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historyとjapanに関するtaskapremiumのブックマーク (244)

  • 東市来町美山 - Wikipedia

    東市来町美山(ひがしいちきちょうみやま)は、鹿児島県日置市の大字[3]。旧薩摩国日置郡伊集院郷苗代川村、日置郡下伊集院村大字苗代川、日置郡東市来町大字美山。郵便番号は899-2431[4]。人口は538人、世帯数は220世帯(2020年10月1日現在)[5]。 安土桃山時代の慶長の役の際に島津氏によって朝鮮半島から薩摩の各地に連行された陶工などの被虜人がこの地に集められ「苗代川村」として成立した[6]。江戸時代には薩摩藩による保護と統制の下に薩摩焼の生産が行われるとともに文化の保護が行われた[6][7][8]。慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会に出展されたこの地で作られた薩摩焼は世界的に人気を博し海外輸出が盛んに行われた[9][10][11]。 美山は薩摩焼の最大の産地で14の窯元があり[注釈 1]、「薩摩焼の里」として知られ[12]、窯元のほかにも工房や喫茶店・飲店も立ち並ぶ[13

    東市来町美山 - Wikipedia
    taskapremium
    taskapremium 2018/02/20
    慶長の役で島津軍によって朝鮮半島より連行された朝鮮人の陶工達の集落が置かれた場所で、現在も薩摩焼の工房が存在している。>
  • 上表文 - Wikipedia

    上表文(じょうひょうぶん)とは、君主に文書を奉ること。またその文書をいう。上書(じょうしょ)ともいう。 倭王武の上表文[編集] 倭の五王の最後の倭王武は、宋の昇明2(478年)5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。 「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。北の海を渡りて平らぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」(『宋書』倭国伝) 倭王武は、祖先の功業の成果として、東国の毛人の国々のみならず、対馬海峡を渡って南朝鮮の国々まで、倭国の威力が行き渡っているかのように誇らし

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    taskapremium 2018/02/10
    東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す>
  • Japanese migration theory brought to life

  • 【維新再考・識者に聞く】半藤一利さん(1) 「敗者の義」なかったか:連載:福島民友新聞社 みんゆうNet

    taskapremium
    taskapremium 2018/01/22
    #ss954 福島県紙の福島民友新聞で明治維新に関する長期連載が続いてる。賊軍となった福島の視点からの連載が面白い。
  • ITパスポートの資格を取得すればIT業界への転職に役立つ? | IT転職のためのデジタルメディア

    公開:2022年12月22日 更新:2022年12月26日 ITパスポートの資格を取得すればIT業界への転職に役立つ? ITエンジニア向けの国家資格はさまざまありますが、その中でも比較的簡単に取れる資格が「ITパスポート」です。このITパスポート、IT業界を目指す未経験者としては、「取っておくべきかどうか?」と悩むところではないでしょうか? もちろんお金と時間がいくらでもあれば話は別ですが、「忙しい中を何とか時間を作ってITパスポートの資格を取ったのに、応募した企業にまったく評価されなかった」というのでは、意味がありません。そこで、ITパスポートの資格が当に未経験者のIT業界転職に必要なのか、キャリアアップにも役立つのかどうかを検証してみましょう! ITパスポートの資格を効率的に取得するための勉強法や、ITパスポートの資格取得にかかる勉強時間、勉強から受験までの費用に関してもご紹介します

  • 白村江の戦は豪族を始末するためだった - 夫婦で遊ぶ熟年ライフ

  • 表千家 - Wikipedia

    表千家(おもてせんけ)は、茶道流派の一つ。千利休を祖とする千家の家督を継いだ千家流茶道の家であり、宗家は京都市上京区小川通寺之内通上るにある。 表千家を象徴する茶室不審菴(ふしんあん)の号の由来は「不審花開今日春」の語に由来しており、財団法人不審菴が管理している。 現在の家元は、千利休から数えて、15代目の猶有斎(ゆうゆうさい)千宗左(せんそうさ)である。代々の家元は紀州藩主である紀州徳川家(御三家)の茶頭として格式を誇り、紀州徳川家と強いつながりがあった三井家とも縁があった。(後述) 家の表千家に対して分家の裏千家の名は、今日庵が表通りの不審菴の裏にあることに由来する。 歴史[編集] 成立[編集] 茶の湯の大成者である千利休(せんのりきゅう)の没後、千家は2代・千少庵(せんしょうあん)、3代・千宗旦(せんそうたん)と続いた。3代宗旦の三男である江岑宗左は、宗旦の隠居に伴い継嗣として不

