2012年6月9日のブックマーク (2件)

  • 左袒と右袒 - てぃーえすのメモ帳

    (呂)祿遂解印屬典客、而以兵授太尉(周)勃。勃入軍門、行令軍中曰「為呂氏右袒、為劉氏左袒。」軍皆左袒。勃遂將北軍。 (『漢書』巻三、高后紀) 前漢の呂后死後、太尉周勃は呂氏から権力を奪うため、呂禄の握っていた漢の北軍(中央軍)の兵権を奪回した。 そして軍中に入り、将兵に対して「呂氏の味方となるものは服の右肩をはだけろ。劉氏の味方となるものは服の左肩をはだけろ」と言った。 将兵はみな左肩をはだけた。 つまり呂氏ではなく劉氏の名の元にやってきた周勃の味方をするということである。 これが「左袒」という故事の元であるが、これはただ左右で区別するために片側だけ肌脱ぎするよう命じたのではないと思う。 凡以禮事者左袒、若請罪待刑則右袒。 (『礼記』檀弓下、疏) 儀礼の中で肌脱ぎするときは左をはだけ、罰を乞い、刑を受けるのを待つという場合に右をはだける、というのが古代の礼であったようなのである。 もちろん

    左袒と右袒 - てぃーえすのメモ帳
  • 妻争い伝説 - heuristic ways

    漱石『草枕』の中に、「余」が茶屋の婆さんから「長良(ながら)の乙女(おとめ)」に関する物語を聞かされるくだりがある。*1「昔しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者の娘が御座りましたそうな」「へえ」「ところがその娘に二人の男が一度に懸想(けそう)して、あなた」「なる程」「ささだ男に靡(なび)こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩(わずら)ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう  あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも と云う歌を咏(よ)んで、淵川(ふちかわ)へ身を投げて果てました」  これに関して、三好行雄氏は巻末の注で、『万葉集』巻八の日置長枝娘子(へきのながえをとめ)の歌や、巻九の高橋虫麻呂の葦屋(あしのや)の菟原娘子(うなひをとめ)の歌などに基づいて構想された架空の少女の物語だと述べている。 日置長枝娘子(へきのながえをとめ)の歌は、『草枕』に引用さ