ブックマーク / deadletter.hmc5.com (16)

  • 「本当に困っている人」とは誰か (Dead Letter Blog)

    少し前の話題の蒸し返しで申し訳ないのだけれども。 インターネット上で「死ぬ死ぬ詐欺」と呼ばれ、問題視された事例があった。重い心臓病で移植手術しか助かる見込みのない少女の親御さんたちやその友人らがその費用をまかなう為の寄附を募ったことに対して、彼らの公表する会計データに一部不透明なところがあるとして、それを「会計責任を果たしていない」、「詐欺同然」と糾弾する人たちが現れたのだ。 僕の興味を引いたのはこの問題の糾弾者たちが、「少女の命を救うなと主張したいのではなく、会計責任を果たしていないから批判するのだ」という論法を採っていたことだった。だがしかし一口に「会計責任」と言っても、お金を集める際の規模、目的等によって果たされるべき責任の程度は様々に異なる。仮に批判者達が言うような「厳格な会計責任」が求められるとするならば、それはどのような理由からなのか? 様々な理由らしきものが語られてはいたので

  • ある種の道徳感情について (Dead Letter Blog)

    「時効殺人」賠償が確定=除斥期間適用せず-26年後自首の加害男に・最高裁のコメント欄に蔓延する殺人を犯した男への溢れんばかりの憎悪の「巨塊」は壮観ですらある。 曰く賠償以上に、一生苦しめてほしい殺人犯に魂の安息など与えてはならないはず時効で捜査が終了しても罪は消えない仕組みになればいいのに時効によって警察に追われなくなったからといってこいつの罪が消えたわけじゃないもちろん人の命はお金ではかえられないけど、遺族は生きていることに望みをつないで30年間、苦しみ続けたことを思うと安すぎるよなこの男以前テレビに顔を隠して出てきたのを見たけどその時も反省の言葉は出なかったな。人を殺して何が上告だ。賠償責任は当然の事だetc. 殺害されてから26年も経ってから「謝罪と賠償を!」と息巻く遺族に対して同情的なコメントが圧倒的多数なのがなんとも実に皮肉である。特に先の戦争で被害にあった人たちが民事訴訟を起こ

  • デマを指摘することの意味 (Dead Letter Blog)

    ここに一組の夫婦がいる。彼らは浮気をしてもいいということを暗黙の内に認め合っている。もしいきなり夫が、進行中の浮気について赤裸々に告白したら、当然ながらはパニックに陥るだろう。「もしただの浮気だったら、どうしてわざわざ私に話すの?ただの浮気じゃないんでしょ?」何かについて公に報告するという行為は、中立的ではありえない。(…中略…)秘密の情事についてたんに何も話さないことと、それについて何も話さないと公言することとの間には大きな違いがある(「いいかい、ぼくには人間関係すべてを洗いざらい君に話さない権利がある。ぼくの人生には、きみにはまったく関係のない部分があるんだから」)。後者の場合、暗黙の約束が明るみに出たとき、かならずやこの宣言そのものが更なる攻撃的なメッセージを発することになる。 学問の世界で、同僚の話がつまらなかったり退屈だったりしたときの、礼儀正しい反応の仕方は「面白かった」と言

  • シニシズムの放棄について (Dead Letter Blog)

    mojimojiさんの一連のEntry周辺の議論。 排外主義者、あるいは日曜サヨク 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その4 論点は2つ。 ・ネット右翼がなぜ中国のチベット支配を批判できるのか? ・中国のチベットへの抑圧を批判する為に左翼・人権派とネット右翼・保守派は共闘すべきか? 前者について。左翼・人権派がチベット問題を「ネット右翼が満足するようなかたちでは」取り上げていないこととチベット問題に類する人権問題に関してネット右翼がどのような態度を取ってきたかということは同列に並べられるべきではない。 仮に左翼や人権派のチベット問題への関心が相対的に低かったとしよう。しかし人間が有限的存在であって、あらゆる問題へコミットすることはできない以上、それは矛盾とまでは言えない。もしチベット問題について左翼・人権派がどの

