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ブックマーク / www.tapthepop.net (76)

  • フレディ・マーキュリーの27歳~わずか半年で無名からロックスターへ

    1973年9月5日、フレディ・マーキュリーが27歳の誕生日を迎えたのは、クイーンがファースト・アルバム『戦慄の王女』をリリースから2ヶ月が過ぎた頃だった。 アルバムにはドラマチックな展開やハイトーンなシャウトといったクイーンの特徴的なサウンドが現れていたが、批評家から酷評されてチャートインすることすら叶わなかった。 この頃のクイーンはまだほとんど無名で、数多くある野心的なバンドのひとつに過ぎなかった。 しかしアメリカでは83位ながらも、アルバム・チャートで100位入りを果たすことができた。 ドラムのロジャー・テイラーによれば、それが最初の兆候だったという。 10月からはデヴィッド・ボウイから提供された「すべての若き野郎ども」がヒットして人気を集めていたバンド、モット・ザ・フープルのツアーで前座を務めることになった。 批評家からは酷評された彼らの音楽だったが、ライブを観に来た観客の反応はとて

    フレディ・マーキュリーの27歳~わずか半年で無名からロックスターへ
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    terata 2016/09/05
  • ジャズ・ドキュメンタリーの最高傑作 『真夏の夜のジャズ』

    「貴族の庭でジャズ」 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、一躍国力を高めたアメリカには、数多くの富豪たちが生まれた。ロードアイランド州大西洋岸の古い波止場町にすぎなかったニューポートには、贅を尽くした瀟洒な別荘が立ち並び、景色を一変させる。「階級なき国、アメリカ」のハイソサエティである。 そこにジャズがやってきたのは、1954年7月のこと。世界初の「ジャズ・フェスティバル」はこの地、ニューポートでうぶ声をあげている。 このイベントを立ち上げた仕掛人のひとり、煙草王の家系で、ニューポート社交界のルイス・エレイン・ロリラード夫人は、「ミュージシャンと熱狂的な観衆とを、アメリカ上流階級の庭に一堂に集めたこと」と語っている。 小規模ながら、成功をおさめたことから、フェスティバルは毎年8月、定期開催されることが決められた。 演奏は、メイン・ステージばかりでなく、ニューポートのカジノの大庭園のあちこ

    ジャズ・ドキュメンタリーの最高傑作 『真夏の夜のジャズ』
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    terata 2016/09/05
  • 青山ミチの「叱らないで」から生れた藤圭子のデビュー曲「新宿の女」

    青山ミチという歌手がいた。 アメリカの影を背負った生まれで、才能はあったが不器用で、行動が危なっかしい少女歌手だった。 わずか13歳で和製ポップスでデビューしたがヒットに恵まれず、「ミッチー音頭」などで注目されたが、いつしか暗い方向へと流されていった。 そんななかで唯一、賛美歌のような「叱らないで」が1968年に少しだけヒットした。 ● 歌手になるために北海道から家族で上京してきた17歳の少女(後の藤圭子)と出会って以来、作詞家の石坂まさおは何とかしてレコード・デビューを実現させようと、マネージャーになった。 ある日、「新歌謡界」という作詞家の同人誌仲間から未発表の詞を見せられて、頭のなかで何かがひらめいた。 石坂の頭のなかで”バカだな バカだな だまされちゃって”というフレーズに、何かがつながった。 そのとき口をついて出てきたのが、青山ミチの「叱らないで」のメロディだった。 伏線はあった

    青山ミチの「叱らないで」から生れた藤圭子のデビュー曲「新宿の女」
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    terata 2016/08/22
  • ジョン・レノンが亡くなる数時間前に最後の写真を撮っていたアニー・リーボヴィッツ

