カントをもじって「歴史の教訓的使用」と題したからには、マルクスから「一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として」の名文句を引いてその出典について蘊蓄をひとくさりしつつ、おもむろにハーバーマス「歴史の公的使用について」(『過ぎ去ろうとしない過去』)を引っぱり出して歴史修正主義について論じるといった「遊び」が必要だというのが、このリレーエッセイで私が主張してきたことの一つである。 白か黒か短兵急に決着をつけたがる議論は危い。せめて結論のない蘊蓄をひとくさりするくらいの「遊び」がないと、考えることが苦痛になる。それは裏返せば、思想が恫喝の道具になりかねないということだ。さあ考えろ、結論はこれだ、というわけだ。来年あたりから小中学校で実行されようとしている教科としての道徳教育とはそうした恐喝に、きっとなる。 教科としての道徳教育は、思考に対する恐喝の道具となる。なぜそう言えるかというと、