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communicationに関するtacamulaのブックマーク (5)

  • Lyons (1977) のモダリティ論を抜粋・翻訳・註釈するスレ (1) - left over junk

    言語学系の様相=モダリティ研究(とくに形式意味論以外のそれ)で一種の古典になっている Lyons (1977) 第17章から一部だけ抜粋してメモしていきます.ライオンズの議論にはおかしい部分があるとぼく自身は考えていますが,それ以前に誤解・歪曲をされやすい文献なので,あらためてていねいにつきあっておきたいというのがその趣旨です. そういう次第ですので,このまま読んでも,たいていの方にとっては「知るかそんなもん」という感じだと思います. 事実の直截簡明な言明(i.e. 定言的断定)は認識的に非-様相的だと記述できる.限定抜きの断定を発話するとき,断定の発語内行為を統率する適切性条件により,話し手はその断定内容が真であることにみずからを拘束(コミット)することとなる*1.しかし,話し手は発話そのものの中で明示的に知識の主張を提示してはいない:彼は「私は〜であると知っている」という認識的に様相化

    Lyons (1977) のモダリティ論を抜粋・翻訳・註釈するスレ (1) - left over junk
  • www.さとなお.com(さなメモ): 完成しきったメディア。出来上がりつつあるメディア。

    パーティ嫌いなボクにしては珍しく、昨晩はパーティのハシゴをした。 ひとつはもうとっくに完成して成熟しきってしまったメディア。もうひとつは今まさにメキメキ成長している伸び盛りのメディア。短時間にハシゴして何だか感慨深かった。 まず18時半ごろに谷崎潤一郎賞・中央公論文芸賞の贈呈式に出かけた(@東京會舘)。 中央公論新社に知り合いがいて「ちょっと文壇系の集まりも経験してみない?」と誘われたのである。 こういう文学賞の授賞式みたいのを見に行くのは初めて。 中央公論文芸賞は村山由佳の「ダブル・ファンタジー」(谷崎潤一郎賞は該当者なし)。ボクが会場に着いたときには彼女の受賞スピーチも終わっており、歓談&立の時間に突入していた。お、林真理子がいる。あ、渡辺淳一がいる。わ、浅田次郎がいる。と、一応文学好きなボクとしてはミーハー的なワクワクもあった。あとは編集者と思われる方が多数。銀座のクラブのおねえさ

  • コミュニケーションツールとしての限界?――mixi、セカンドライフの行方

    コミュニケーションツールとしての限界?――mixi、セカンドライフの行方:オルタナブログ通信(1/2 ページ) アクセスアップしたいがためにブログを書く。しかし実際は……。ブログにも世代交代の波が起き、その一方でmixiに元気がないという。総務省は迷惑メール対策で罰金を30倍にする法案を作成し、MSのYahoo!買収提案はYahoo!が拒否した。オルタナブロガーは、こうしたITにまつわる時事ネタなどを、独自解釈で日々、発信しているのだ。 連休が多いのは良いのか? 2月11日は「建国記念の日」だった。今年は偶然、月曜日だったために、幾つかの祝日が移行されてしまったハッピーマンデーのような連休となったが、毎年2月11日で決められている「国民の祝日」だ。 この建国記念の日に、大野元久氏「IT's my business」の今日は「建国記念日」ではないというエントリーが投稿された。要するに、「建国

    コミュニケーションツールとしての限界?――mixi、セカンドライフの行方
  • 性善説と性悪説が混在するオンラインコミュニケーション:Geekなぺーじ

    オンラインでのコミュニケーションで面白いのは、全く知らない人が善意で助けてくれる事があることです。 同時に、全く知らない人が罵倒しにくることもあります。 驚くべきは、全く同じ人物があるところでは善人として振る舞い、別のところでは悪人として振る舞うことも珍しくはないことです。 もちろん、そのような傾向はオンラインだけではなく、実世界でもあります。 例えば、駄目駄目社員が実はスーパーマンだったり、ぐうたら駄目記者が驚異的なグルメ知識を持っていたりするかも知れません。 ただ、オンラインコミュニケーションだと顔が見えない分だけ行動が顕著になっている気がします。 また、長期間オンラインコミュニケーションを行っていると慣れとともに言動が先鋭化しがちであるとも思われます。 そして、オンラインコミュニケーションに慣れた人は、聖人と意地悪を瞬時に切り替え、あたかも同時に二つの顔を使い分けるようになっているよ

  • オンラインコミュニケーションの耐え切れない薄さ :Heartlogic

    オンラインコミュニケーションの耐え切れない薄さ この記事を読んで思ったことを書いてみたい。 「ブログ」の終焉(ガ島通信) 実のところ「ガ島通信」は最近読むようになっただけなので詳しいことは知らないのだが、元地方紙記者の方がブログを始め、新聞社を退職し、それを機に名「藤代裕之」を名乗ると同時に今度は職業を秘匿。日経BPのサイトに連載を持つがつまんねえと言われるようになりはじめ、今に至る……といった感じらしい。 タイトルにもある「ブログ終焉」論については、こちらの記事を賛同しつつ紹介したい。 終焉を言う者から順に終焉が訪れる----「ガ島通信」のタイトルに思う。(BigBang) 人間は限界がある。1人の人間の中で、情熱や関心はめまぐるしく動いていく。疲れるときもある。飽きるときもある。それが人間だ。ただ、考えよう。 メディアは終わったと言う前に。 新聞が死んだという前に。 そしてブロ

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