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Buddhismに関するtaketsのブックマーク (40)

  • 貧学道 - 恐山あれこれ日記

    道元禅師の言葉が修行者の心得を説いたものの一つに、次のようなものが有ります。 「龍牙云く、『学道は先づすべからく貧を学すべし。貧を学して貧なる後に道まさにしたし』と云へり。」(『正法眼蔵随聞記』巻5-10) 「龍牙」は、中国禅宗の龍牙居遁禅師のこと。出典は『禅門諸祖師偈頌』。仏道を学ぶ者は、衣住の快適さを求めず、財物を貪らずに修行すべきであるという意味でしょうが、それにしても、「貧しさを学ぶ」とはどういうことか。 他に禅師自らの、こんな言葉も。 「学道の人は先づすべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失ふ。」(『正法眼蔵随聞記』巻4-9) 要するに「修行者は、貧しくあるべきだ」というわけです。修行者が贅沢をしていて、まともな修行ができるはずがありませんし、世間が納得するわけもありませんが、それにしても、この教示は、ただ飢えと寒さに耐え抜けと言うがごとき、闇雲な根性論ではないでしょう。

    貧学道 - 恐山あれこれ日記
  • コロナ後のお寺 - 恐山あれこれ日記

    「今度の疫病禍は、寺院にも影響は大きいだろうな?」 「大きい。おそらく、どこの寺でも葬式は参列者が少なく、規模は縮小だろう。法事はキャンセルや延期が続いているはずだ」 「じゃ、経済的にも大打撃だな」 「その辺は、もう他の経済活動も同じだろ。ぼくはむしろ、この打撃の意味を考えている」 「というのは?」 「『新しい生活様式』という言葉が出てきたろう。あれさ」 「それがどうしたんだ?」 「たとえば東日大震災は、確かに未曽有の大災害だったし、多くの被災者の人生を大きく変えてしまっただろう。その苦難はまだ続いている」 「そのとおりだな」 「だが、直接の被災者でない人々にとっては、必ずしもそうではない。しばらくの間不自由は続いたが、結局日常生活はおおむね元に戻り、変わらず続いたな。そうでなかったら、『復興五輪』なんて能天気なことを臆面もなく言いだせなかったろう」 「ところが、今度の疫病禍は違う。日

    コロナ後のお寺 - 恐山あれこれ日記
  • 象の首に坐り、カギ棒を額に構え、耳で操縦する:瞑想実践の科学8 - 仏道修行のゼロポイント

    前回は、ブッダとセーラ・バラモンとの間で起きた「広長舌相」のエピソードの流れから、牛を調御する『急所』について考えて行った。 牛を調御する急所は鼻の穴であり、その牛の鼻を捕まえて調御する譬えが、パーリ仏典にも存在する。 そこにおいて、穀物をい荒らす悪しき牛を、鼻で捕まえて角の間で押さえ込んで、強く打つ、という喩えが、単なる喩え話ではなく、直接的に修行者の煩悩を調御し、その心を寂静へと導く “瞑想テクニック” を示唆していた。 以上が前回までのあらすじだ。 この穀物畑をい荒らす牛の話は、「仏弟子の告白」にある以下の一節と重なり合うものだろう。 446: もしもそなたの心がもろもろの欲望と迷いのうちに駆け巡るなら、正しく念いを保つことによって速やかに抑制せよ。―― 穀物を喰らう悪しき家畜を抑制するように。 ブラフマダッタ長老 岩波文庫 中村元訳 より引用 上の文言は、「家畜の抑制法と同じよ

    象の首に坐り、カギ棒を額に構え、耳で操縦する:瞑想実践の科学8 - 仏道修行のゼロポイント
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    takets
    takets 2019/12/25
    ヴッパッサナー瞑想のいろいろ書いてある
  • 「現実」の解毒 - 恐山あれこれ日記