  • 「一意的な解」を僭称する人々 (Dead Letter Blog)

    前回のEntryの補足。 それほど注意深く読んでもらわなくても分かると思うのだけれども、別に僕はジェイコブスの「2つのカテゴリー論」を前提にしていない。僕は単に「普遍的な倫理」、もっと分かりやすく言えば、「あらゆる局面において適用しうるモラル」など「存在しない」ということを前提にしているだけなのだ。 ところで僕は先日、俳優の吉田栄作が「R25」のインタビューで興味深い逸話を披露しているのを見た。彼はまずインタビュアーに「自衛隊員にとって最も重要なスキルはなんだと思うか」と問いかけ、最新作の映画の役作りの為に入隊した自衛隊の部隊の上官が教えてくれたことを得意げに披露したのだ。ちなみに彼が言うには、それは「使命感」なのだそうだ。まず指令があって、ターゲットに向かっていく以上、それだけに貪欲であらねばならないまず使命感。体力も頭脳も思いやりも、それを全うするために必要なだけ。「劇中で、3年間行動

  • 自縄自縛な言説について (Dead Letter Blog)

    沖縄の集団自決に関する教科書記述を巡る問題で、読売や産経などが「教科書は政治によって干渉されてはならない」などと主張している。 まさにお笑いである。先の教育法改正論議で時の文部科学省は「民主主義的な選抜プロセスを経た政治権力が教育に介入するのは不当な支配であるはずが無い(そうでない力が働くことこそ「不当な支配」だ)」と答弁してきたわけだ。当Blogではその点について批判してきた。ところで今回の「政治的干渉批判派」はその時それを痛烈に批判したのだろうか? 安倍晋三政権がこれだけ早く倒れ、その後にこれだけ方針転換がなされる事が予想できなかったのはお気の毒というより他は無い(もちろん僕も予想など出来なかったわけだけれども)。だが彼らは例えば教育法がなぜ「準憲法」とも呼ばれ「統治権力を制約する意味合いを持つ」とされてきたのか、その意味合いを全く理解していなかったことが、改めて暴露されたわけ

  • 「被害者の人権」は普遍的か? (Dead Letter Blog)

    仮に子を惨殺された夫が、葬式で涙の一つも見せず、その翌日に女と遊びに行ってしまうような男だったとしよう。さらにもう一つ、彼の殺されたもしばしば育児をほったらかしにしながら男と浮気をし、家庭内不和が表面化していたと仮定を置いてみよう。つまり彼らの家庭は世間的に見て眉をひそめられるようなものだったのである。 さてその被害者遺族=夫がいかにも美味そうにタバコの煙をくゆらせながら記者会見でこのように主張するのである。 「犯人を決して許すことが出来ない。彼は許されないことをした。命をもって償わなければならない。」 光市母子殺人事件の被害者遺族である村氏はもちろん上記のような人間であるどころか、それとは正反対にあるような人である(ように少なくとも僕には「見える」)。彼は生真面目なサラリーマンであり、そして大恋愛の末結ばれたと待望の一人娘を一途に愛す良き家庭人でもあった。彼の家庭は現代の社会に

  • 「我々」と「彼ら」のポリティクス (Dead Letter Blog)

    香山さんは指摘する。「安倍さんは著書『美しい国へ』のなかで、『わたしたち』と『かれら』という言葉を多用している。『わたしたち』は家族を愛し、国を愛し、公共心があり、にこやかで美しい。『かれら』は利己的で姑息(こそく)で悪意に満ちたイメージです。ものすごく違うのに、『わたしたち』や『かれら』のはっきりした定義は書かれていない。2者の線引きはあいまいで情緒的です。まるで漫画のような2項対立でしか世界をとらえていない」(2006.9.13 毎日新聞) 前回述べた「アンチノミー」についてもう一度おさらいしておく。安倍は国民の支持を取り付けなければ、政権が持たないことを知っている。国民から人気がある(少なくとも他人からそう思われている)ことこそが自らの権力源泉であることを知っている。そうでなければ、自分が現在の地位にいなかったであろうことも痛いほど自覚している。 一方で彼の認識のレベルでは、国民=「

