R指定のキッザニア(キッズじゃないけどさ)作ってくれないかなあ。子供のころなりたかった夢の職業に就くのです。おとうさんみたいになりたい 公園おにくやさん 何も言わずにラベルを付け替えるんだ。加工すれば付け替える必要もないんだ。ついでに言うと腐りかけを水で洗って味付け肉にするんだ。せんせえ デジタルカメラで生徒の日常を撮影する。自然な表情を写すためにこっそり撮るのです。およめさん キッチンドランカーおはなやさん 葬儀屋の担当者にキックバックだいくさん(を使う会社) 同業者で相談しよう、そうしよう。でんしゃのうんてんしゅさん*1草むしりおまわりさん 賭け麻雀、「転び公妨」、不祥事のもみ消し、デモ隊と一緒にデモ、別件逮捕、脅迫まがいの自白強要、被害届けの受理の拒否。北九州市役所の職員 「親戚いるでしょ」申請書を渡すと給料がもらえない。おいしゃさん ERごっことか、保険の水増し請求とか。新聞記者警
メモ書き。分類項A《自己への没入-自己からの逃亡》何はともあれ、近代というのは《自己》ということの病を所持している。もっと堅くいえばエゴイズムの問題だ。この場合、自己ということの病というとき、わたしがどうしようもなくわたしであるということをさす。ミードの図式を借りるならばI(自己を見る自己)とme(対象化された自己)のmeの部分ではなく、このどうしても「I」であらざるをえないという状況のことだ。問題は、哲学/現代思想において「自己」の問題を語るとき、「自己への没入」、すなわち「わたしとはいかなる存在か」ということに悩み続けるのとは別に、「自己からの逃亡」、すなわち「わたしとはこのような存在ではないのではないか」という二つの問いが同居している。ポストモダンの「自己」の解体の仕方は後者であった。しかし、この「自己」の解体は、逆説的に「自己」の問題を否定神学的に押し上げただけだったという見方もで
例えば「男らしさ/女らしさを否定するのは云々」、「父権が云々」、「日本人としての誇りが云々」という主張をみたときに、似非リベラルであるところの私が失望するのは、その主張をする当の人物が、ちっとも男らしくなく、日本人たるの名誉を意図的に汚しているようにさえ見えるからである。私の中には「男らしさとはなにか」(そしてその不可能性)、「良き日本人たることとは何か」(そしてその無根拠性)があり、相反しながら併存している。私は規範意識と無縁ではない。だからこそ、考えてしまう。「権利ばかり主張するやつ」「躾のなってないやつ」「自分の民族的出自に誇りを持たないやつ」を口角泡を飛ばして罵倒するのは、果たして男らしい行為だろうか。そうであるならば「男らしさ」など完全に解体されたっていい。男らしい奴ってのは、黙って自分の持ち場を守る、そういう奴であって欲しい。子供に細かいルールを押しつけ、それに抵触すればヒステ
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