    表千家 - Wikipedia
    taskapremium
    taskapremium 2017/08/28
    3代宗旦の三男である江岑宗左は、宗旦の隠居に伴い継嗣として不審菴を継承した。宗左は千家の直系を継いだわけであるが、宗旦は屋敷の裏に今日庵を建てて隠居所とした。宗旦の死後、今日庵を四男の仙叟宗室が受け>
  • 武者小路千家 - Wikipedia

    武者小路千家(むしゃこうじせんけ)は、茶道流派の一つ。千利休からの家督を継いだ家の表千家に対し、分家である裏千家と併せて、三千家といわれる。茶室の装飾は他の流派と比べてシンプルで簡潔にし、茶事は無駄のない合理的な所作を重視している。 宗家は京都市上京区武者小路通り小川東入にあり、この所在地が武者小路千家の名の由来である。官休庵(かんきゅうあん)は、現在では武者小路千家の茶室を指す場合と、財団法人官休庵を指す場合がある。 千宗旦の先の次男である4代一翁宗守は、最初は兄である宗拙同様に家を出て、武者小路あたりの吉文字屋という塗師の家へ養子として入り吉岡甚右衛門と称していた。しかし宗旦の最晩年には江岑宗左とともに行動しており、自身の還暦を前に千家の茶の世界に戻り、兄弟の勧めもあって官休庵をひらいたようである。塗師の家はその後中村宗哲家へと引き継がれた。一翁は宗旦没後の1666年(寛文6年)に

    武者小路千家 - Wikipedia
  • 刀伊の入寇を調べてみる - 日本史が好きになる?歴史ブログ

    10世紀に発生した承平・天慶の乱以外にも武士団が徐々に発生していたことが伺われる出来事があります。それが1019年の刀伊(とい)の入寇です。太宰権帥(だざいのごんのそつ)藤原隆家の指揮の下で九州の武士たちが撃退したと言われています。今回はそんな刀伊の入寇を背景を考察していきます。 スポンサードリンク 刀伊とは・・・? 刀伊は高麗の人々が主に女真族を指して使っていた言葉です。この言葉が日でもそのまま使われるようになり、1019年刀伊の人々が対馬や壱岐・北九州へ侵入した出来事を刀伊の入寇と呼ぶようになりました。 この頃の女真族は現・中国東北部で遼という国に服属していました。森林が多く放牧には向かない土地だったそうですが、女真族は牧畜以外に農耕や狩猟、漁労などでも生計を立てていましたので平時ならば問題はなかったと思われます。 遼という国について調べてみる 遼は契丹族の耶律(ヤリツ・ヤリュート)

    刀伊の入寇を調べてみる - 日本史が好きになる?歴史ブログ
  • 柳川一件 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "柳川一件" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2020年12月) 16世紀末、日の豊臣政権による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日朝、日明関係が断絶した。戦後、日で徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始する。日と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉を仲介した。 朝鮮側から朝鮮出兵の際に王陵を荒らした犯人を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内

  • 刀伊の入寇

  • 日本はいつ頃から倭から日本と呼ばれるようになったのでしょうか? - 詳しく知っている方がいたら教えていただけないでしょうか? - Yahoo!知恵袋

    を連想する言葉が登場したのは推古天皇15年(607)、小野妹子が隋の煬帝に渡した国書に由来すると考えられています。 日という言葉は出ていませんが、「日出づる処」は「日の」をできるいいまわしです。 さて、「倭」から「日」への国号変更はいつからですが 大化元年(645)7月、高句麗・百済の使者への詔には、「明神御字日天皇」とあるといいます。但し、この文言は日書記の編集者が修正して付け加えられたと考えられています。 しかし、中国の史書には大化4年(648)、日から来た使者が「倭国は自らその名を嫌って日と改めた」と語った旨が記されているといいます。この国号の由来ははっきりしたことは不明ですが、通説では煬帝に渡した国書の「日出づる処」の一文からきているとされます。 この「倭」という文字の意味ですが、「倭」はゆだねるという意味の「委」に人が加わった文字で、「ゆだね従う」という意味、「