  • 一つのアンチノミー(Dead Letter Blog)

    安倍は憲法改正の動機の説明においてよく「日人の手による憲法」という言葉を使う。この主張に色々と含まれている「議論としての甘さ」についてはとりあえず今は置く。しかし「日人が自ら憲法を書く=作ることが重要だ」と言っておきながら、例えば国民投票法案では最低投票率規定も設けず、「とにもかくにも成立させればこっちのものだ」的なやり方を図るのはなぜなのか。「日人が自ら作ったと思える憲法を」とは、「なるべく多くのコミットメントこそ憲法の重要な構成要素」であるということではないのだろうか。 「日人の手による憲法」=「(手続きにおいて)なるべく多くの国民がコミットした憲法」では必ずしも無いとすれば、それは結局「内容的に」日人らしい憲法であるということにならざるを得ない。しかしそもそも「日人らしさ」とは誰が判断するというのか。 思うにそれは「人権メタボリック症候群」に罹った「醜く」・「不健全な」

  • NHKは死に続けている (Dead Letter Blog)

    NHKは死んだ」 「(続)NHKは死んだ」報道ステーションでの安倍晋三の「修正作業は何日も前から始めていた。私が会う会わないは全く関係がない。」という弁明は、やはり奇妙だ。仮に番組内容が「偏向(この単語はナンセンスなので用いたくないが)」していたとして、自主的な修正作業が為されていたのなら、なぜその最中に安倍にNHK幹部がわざわざ自らお伺いを立てる必要があったのだろうか。また、その後NHK幹部による異例の試写、そして放送直前に番組の放送時間を縮めてまでカットするという、これまた業界内でも異例の事態に発展していたということ、これを合理的に説明するには、彼の主張はいかにも白々しい、と言わざるをえないのではないか(修正作業が予定通りに進んでいて、なぜそんなにバタバタした段取りになるのか)。 先日の控訴審判決で「NHKが自主的に修正作業を始めていたので、安倍・中川がNHK幹部に会ったか会わない

  • 法のレジティマシー? (Dead Letter Blog)

    「現行法はアメリカから押し付けられたものであり(南原繁の言を聞く限りそうは思えないのだけれども)、正統性に瑕疵がある」と主張していたのは稲田議員だったっけか。「改正案を成立させるためなら、手段は(合法でありさえすれば)問わない」というのなら、現行法の正統性の瑕疵について、大口を叩けないんじゃないのか、というのは気のせいだろうか。 また、(世論調査等を見ても)国民の間に理解が広まってるとは決して言えないこと、改正に疑問を持つ人たちが少なくないこと、多くの現場の校長(公立の小中学校)が反対していること、を踏まえ、少なくとも立法事実(法を創造する場合の基礎を形成し、それを支えている事実)、つまり立法の必要性くらいは丁寧に立論すべきではなかったか。もちろんそれが出来るくらいならヤラセなどしなかったのだろうけど。 この法律は(1)現行憲法の掲げる価値観とは異質のものを含んでいるにもかかわらず(2)貧

  • 「与党ボケ」ここに極まれり (Dead Letter Blog)

    この文言は時の政権、あるいはそれに影響力を行使しうるものから教育を守るということに主眼がある。これは、戦前、軍部が教育に介入してきたという歴史を踏まえているのはもちろんのこと、おそらく終戦直後、共産主義政権の誕生が現在よりももっと現実味を帯びていた時代、彼らによって教育が牛耳られることのないよう、リスクをヘッジする意味合いもあったのではないだろうか、と推測する。今回の改正で法律に基づいて行なわれる教育は不当な支配に服するものではないことを明確したところでございます。それによりまして、法律に定めるところにより行なわれる教育委員会等の命令や指導などが不当な支配ではないということが明確になったものと考えておるところでございます。 (10/31 稲田議員の質問に対する田中生涯学習政策局長の答弁より)与党の人間に聞きたい。「不当な支配」の排除の宛名から「教育行政」を外して当に良いのか?仮に、あなた