    1980年12月8日午前、ダコタ・ハウス。写真家が見た愛のカタチ アニー・リーボヴィッツ──彼女の名前を聞いて一体何を思い浮かべるだろう? あらゆるミュージシャンの表情をとらえたロックなカメラマン。 映画スターや経済人たちセレブリティ御用達のカメラマン。 最先端のファッションメディアで斬新なイメージを撮り続けるカメラマン。 政治戦争の代償を切り取るジャーナリストとしてのカメラマン。 世界中を年中飛び回るスターカメラマン。 そして家族や風景といった素朴な写真を愛するカメラマン。 そのどれもが彼女の当の姿であり、世界で最も有名な肖像写真家であることには間違いない。 アニーは1949年10月、大家族の三女としてアメリカのコネチカット州で生まれた。軍人だった父の影響で引越しが多く、そのたびに車に乗って移動した。幼い女の子は車窓というフレームを通して常に人々や風景を観察していたのだろう。ベトナム

    ジョン・レノンが亡くなる数時間前に最後の写真を撮っていたアニー・リーボヴィッツ
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    terata 2015/12/08
  • 「プカプカ」のモデルとなったのは激動の時代を駆け抜けたジャズ・シンガーの安田南だった|TAP the SONG|TAP the POP

    その昔、安田南というジャズ・シンガーがいた。 1960年代の前半から米軍キャンプなどで歌うようになったが、一時は俳優座養成所に籍をおいていたこともあった。 アングラ演劇の勃興期だった1960年代後半になると、自由劇場や演劇センター68/71(現・劇団黒テント)の舞台にも立った。 人気小説家だった瀬戸内晴美(現・寂聴)が連載エッセイで、「はじめて安田南の存在を知ったのは、歌手としてではなく、役者としてでもなく、とてつもなくチャーミングな女の子としてであった」と、雑誌に紹介したのは1971年のことだった。 つきあった男(もちろんセックスで)は七十人だとか八十人だとかケロリとして口にしているけれど、色情狂でもない。 横で見ていると、ちょうどでもはきかえるように男を変えているだけの話だ。 まだ宵の口に六木を男の腕にすがってはだしで歩いている南に逢ったことがある。 新しいが痛くていやだからはだ

    「プカプカ」のモデルとなったのは激動の時代を駆け抜けたジャズ・シンガーの安田南だった|TAP the SONG|TAP the POP
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    terata 2015/11/16
  • カウンター・カルチャーが台頭した70年代に「プカプカ」を歌い継いだのは役者やダンサーが多かった

    ジャズシンガーの安田南が前ぶれもなく、ふいに表舞台から姿を消したのは1978年のことだ。 それからというもの、消息はほとんどわからず、彼女の名前は「プカプカ」のモデルとなった女性として、音楽ファンの間で語られることになった。 テレビの演出家で作家としても活躍した久世光彦は、歌をめぐる名エッセイ集『マイ・ラスト・ソング』のなかで、「プカプカ」をこんなふうに取り上げている。 いわゆる七十年代フォークなのだが、私には、この「プカプカ」だけが、ある日は哀れなサーカスのジンタの音(ね)のように、そして明くる日は教会の讃美歌みたいに聞こえる、奇妙で忘れられない歌だった。 そんな”奇妙で忘れられない歌”に惹かれた人たちが愛聴するうちに、みんなが「プカプカ」を自分でも歌うようになっていった。 そのことで詠み人知らずの歌と同じように、「プカプカ」はテレビやラジオというメディアを通さすに、口伝えで人々に広まっ

    カウンター・カルチャーが台頭した70年代に「プカプカ」を歌い継いだのは役者やダンサーが多かった
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    terata 2015/11/16
  • 音楽史のターニングポイント「ロックは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきか」の論争

    Home Extra便 音楽史のターニングポイント「ロックは日語で歌うべきか、英語で歌うべきか」の論争 - TAP the POP 今からもう50年ほど昔のことになるが、ある座談会をきっかけにして、”日語のロック”について真剣な論争が起こった。 「ロックは日語で歌うべきか、英語で歌うべきか」 今になって振り返れば、その論争は歴史の必然だったということがわかる。 タウン誌の先駆けとなった「新宿プレイマップ」1970年10月号に掲載されたその座談会は、「喧論戦シリーズ②ニューロック」と題されていた。 いわゆる”日語のロック論争”と言われたのは1971年になってからのことで、ロック批評を標榜する雑誌「ニューミュージック・マガジン」に発表の場を移した後になる。 しかし発端になった「新宿プレイマップ」の誌面からは、実に生真面目な話し合いだったことが伝わってきた。 座談会に出席したのは内田裕也

