2007年3月13日のブックマーク (2件)

  • 「我々」と「彼ら」のポリティクス (Dead Letter Blog)

    香山さんは指摘する。「安倍さんは著書『美しい国へ』のなかで、『わたしたち』と『かれら』という言葉を多用している。『わたしたち』は家族を愛し、国を愛し、公共心があり、にこやかで美しい。『かれら』は利己的で姑息(こそく)で悪意に満ちたイメージです。ものすごく違うのに、『わたしたち』や『かれら』のはっきりした定義は書かれていない。2者の線引きはあいまいで情緒的です。まるで漫画のような2項対立でしか世界をとらえていない」(2006.9.13 毎日新聞) 前回述べた「アンチノミー」についてもう一度おさらいしておく。安倍は国民の支持を取り付けなければ、政権が持たないことを知っている。国民から人気がある(少なくとも他人からそう思われている)ことこそが自らの権力源泉であることを知っている。そうでなければ、自分が現在の地位にいなかったであろうことも痛いほど自覚している。 一方で彼の認識のレベルでは、国民=「

  • 一つのアンチノミー(Dead Letter Blog)

    安倍は憲法改正の動機の説明においてよく「日人の手による憲法」という言葉を使う。この主張に色々と含まれている「議論としての甘さ」についてはとりあえず今は置く。しかし「日人が自ら憲法を書く=作ることが重要だ」と言っておきながら、例えば国民投票法案では最低投票率規定も設けず、「とにもかくにも成立させればこっちのものだ」的なやり方を図るのはなぜなのか。「日人が自ら作ったと思える憲法を」とは、「なるべく多くのコミットメントこそ憲法の重要な構成要素」であるということではないのだろうか。 「日人の手による憲法」=「(手続きにおいて)なるべく多くの国民がコミットした憲法」では必ずしも無いとすれば、それは結局「内容的に」日人らしい憲法であるということにならざるを得ない。しかしそもそも「日人らしさ」とは誰が判断するというのか。 思うにそれは「人権メタボリック症候群」に罹った「醜く」・「不健全な」