2007年7月15日のブックマーク (4件)

  • 「暴力性」の話を振り返って1 - Arisanのノート

    ベンヤミンの暴力観について ベンヤミンやドゥルーズ=ガタリについて勝手なことを書いているので、他の人たちはどんな読み方をしているのか調べようとおもってインターネットで検索してみた。驚いたのは「暴力批判論」を論じてる人がすごく多いということだ。それだけ魅力的な論文なのだろう。分量が少なく、すぐ読みとおせるのに、読めば読むほどわからない部分、言いきれない部分がでてくる。欠点もある論文だと思うが、並外れて鋭いことは間違いない。 ただ、ここで「神的暴力」ということを言ったためか、ベンヤミンを暴力肯定の思想家とする見方もかなりあるようだ。あんなに非暴力的な人はいないと思うんだけど。 「神的暴力」にしても、ドゥルーズたちとは違って、非常に苦しんで、やむをえずという感じで出してきているようにおもう。「神話的暴力」を肯定して終わりそうなところで、またそれが権力的だということを暴いて、そこからもう一度可能性

    「暴力性」の話を振り返って1 - Arisanのノート
  • 暴力性を考え直す その3 - Arisanのノート

    『「運命のように彼らはやってくる、原因も理由もなく、遠慮会釈も口実もなく、・・・・。」』 『千のプラトー』*1の第12章、「遊牧論あるいは戦争機械」と題された章に引用されているこの一文は、カフカのテキスト「一枚の古文書」の一節ではないかとおもっていたのだが、手元にある『カフカ寓話集』*2にあたってみても、おなじ文の異なる訳だとおもえる部分をみつけられなかった。 だが、ドゥルーズ=ガタリという書き手とカフカというもう一人の書き手とのむすびつきがきわめてふかいものであることは、『千のプラトー』のなかになんどもカフカへの言及があることからもうかがえるし、なんといってもドゥルーズ=ガタリには『カフカ――マイナー文学のために』*3と題されたいう有名な著書まであるのだ。 上の文章につづいて引用されている次の一節は、「一枚の古文書」のものであるとかんがえてよいようだ。 『「いかにして彼らが首都にまで侵入

    暴力性を考え直す その3 - Arisanのノート
  • 「暴力性」を考え直す その2 - Arisanのノート

    ベンヤミン論、やりなおします! きのうの文章で、ベンヤミンの論文『暴力批判論』の要旨を紹介・検討したが、あらためてかんがえてみると、ベンヤミンがこのなかでのべている「神話的暴力」と「神的暴力」という暴力の両義性の分析は、たいへん重要で現代的なものをふくんでいるとおもう。きのう書いた要約は、正直、あまりにもおざなりであったというしかない(終わりまで読んでくれた人には、申し訳ない)。 そこで、ドゥルーズ=ガタリの議論についてかんがえるまえに、もうすこしベンヤミンのこのかんがえの周囲にたちどまってうろうろしてみることにしたい*1。 「手段としての暴力」への徹底的な批判 さきにものべたように、ベンヤミンが、「神話的暴力」と「神的暴力」という暴力の根源的で両義的な相をみいだすのは、国家を構成する法的なものの見方、考え方の「外」にでて、暴力をとらえようとした結果だといえる。 法的な視点、つまり国家の目

    「暴力性」を考え直す その2 - Arisanのノート
  • 「暴力性」を考え直す - Arisanのノート

    このブログの最初のところで、ぼくは自分のこれまでの生き方や生活態度が根的に暴力的・権力的(この二つの語をとりあえず並置した)だということを書き、その暴力性や権力性は「周囲の社会」が有する暴力性にぼくが「従属・同調」しているために生じる、いわば「周囲の社会」(広く言えば「近代」以後の人間の社会)と相同的なものと捉えるべきだろうということを書いた。そして、そこから類推して、一般的に現代の人々、特に若い人たちのなかにあると思われる「否定的な感情や衝動」を、同じように「周囲の社会」全体と相同的なものとして捉えることを提起した。 暴力性と権力性という二つの語を無自覚に併記していることも問題だが、さらに「否定的な傾向や心理」と暴力性(及び権力性)とを、ぼくがまぜこぜにして考えていたことが、ここまでで分かる。この曖昧さを確認しておこう。 10日の文章では、現代の日の若い人たちの心理的傾向としての「自

    「暴力性」を考え直す - Arisanのノート