    音楽史のターニングポイント「ロックは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきか」の論争
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    terata 2015/11/16
  • 【8軒目】三軒茶屋・SUNKING──あと数日で幕を閉じる、遊び部屋みたいな酒場

    Home TOKYO音楽酒場 【8軒目】三軒茶屋・SUNKING──あと数日で幕を閉じる、遊び部屋みたいな酒場 - TAP the POP いい音楽が流れる、こだわりの酒場を紹介していく連載「TOKYO音楽酒場」。今回訪れたのは、三軒茶屋駅から少し離れた商店街にあるバー。ビートルズの楽曲から名前をとったその店は、ミュージシャンたちも多く訪れる遊び部屋のような酒場です。 三軒茶屋駅から茶沢通りを下北沢方面へと歩く。緩やかな下り坂がちょうど終わったあたりの交差点を右に曲がると、こじんまりとした個人商店が並ぶ〈太子堂中央街〉がある。夕暮れ時は晩ごはんの材を買い求める主婦たちが行き来するこの界隈も、夜ともなればビストロや居酒屋、ワインバーなどの灯りが点在する、もう一つの顔を見せる。商店街に入ってしばらく歩くと見える白い看板、その雑居ビルの2階で秘密基地のように営業しているのが、今回紹介する〈SU

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    terata 2015/11/16
  • 東京の歌〜社会派シンガーソングライターの目に映ったTOKYOの風景

    ブルース・コバーン(Bruce Cockburn)というシンガー・ソングライター/ギタリストを知っているだろうか? 誠実で美しい歌を作り続けているカナダの偉才で、そのキャリアは40年以上となる。 1970年のデビューから10年ほどは、自然の美しさを描きながら“精神的な旅”や“哲学的な思索”をテーマにした曲を書いていた。 80年代に入ってからは政治社会問題を取り上げ、世の不正を告発するメッセージを放つようになる。 環境破壊問題や放置・残留地雷問題を解決するための活動にも精力的に取り組み、モザンビーク、ベトナム、アパルトヘイト時代の南アフリカ、そしてニカラグア紛争地帯にまで実際に足を運んで作品を発表している孤高のアーティストだ。 そんな彼が今から37年前の1979年、二度目の来日ツアーで東京を訪れた。 そして帰国の飛行機の中で、滞在時のスナップ写真を整理するような感覚で一曲の新曲を書いたという

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    terata 2015/11/16
  • ギター教室の生徒だった高田渡が灰田勝彦から教わった”歌を自分のものにする方法”

    大好きなフォーク・シンガーのピート・シーガーを目標にして歌手になる決意を固めた高田渡が、「日人として、日語の表現を突き進む」と日記に書いたのは17歳の時だった。 中学を出てから東京・代々木にある印刷工場で働いた高田渡が、ブラザース・フォアのレコードを聞いたことでフォークソングに開眼したのはその1年前のことだ。 はじめはメロディの心地よさに惹かれたが、楽器のバンジョーに興味をもったことから、名手だったピート・シーガーを知って傾倒していった。 ピート・シーガーは先祖たちが残した歌を調べるためにアメリカ中をまわり、発掘したフォークソングを歌い継ぐことでそれらを世に広めた。 高田渡が残した1966年3月の日記には、ピートについての思いがこう記されていた。 彼のうたう歌には、うたい方には、[自分を出そう]というものがないのです。どことなくすいこまれていく、そして、歌そのものに魅力を感じさせるもの

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    terata 2015/11/16
  • HA〜HA──美しい歌声が波の音のように染み渡る、女性シンガー・ソングライター