    最近の報道で、私が強い印象を受けた発言と言えば、一つは、スウェーデンの高校生であり環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんの国連でのスピーチであり、もう一つは、ローマカトリックのフランシスコ教皇が広島・長崎で行った演説で、これは私ばかりではなく、多くの人々の記憶に残るものとなったでしょう。 気候危機への早急な対策を激越な口調で促す、10代のグレタさんのスピーチと、核兵器の使用も保有も倫理的に許されないという、80歳を超える教皇の穏やかながら断固たる主張も、一見対照的でありながら、これら二つの発言には共通するものがあります。それは「現実を知らない」「ただの理想論」と批判されやすいだろうということです。 グレタさんの発言は、実際に各国の「現実」的な為政者や中高年層から繰り返し批判されていますし(あの言い方のせいもあるでしょう。しかし、怒りの唯一の効能は、問題の所在を一挙に劇的に露わにすることです)

    「現実」の解毒 - 恐山あれこれ日記
  • マインドフルネスの軍事利用と大衆支配の構造 - 仏道修行のゼロポイント

    最近ツイッター経由で、懐かしい知人の情報に触れた。ドイツ人の曹洞宗の禅僧で、名前はネルケ無方さんという。以前から一部では知られていた兵庫県の山間にある「安泰寺」という修行寺の堂頭を務めておられる。 風晃園より、安泰寺堂 私が安泰寺に初めて参禅したのはかれこれ二十数年前の学生時代、確か1990年前後だと記憶している。その頃から私の中では地球環境問題と「仏教」というもののリンクがひとつの明確なテーマになっていたので、山奥で自給自足の生活をしながら、それを禅の修行と両立させている、という安泰寺のスタイルに強く惹かれて、上山させて頂いた。まだ先代の宮浦さんが堂頭だった時代だ。 その後時は流れ、インド武術に夢中になっていた2005年頃から私の中で仏教回帰の機運が起こり、再び参禅をお願いしたのが、確か2006年か7年の頃になる。その時の住職(堂頭)が無方さんだった。 無方さん時代の安泰寺での参禅は都

    マインドフルネスの軍事利用と大衆支配の構造 - 仏道修行のゼロポイント
  • 死と神 - 恐山あれこれ日記

    「死と神は似ている」 「何のことだ?」 「どちらとも、それ自体が何なのか絶対にわからない。いかなる経験とも結びつかないという意味で、純粋観念だ」 「死は経験できないと、よく君は言うよな。神は?」 「神が永遠で普遍的で絶対的なものだと言うなら、それ自体は、永遠でなく普遍的でなく相対的な存在である我々の経験対象にならない。なるんだったら、絶対ではない。だから、わからない」 「それで?もう少し説明しないと」 「では、まず死について。自己は他者をコピーして構成されるから、死も他者からコピーされる」 「どういうことだ?」 「他者の身体の消滅を見て、それが『自分にも起こる』と確信することから、『死』の観念が発生する。この確信が可能なのは、最初から自己が他者のコピーで始まっているからだ」 「しかし、それが何であるかはわからない、というわけだな」 「そう。すると、自己の存在を決定的に変えてしまう、わけのわ

    死と神 - 恐山あれこれ日記
  • 陀羅尼 - Wikipedia

    陀羅尼(だらに)、あるいはダーラニー(サンスクリット語: धारणी、dhāraṇī)とは、仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せず(不翻)サンスクリット語原文を音読して唱える。 陀羅尼はダーラニーの音を中国において漢字で音写したものであり、意訳して総持、能持、能遮等ともいう。ダーラニーとは「記憶して忘れない」という意味で、来は仏教修行者が覚えるべき教えや作法などを指した。やがてこれが転じて「暗記されるべき呪文」と解釈される様になり、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった。 来、陀羅尼は暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事を目的とした。「能遮」という意訳は雑念妄想を「能(よ)く遮(さえぎ)る」という意味である。 その構成は、多くの場合まず仏や三宝などに帰依する事を宣言する句で始まり、次にタド・ヤター[1]と続き、

