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ブックマーク / fujipon.hatenablog.com (9)

  • 「と学会」と「note」とクリエイターの「老害化」について - いつか電池がきれるまで

    kakuyomu.jp anond.hatelabo.jp 僕は「と学会」のを読んで、『ノストラダムスの大予言』というのは、どうも当たらないというか、けっこういいかげんなものらしい、ということに自信を持てるようになったのです。『水からの伝言』(水に『ありがとう』などの『良い言葉』を見せるときれいな結晶ができて、『ばかやろう』などの『悪い言葉』を見せると、きたない結晶ができる、というやつですね)へのツッコミも記憶に残っています。 「いい話」「教育上役立つ(と多くの大人が思い込んでいる)話」は、「噓でも良いじゃないか」というような欺瞞に対して、敢然と立ち向かっていった『と学会』の活動は、当時の僕にとっては、とても刺激的なものでした。 その後の『江戸しぐさ』論争などをみると、結局、人は同じようなことを繰り返すものなのだな、と考え込まずにはいられないのですけど。 fujipon.hatenadi

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  • ブログには、物語にはない、人生の中途半端さが溢れている。 - いつか電池がきれるまで

    toyokeizai.net インターネットの文章は、この世にインターネットが存在するかぎり、消滅することなく、クラウドの海を漂い続ける……みたいなことを、僕も20年前には考えていたのです。 ブログは僕にとって「長すぎる遺書」みたいなものだと、ずっと思ってきたつもりだったのだけれど、そういうのも、20代独身男性が、居場所がなくて、世の中に対する僻み妬み嫉みみたいなものを書き連ねていた時代と、40代後半になり、諦めと受容のあいだ、みたいなところで日常に向き合っている今とでは違う、というか、「遺書」という言葉もかなり現実的なものになってきているのです。 そもそも、これが「遺書」だったとして、自分の身内に読まれても大丈夫なものなのか? 内容に問題が云々、以前に、「自分が知らないところで、家族や知人が自分のことに言及している」ということだけでも不快に感じられる可能性はありますしね。 若い頃の夢や希

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  • 「タダで泊めて」というだけで不快感与えてる、ネットの「インフルエンサー」 - いつか電池がきれるまで

    www.huffingtonpost.jp nlab.itmedia.co.jp 僕の感覚でいうと、「宣伝してやるから、タダで泊めろ(しかも恋人同伴で5泊!)なんて、厚かましいにもほどがある」なのです。 このホテル側の対応は、第三者的にはスカッとするのですが、僕はこのホテルには泊まらないと思います。 リッツ・カールトンだったらどうするか、なんて考えるのには無理があるし、最初はこの不躾な問い合わせの名前は出さずに晒していたみたいではあるのだけれど。 僕がこのホテルを利用したくない理由は、いくら気に入らない問い合わせだったからといって、顧客(ではない、という判断なのかもしれないけれど、顧客になるかもしれない人なわけですよね、とりあえずは)とのプライベートなやりとりを、名前は消しているとはいえ、相手の許可もなくみんなに公開するというのが不安だからです。 ホテルの基盤って、安全性とプライバシーの堅

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  • 「人生経験マウンティング」したがる人たちについての一考察 - いつか電池がきれるまで

    www.news-postseven.com news.biglobe.ne.jp この石田衣良さんの言葉を読んで、僕もなんだかすごく嫌な気分になったんですよね。 『君の名は。』が気に入らないのなら、作品を批判すればいいのに、なんで監督の人生経験を(勝手に想像して)揶揄するのだろう? でも、こういう手合いに、わざわざ新海誠監督が反応してしまっているのをみると、こういう「人生経験マウンティング」みたいなのは、やられたほうには、けっこう「効く」のも事実なんですよね。 少なくとも、僕はイヤだな、それが事実であろうがなかろうが。 記憶のなかに手を突っ込まれて、かき回されるだけで不快です。 そもそも、世の中の大部分の人は、一般的に「青春時代」と言われているような年代における自分の経験に、満足しているわけではないと思うし。 まあ、こういう「人生経験マウンティング」って、石田さんの「芸風」ではあるんです

    「人生経験マウンティング」したがる人たちについての一考察 - いつか電池がきれるまで
    teitei_tk
    teitei_tk 2017/01/06
    人生経験マウンティングにかかわらず、人に対してマウントを取りに行くような奴は全員携帯回線が低速に掛かればいいのにぐらいに思っている。
  • 「オタク」と見なされることが死刑宣告だった時代を生きてきた。 - いつか電池がきれるまで