  • 「伝統」の効用 (Dead Letter Blog)

    「裸の個人のまとう衣」の続き(当は続けて書くつもりだったのだけれど、何だかんだで間が開いてしまった)。先日「クッキーと紅茶と」にコメントさせて頂いたんだけど、そのことと絡めて、当Blogにたびたび登場する哲学者永井均氏の、「キリスト教と原罪」についての議論を援用しながら(パクリながら)、少し考えてみたい。 キリスト教と原罪の話は頻繁に彼の著書に登場する。誰にも借金した覚えのない者に向かってこう吹聴してまわる人物がいたらどうだろうか。「まだ気づいていないかもしれないが、お前はじつは莫大な借金をしていたのだ。でも、安心しろ。お前のその借金は、なんともう俺たちの親分が支払ってくれたのだから」。これを聞いて身に覚えのない者もつい感謝したくなるだろうか。(『これがニーチェだ』)情欲を持って女性を見ただけで姦淫したことになる、といった言い方に代表されるように、キリスト教の道徳的要求は内面にまでい込

  • 「裸の個人」のまとう衣 (Dead Letter Blog)

    「裸の個人」、いかなる規範、文化からも自律した個人など存在しない。個人とは常に、共同体内的存在であり、帰属する共同体の文化、規範、認識の枠組みといったものに侵されている存在である。このような「共同体なくして個人なし(「裸の個人」は存在しない)」という類のテーゼを「共同体主義テーゼ」と仮に呼んでおく。 この共同体主義テーゼが主張するように、実際、個人は自分の為す行為、判断が何を前提にしているかという事について、常に明晰であるわけではない。自分が為した判断が、一切の事柄を括弧に入れた上で、自律した「理性」のみにより導き出したものだ、と思ってはいても、それが、自らの属する共同体固有の慣習、文化、認識的枠組みに「誘導された」結果に過ぎない、ということは、いかにもありそうなことだ。 けれどもここで疑問が生じる。この自分が為した判断を「誘導した」当のものは一体なんであるのか?それは言挙げすることはで

  • 「代表」について (Dead Letter Blog)

    前回のEntryでは「郵政民営化問題以外は白紙委任で」とでも言いたげな解散権者とその取り巻きたちを批判したわけだけれども、ここで少し立ち止まって考えたい。 そもそも間接民主制の下での議員は質的に「白紙委任」されているものなのではないだろうか?憲法51条は有権者から議員に対する「自由委任の原則」を定めている。極論すれば選ばれた議員は、選挙期間中に為した選挙公約をその後翻そうとも、まさに「そんなことはたいしたことじゃない」というわけだ。となると疑問が湧く。仮に何も委任されていないのなら、なぜ議員は国民を「代表する」などということが言われるのだろうか? ちなみに「代表」は、法人と機関(例えば経営陣)が典型なのだけれども、Aの行為についてBが行ったと同じ法律効果をBに生じさせる、そういう関係のことだ。つまり国会議員が行ったことは国民が為したこととみなす、と言えれば議員は国民を「代表」している、と

  • 「強者」の責任 (Dead Letter Blog)

    尼崎の列車脱線事故で、被害があったマンションの住人たちとJR西日の間で損害の補償の交渉がもめているようだ。 僕はどちらの言い分が妥当かとかそういうことにはあまり興味がない。ただ、この種の社会的パニックを引き起こしたような事件で「場の空気」による解決が為されなければ良いな、ということは思っている。 新聞その他のニュースによるとJR西日が提示しているもので目を引くのは「マンション住民全世帯に対する購入価額による買い上げ」だ。物損事故についてはそれまで使用し続けた分の価値を差し引いて「時価」で補償額を算出するというのが普通だという。 なぜJR西日はより踏み込んだ提案をしたのだろうか。まず考えられるのには今回の事故が非常に大きな社会的非難を引き起こすような事件だったことがある。通常より多めに補償をすることで「誠意」を示し、それを落ち着かせたかったということがあるのではないだろうか。つまり「場

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