    日本はいつ頃から倭から日本と呼ばれるようになったのでしょうか? - 詳しく知っている方がいたら教えていただけないでしょうか? - Yahoo!知恵袋
  • 刀伊の入寇 - Wikipedia

    「刀伊の入寇」の主力は女真であったと考えられている。女真とは、12世紀に金を、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国する民族である。近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクからその北側にかけての沿海州の日海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられている[6][7]。10世紀前後に資料に現れる東丹国や熟女直[注釈 1]の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられる[8][9]。 13世紀初頭に蒲鮮万奴は中国東北部に大真国を建てたが、これら日海沿岸部に進出していた女真もこれに加わって

  • 戦国時代の日常茶飯事「掠奪・奴隷狩り・人身売買」について

    藤木久志著「新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」は武将や大名など支配者からではなく雑兵たちの立場から見た戦国時代の戦争の様子を描いた中世日民衆史研究の代表的なのひとつである。 誰もが知るキラ星のごとき戦国大名・武将たちが天下に覇を競っているころ、村々に目をやれば、百姓たちは傭兵として戦い、民兵として村の治安を守り、村は戦のたびに掠奪と奴隷狩りに見舞われ、人身売買が横行していた。その日常茶飯事化していた戦国時代の掠奪と人身売買について、同書を中心にしていくつかの書籍から簡単にまとめ。 戦国時代の掠奪・奴隷狩り掠奪・奴隷狩りは「乱取り」「乱妨(濫妨)」「乱妨取り」「人取り」などと呼ばれ戦国時代を通して日各地で日常的に見られた現象である。史料として挙げられている中の有名どころだけでも島津氏、相良氏、紀伊国の守護細川氏と根来寺との戦闘、安房里見氏、伊達政宗、武田信玄、上杉謙信、織田信

    戦国時代の日常茶飯事「掠奪・奴隷狩り・人身売買」について
    taskapremium
    taskapremium 2017/04/27
    朝鮮侵攻の理由として様々な説が唱えられるが、国内の暴発寸前の戦闘員のはけ口という要因は確かにあり、結果、朝鮮侵略は日本の掠奪・奴隷狩り習俗の海外輸出という面が大いにあった。多数の朝鮮人奴隷が日本に連>
  • 学校が教えない社会科・歴史・公民 - 盧溝橋事件(日中戦争勃発の真因)

    さて、今回は『中国の内戦』でも触れた【盧溝橋事件】の詳細を見て行こう この盧溝橋事件が『支那事変(日中戦争)』の原因だとするのが中国の言い分な訳だけど、中国側の主張する盧溝橋事件の内容は、日軍が一方的に共産党軍(八路軍)を攻撃して、中国人に多数の被害が出たと言う話だ それは果たして当なのかな? それを今回は解説して行こうと思う まずは盧溝橋事件の概要から >盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である。 中国では一般的に七七事変と呼ばれる。 この事件は日中戦争(支那事変)の直接の導火線となった。 以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたこともあるが、今では正式名称ではない。この事件後に幾つかの和平交渉が行われていた。 事件の発端となった盧溝橋に日軍がいた経緯は『北京議定書』に基

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  • 穂井田元清 - Wikipedia

    穂井田 元清(ほいだ もときよ)/毛利 元清(もうり もときよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国の戦国大名である毛利元就の四男。名前は穂田元清とも表記する。 生涯[編集] 幼年期から元服[編集] 天文20年(1551年)、安芸国の戦国大名である毛利元就の四男として誕生する。母は元就の継室[注釈 1]である乃美大方。 元就の正室・妙玖の子である毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の異母兄達が元就から大切にされたのに対して、元清を始めとする継室(側室)の子達は、弘治3年(1557年)11月25日に元就が記した三子教訓状において「虫けらなるような子どもたち」と表現されている[注釈 2]。しかし粗略に扱われたわけではなく、「もしこのなかでかしこく成人するものがあったならば、隆元・元春・隆景は哀れんで、いずれの遠境などにでもおいてほしい」とも依頼している。一方で「たいては、まぬけで

