちの師ではない。むしろたんなる対象であるような相手や子ども、あるいはプラトンがそう語っているように、群衆のひとりとしての人間である*。子どもに教育するような、あるいは洗脳する場合のような語りはレトリックなのであって、それは隣人を策略にかける者の立場にたつものである。ソフィストの技術が、それとの対立関係において真理をめぐる真の語り、あるいは哲学的な語りが定義される主題となるのは、そのゆえにである。どのような語りもレトリックをまぬがれないけれども、哲学的な語りはそれを乗り越えようとする。レトリックが語りに抵抗しようと