  • しています、したいです。 - 恐山あれこれ日記

    昨日、青森県内有志の曹洞宗僧侶の方々と『正法眼蔵』の講読をしてきました。2回目です。前回がプロローグで、今回から「現成公案」の巻に取り掛かりました。お招きのある限り頑張りたいと思っています。 始めて1年余り過ぎた、永平寺での修行僧とのワークショップ形式の月例講義は、「現成公案」の巻が終了し、次回から「摩訶般若波羅蜜」に入る予定です。 これらとは別に、2、3年以内に一般公開の『眼蔵』講義ができないものかと思案中ですが、いまのところ予定は未定で、恐縮ながら、まだ確かなことは言える段階ではありません。 ただ、私はこの講義をはじめとして、全巻講読することをライフワークにしたいと考えており、出版も希望していて、すでにある社に打診しています。 この企画の狙いは、従来の『眼蔵』解釈のパターンを拙読で断ち切り、これまでとは違う読み方を提示することにあります。 その場合の「違う」読み方とは、以下の2点につい

    しています、したいです。 - 恐山あれこれ日記
  • 「今」と「而今」 - 恐山あれこれ日記

    時として、「いま・ここ」に集中するのが禅の教えだとか、「いま・ここ・自己」に徹底するのが仏教だとかいう言い方がされますが、私はこれはあまりにナイーブだろうと思います。というのは、その「いま」「ここ」「自己」が具体的にどのような事態を言うのか、皆目わからないからです。 このような言い方がされるとき、「いま」は、均質に流れる川のような時間がそれ自体としてあって(絶対時間)、それを微分して析出された「点的時間」(瞬間)を漠然と考えているのでしょう。同じように、何もかもが位置づけられる巨大な箱の如き空間(絶対空間)があり、これを極限まで限定した局所的空間として「ここ」はイメージされていて、この座標的な時空間に、それ自体として存在する「自己」が位置づけられているのでしょう。 ところが、仏教においては、涅槃や悟りを目指して修行する以上、その「いま」「ここ」は未来のどこかに初めから開かれていて、「成仏」

    「今」と「而今」 - 恐山あれこれ日記
  • 幽霊と枯れ尾花 - 恐山あれこれ日記

    10月31日、今年も恐山は無事閉山の日を迎えました。ご参拝いただいた皆様、誠にありがとうございました。お疲れさまでございました。 写真は当山御用達のカメラマンによる秋景色4点。左から、恐山街道、宇曽利山湖、山門と地蔵山、高台からの賽の河原(写真の真ん中付近に賽の河原地蔵堂)です。 さて、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざがあります。恐怖心や疑いがあると、何でもないものまで恐ろしく見える、あるいは、恐ろしいと思っていたものも、正体がわかれば何でもないものだということのたとえです。 この場合、その場にいる人には、「幽霊」とも「枯れ尾花」とも見当がつかない、いわば認識が宙吊りになる瞬間があるでしょう(「不安」という感情の領域)。それは何事かが起こっていることは意識できても、「〇〇が存在する」という認識が持てない(=言語化ができない)時間であり、存在の手前の事態です。 この時間、あるいは事

    幽霊と枯れ尾花 - 恐山あれこれ日記
  • 「あるべきはずのニルヴァーナ」 - 恐山あれこれ日記

    私は今までに何度か書評をする機会を与えられたことがありました。 以下は、茂木健一郎氏の『生命と偶有性』という著書についてのものですが、いま読むと、自分の仏教観がわりと素直に、かつシンプルに出ているので、畏れながら紹介させていただきます。 「あるべきはずのニルヴァーナ」 存在すること自体は取るに足りないことだろう。しかし、「なぜ」と問うなら、それは厄災となる。 不治の病に侵された者が、最愛の子供を奪われた者が、天災ですべてを失った者が発する、「なぜ」。 この言葉は理由を問うているのではない。そうではなくて、存在を問うている。彼らがそのように存在していることの無根拠さを露わにしているのだ。そこに、問う存在たる「人間」の絶対的な孤独がある。絶対的とはどういうことか。人は人であるかぎり、たとえやめたくても、「なぜ」と問うことをやめられない、ということである。我々は「なぜ、なぜと問うのか」とさえ問い