    穂井田元清 - Wikipedia
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    taskapremium 2016/12/08
    文禄元年(1592年)、文禄の役では、この時、秀吉は元清に土産として虎を所望しており、元清は虎を2頭生け捕りにして秀吉の下へ送っている。その虎は京の市中において評判となり、後陽成天皇も物見に訪れたという。>
  • 立花宗茂 - Wikipedia

    永禄10年(1567年)8月18日[注釈 8]、豊後・国東郡筧(大分県豊後高田市)に大友氏の重臣の吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる[9][10]。幼名は千熊丸で[11]、後に弥七郎と改める。永禄12年(1569年)、父の鎮理が前年に高橋鑑種が討伐されて絶えた高橋氏の名跡を継いだため、高橋氏の跡取りとして育てられ、主君大友義統より編諱を賜り元服し高橋統虎(むねとら[注釈 9])と名乗る。 天正9年(1581年)、7月27日[注釈 10]、実父紹運の手勢の一部を率いて、友軍の立花道雪とともに出陣し、秋月氏と筑紫氏らとの第二次太宰府観世音寺の戦い(第二次太宰府石坂の戦いとも)[12][13][14]で初陣を飾り[注釈 11]、150人を率いて敵軍の側面を襲撃、騎射で秋月方の勇将・堀江備前の左腕に鏑矢を命中させた。左腕の自由を奪われた堀江は大長刀を捨てて宗茂に組みかかって来た

    立花宗茂 - Wikipedia
  • ホテル天井裏、70年前の酒瓶…米軍人名刺入り : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    ホテルニューグランド館2階の宴会場「フェニックスルーム」の天井裏から見つかった酒瓶。中に名刺が入っている 来年で開業90年を迎える横浜市中区の「ホテルニューグランド」館2階の天井裏から、約70年前に宿泊した米軍人の名刺が入った酒瓶が見つかった。 ホテルの滞在期間や部屋番号などが書き込まれており、記念品として残したものとみられるが、通常は出入りできない天井裏にどうやって置いたのか謎に包まれている。 酒瓶は館の耐震改修工事中だった6月に、2階の宴会場「フェニックスルーム」の天井裏から見つかった。バーボンの空き瓶で、中に「EUGENE・J・MCNAMARA(ユージン・J・マクナマラ)」と書かれた名刺があり、瓶の表面にも「MCNAMARA」と書かれた紙が貼ってあった。 横浜市史資料室の羽田博昭・主任調査研究員によると、マクナマラ氏は米陸軍の歩兵中佐で、戦後に新港ふ頭(同区)に置かれた米軍第二

    ホテル天井裏、70年前の酒瓶…米軍人名刺入り : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
  • 平群広成 - Wikipedia

    平群 広成(へぐり の ひろなり)は、奈良時代の貴族。官位は従四位上・武蔵守。 遣唐使の判官として唐に渡るが、帰国の途中難船。はるか崑崙国(チャンパ王国、現在のベトナム中部沿海地方)にまで漂流したが、無事日へ帰りついた。古代の日人の中で最も広い世界を見たとされる人物である。 時代背景[編集] 神亀5年(728年)1月に日海を渡って渤海使が初めて平城宮に入朝した[1]。使節は前年9月に蝦夷地に漂着し、大使の高仁義ら16名は蝦夷に襲われて死亡、生き残った首領の高斉徳ら8名が出羽国に助けを求めたものであった。彼らが提出した渤海郡王・大武芸の国書には、渤海を高句麗の再興であると宣言し、日との友好善隣を求めていた[2]。同年2月に引田虫麻呂が送渤海使に任命され[3]、6月頃高斉徳らを送るために渤海に向かった。天平2年(730年)に虫麻呂は渤海王の進物や国書を携えて帰朝している[4]。 経歴[