    80年代、立教大学の学生だった新井素子さんの周辺では、相手を「おたく」と呼ぶことが普通に行われていました。「あ、もとちゃん? おたく、次の授業、あたるよ」(『ひでおと素子の愛の交換日記』1984年)のように。漫画小説好きの人たちが、少し大人ぶって使っている雰囲気があります。— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) 2016年8月24日 私自身も、1980年代半ばの高校時代、86年からの大学時代に、「おたくはどうだい」などと相手に普通に呼びかけていました。ところが、大学のクラスメートに「その『おたく』というのは、ごく趣味的な人々が使うことばだ」と、吐き捨てるような表情で指摘され、以後使わなくなってしまいました。— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) 2016年8月24日 趣味的な集団を「おたく」と呼ぶ蔑称が生まれたのは1983年。その後、80年代後半から90年代前半に「オタク」に

    「オタク」と見なされることが死刑宣告だった時代を生きてきた。 - いつか電池がきれるまで
  • 「もし話していただけなければ、何を書かれても知りませんからね!」 - いつか電池がきれるまで

    ※以下の文章の僕自身に関するところには、僕自身と周囲の人間のプライバシーを考え、一部ぼかして書いているところがあります。 もともとハンドルネームで書いているにもかかわらず、このような加工をしていることを御容赦ください。 小保方晴子さんの『あの日』のなかに、捏造疑惑の渦中にあった小保方さんが「取材攻勢」に悩まされたときのことを振り返っていた部分があります。 私個人に対する取材依頼は連日のように来た。「記事化を考えています」「何日までに返事をください」というメールは脅し文句のように感じられた。返事をすると都合のいいところだけを抜粋して記事に使用され、返事をしないと「返答がなかった」と報じられた。 特に毎日新聞の須田桃子記者からの取材攻勢は殺意すら感じさせるものがあった。脅迫のようなメールが「取材」名目でやって来る。メールの質問事項の中にリーク情報や不確定な情報をあえて盛り込み、「こんな情報も持

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    teitei_tk
    teitei_tk 2016/02/05
  • 広瀬すずさんが「スタッフをdisった」とされている件について - いつか電池がきれるまで

    www.nikkansports.com この記事を読んで、その番組も観たのですけど(全録機は、こういうときに便利)、さすがにこれで広瀬すずさんが責められるのは、ちょっとかわいそうなんじゃないかな。 高校生って、こんなものじゃない? なぜかたまたま見ていた、広瀬すずの「わず嫌い」。自分の性格について実は的確とは言えない「ドライ」という表現を選んだり、うまく話せてない彼女の発言が、さらに前後から切り離され、「スタッフをdisった」ことになっててびっくり。で、人が「誤解を与えた」と詫びる事態。なんだ、こりゃ。— 町山広美 (@mcym163) 2015, 6月 20 「私、あんまり女の子っぽくないとこがあるみたいで、イルミネーションとかにわぁきれいってなるより、どうやってあんな高いとこに照明つけたのか気になっちゃう。撮影現場でも照明さんとか録音部さんとか、いろんな仕事があるの知って、どんな

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    teitei_tk 2015/06/23
  • 「ネットで憂さ晴らしをしていた頃」の自分へ - いつか電池がきれるまで

    僕は何度か、サイトを閉鎖、あるいは休止したことがあります。 僕にとってはサイトって大事なものだけに、ネット上でのトラブルのみならず、プライベートで問題が起こったときにも「自分の存在をネットから消してしまいたい」とか思い詰めてしまうことがあるのです。 書いて公開するというのは、それなりにエネルギーが要ることなので、その気力が無い時、あるいは、「ネット上から消えますよ」というサインを出すことによって、誰かに励ましてもらいたいとき。 以前のネットは、そういう「個人のネガティブな感情の表明」に対して、いまよりはもう少し感情的・あるいは好意的な反応が得られていたと記憶しています。 でも、いまは、「ネガティブな感情」を表出しても、誰も慰めてはくれない。 いや、むしろそういう人や行為は迷惑だ、と見なされる。 受け手としては、僕自身もそう感じますしね。 いまは、ネガティブな感情が自分に降り積もっていくとき

    「ネットで憂さ晴らしをしていた頃」の自分へ - いつか電池がきれるまで
  • ブログの「自己評価」について - いつか電池がきれるまで

    参考リンク:評価について - 基読書 このエントリを、面白いなあ、と思いながら読んでいました。 僕自身、ネット歴、サイト歴だけはかなり長いので、「場の力」というのは、すごく感じているので。 実際、全く同じ内容でも、「どこに書くか」で、読んでくれる人やブックマークしてくれる人の数って、全然違うんですよね。 しばらく前から、もうひとつのブログのほうを『BLOGOS』に転載してもらっているのだけれども、「はてなダイアリー」ではあまり読まれなかったエントリが、BLOGOSではけっこう人気があったり、その逆に、はてなダイアリーではブックマークされまくっていても、BLOGOSでは「ほどほど」だったりすることはよくあるのです。 読んでいる人の層の違い、なのかもしれないし、ちょっとしたタイミング、たとえば3つめのブックマークをしてくれた人の時間とか、BLOGOSでは1面記事になったかどうか、というような

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