    「あるべきはずのニルヴァーナ」 - 恐山あれこれ日記
  • インド仏教最高位の日本人僧侶(82)命をかけた52年目の闘争(藤岡利充) - エキスパート - Yahoo!ニュース

    インドは仏教発祥の地だが、今はヒンドゥー教徒約80%を占め、仏教徒は1%弱と言われている。しかし、ヒンドゥー教のカースト最下層である『不可触民』と呼ばれる人たちの多くは不満を抱え、政府に無届けで仏教を信仰している。そのため実際には、インド国内の仏教徒は1億5千万人以上いるとも言われる。 そのインド仏教の頂点に立つ男が佐々井秀嶺(ささいしゅうれい・82歳)だ。3度の自殺未遂を乗り越え、32歳でインドへ渡り、1億5千万人の仏教最高指導者に駆け上った。仏教再興に命をかける佐々井氏に、インド52年目の覚悟を聞いた。 インドのカースト制の仕組み 著者作成 ■ヒンドゥー教から仏教に改宗 インド憲法ではカースト制度による差別も、『不可触民』という言葉の使用も禁止している。しかし、実際はカーストによる差別は根絶できていない。それをなくすべく、1956年、初代インド法務大臣だったアンベードカル(1891-1

    インド仏教最高位の日本人僧侶(82)命をかけた52年目の闘争(藤岡利充) - エキスパート - Yahoo!ニュース
  • 彼と彼らの死の後で - 恐山あれこれ日記

    6日、オウム真理教事件の首謀者であり教祖・麻原彰晃と、教団幹部6人の死刑が執行されました。おそらくは残りの死刑囚も今後執行されるのでしょう。 この事件については、事件以来ずっと私自身にこだわりがあり、著書の中で何度か触れ、ブログでも言及しています(「17年目の氷解」)。 今回、死刑執行にあたり、いま自分が考えていることを、書き止めておきたいと思います。 まず、教祖について。 私は、この事件の核心は、麻原の桁外れの権力欲だと思っています。 権力は、暴力と、それを正当化するイデオロギー、制度とで構成されます。 権力は剥き出しの暴力では成り立ちません。他者の支配を暴力だけで行うとすれば、常にその強度をめぐって闘争がやまず、支配は安定しません。暴力を維持し、それを無暗に行使せずに支配するには、暴力を管理しなければならず、その管理が正当であることを主張しなければばりません。イデオロギーを必要とする

    彼と彼らの死の後で - 恐山あれこれ日記
  • 「縁起」ノート - 恐山あれこれ日記

    仏教の中心概念である「縁起」を考えるとき、以下の5つの意味を区別しながら考えたほうがよいと思います。 1、「原因ー結果」関係 人間の思考規則としての因果律のことで、特に仏教的でもなく、仏教プロパーな概念でもありません。注意すべきは、それ自体が原理のごとく実在するのではなく、あくまで人間の基的な思考方法だということです。 2、「十二支縁起」 これは「無明」から「老死」までの12項の因果連鎖で実存を説明するもので、上座部ではこれらを過去・現在・未来に配当していわば胎生学的・実体的に理解(原因が結果を「引き起こす」)しますが、私は実存そのものの構造分析モデルだと考えます。ちなみに、私は「無明」を言語だと考えています。 3、「因果の道理」 因果律を方法概念ではなく実体的な存在原理と考えて、「輪廻」や「業」の説明に適応するものです。原因・結果の両方に善悪・苦楽を絡めることで、一種の恫喝的論理を構成

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  • らしくなれない。 - 恐山あれこれ日記

    「あなた、今年還暦でしょ」 「そうだよ」 「だったら、もう『老師』って言われるでしょ」 「うん。40代で呼ばれた時は、『オレが老人に見えるか』って若い坊さんに文句言ったが、最近はあきらめてる」 「だったら、もう少し、らしくしなさいよ」 「老師っぽく?」 「そう。もうちょっと話し方を穏やかにするとか、立ち居振る舞いに威厳があるようにとか」 「確かにさア、アナタ変わりませんねえ、いつまでも昔と同じで若いですねってのは、もう誉め言葉と思っちゃまずいよな。苦労が身に染みない軽薄男みたいで」 「でしょう?」 「でもさあ、ぼく、昔から『らしく』がダメなの。いつもソレ、言われてたの。子供のときに『子供らしくない』、学生の時に『学生らしくない』、就職したら『社会人らしくない』。ついに坊さんになったら、また『坊さんらしくない』ってさ」 「まさにはみ出し者だな」 「そう。で、そのうち気がついた。『らしく』はこ

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  • 「と」の字問題 - 恐山あれこれ日記

    「一度訊いてみたかったんだが、君はハイデガーをどう思う?」 「お世話になった」 「あはははは。なるほどね」 「一方に『存在と時間』があり、他方に『正法眼蔵』「有時」の巻があるんだから、何か言いたくなる気持ちはわかるがな」 「どんな風に読んだ?」 「最初は高校生の時。『存在と時間』をクラスメートが読んでいて、流し目で『知っているか?』と訊かれ、つい見栄を張って『知ってる』と言ってしまい、読む羽目になった」 「じゃ、『眼蔵』を初めて読んだのと同じころなのか?」 「そう。1年くらいの差しかない。でも、印象は強烈だったな。両方とも、まるで、皆目わからない。しかし、自分にとって決定的に大事なことが書いてあることだけ、わかる。無理した後遺症は大きかった。これをきっかけにおっかなびっくり他の哲学書にも手を出し始めたのだが、最初の一冊のダメージはケタが違ったよ。」 「その後は?」 「大学に入ってから1度、

    「と」の字問題 - 恐山あれこれ日記
  • 何のつもりで - 恐山あれこれ日記

    「いつも思うが、君は一体どういうつもりで仏教に取り組んでいるんだ?」 「どういうつもりだとは、ご挨拶だな。何を言いたい?」 「君はいつも、自分の抱えている問題に、それも解決不能の問題にアプローチする方法として仏教を使っていると言うが、それじゃあまりに考えが狭くなあいか? いやしくも大乗仏教の徒なら自分ばかりの問題にかたよってはまずいだろう」 「すぐに人の役に立つことをしていないことは認める。しかし、僕が抱えている問題は、僕だけの問題でないことは確信している。僕のアプローチが、誰かの参考になるに違いない。そう思わなければ、坊さんとしてこれをやる意味もなかろう」 「それはそうだが、やっぱり狭い。仏教に限らず、宗教には、様々な儀礼があり、芸術的な表現あり、文化的な意味があり、社会的な救済活動もある。君が日ごろまくし立てている理屈以外に豊かに拡がる領域がある。それを無視するのか?」 「無視してはい

    何のつもりで - 恐山あれこれ日記
  • ヴィパッサナー瞑想実践方法

  • 影と力 - 恐山あれこれ日記

    何度も言うように、「死」そのものは、我々の経験外であり、それが何であるかは「絶対に」わかりません(わかったら、それは「死」ではありません)。 「死」は「絶対にわからない何か」という純粋な否定性以外に意味を持たない観念なのです。では、我々の経験のうちに、「死」はまったく現象しないのでしょうか。「死」それ自体は現れないにしても、その影が差すことはないのか。あるいは作用してくる力はないのか。 思うに、「死」は我々に「意味」や「価値」を欲望させる力として作用してくるのです。この影が「生」に輪郭を与えるということです。 「死」がまったく識知できなければ、我々は「しなくてはならない」「なすべき」ことを発想「できない」でしょう(死なない人間に、しなければならないことなど、あり得ない)。つまり、「意味」も「価値」も無用です。「死」の触発によってこそ、「生」に「重さ」を与える力が働くというわけです。 時とし

    影と力 - 恐山あれこれ日記