    髪なびく 走る影 風に 自分に 訊いてみる 微笑んだら こっちのもの 忘れかけた小鳥が舞う 裸足のままで走りぬける野辺を 小麦色 開けていくまで風を切る 穂影と追いかけっこ (「未完成の小麦色」より) 沖縄を拠点に活動する、女性シンガー・ソングライター〈HA〜HA(ハーハ)〉。物心ついた時からレゲエをはじめ様々な音楽が流れる家庭に育ったという彼女。両親にはミュージシャンの友人も多く、中でも家族ぐるみでつきあいのあったのが、どんと(ex.ボ・ガンボス)・サヨコ(ex.ZELDA)一家。どんととサヨコの後押しもあり幼少期から歌いはじめ、どんとのソロ・ライブの前座も務めたこともあったとか。 その後、実の姉妹4人で〈すぺーすどーたーず〉というボーカル・ユニットを結成。2011年にはアルバムをリリース。並行して、ハナレグミ「光と影」や、リトル・テンポのレコーディングにコーラスとして参加。またハナレグ

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    terata 2015/10/21
  • 日本のジャズメンを育てたのは銀座のシャンソン喫茶だった

    戦後、ジャズの中心地となったのは銀座だった。 GHQ部が有楽町駅近くだったこともあり、この地域には外国人向けのクラブが多く生まれ、ジャズ以外にもシャンソンやカントリーなど、様々な海外音楽がこの街で流れていた。 1951年頃から、わずか19歳でプロとして活動をはじめたジャズ・ギタリストの高柳昌行が、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で活動を始めたのは1958年のことだった。 ジャズの演奏ができる場を探していた高柳は、知人のシャンソン・ギタリストらに相談すると、彼らが出演する「銀巴里」で、一番客の少ない金曜日の昼間に演奏させてもらえることとなったのだ。 「フライデー・ジャズ・コーナー」として始まったその集まりは、やがて「新世紀音楽研究所」と名を変える。 「芸術のあり方の質を追求する」「聴衆から離れたひとりよがりな活動をしてはならない」などいくつかの規律を掲げ、日野皓正や山下洋輔などのちにジャ

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    terata 2015/10/19
  • 【25軒目】渋谷・Organ bar──宇田川町の中心でレコード文化の変遷を見守ってきたナイトクラブ

    Home TOKYO音楽酒場 【25軒目】渋谷・Organ bar──宇田川町の中心でレコード文化の変遷を見守ってきたナイトクラブ - TAP the POP いい音楽が流れる、こだわりの酒場を紹介していく連載「TOKYO音楽酒場」。今回は渋谷・オルガン坂にある、20年以上の歴史を誇るナイトクラブにご案内。有名DJも数多く出演するOrgan bar(オルガン・バー)は、酒場としての魅力もしっかりと感じられる�お店です。 渋谷・オルガン坂。通りの周辺に音楽関係の店が多かったのでその名がついた、あるいは近くにある階段がオルガンの鍵盤のように見えるから……と諸説あるが、このあたり=宇田川町エリアはレコード店が軒を連ねる、東京の音楽シーンの中心地であった。90年代半ばのアナログ・ブームで雨後の筍のように増えたレコードショップも、2000年代に入ると軒並み閉店。街の景色も急速に変化していった。しかし

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    terata 2015/09/29
  • 父を亡くした少年の悲しみを「9月が終わったら、起こして」と歌ったグリーン・デイの代表曲

    ビリー・ジョー・アームストロングの父はジャズ・ミュージシャンだったが、音楽では暮らしが成り立たなくて、トラックのドライバーとして家族を養っていた。 6人兄弟の末っ子だったビリーは幼い頃から歌の才能を発揮したので、父から音楽の手ほどきを教えてもらっていた。 そんな父が道癌と宣告されたのは1983年4月だった。 そこから夏の闘病生活を経ても回復はかなわず、秋を迎えた9月10日に亡くなってしまう。 11歳になっていたビリーはベッドで毛布をかぶって、母親に泣きながらこう言った。 「九月が終わったら、起こして」 ビリーは父を失くした悲しみのなかで、母が再婚した相手(継父)に馴染めないまま、ひたすら音楽に没頭していく。 サンフランシスコの対岸にあるイーストベイに住む仲間たちとパンクバンドを始めて、グリーン・デイのヴォーカルとして地元のマイナー・レーベルからアルバムを出した。 それが1990年のことで

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    terata 2015/09/23
  • 憂歌団の「おそうじオバチャン」を放送禁止にしたのは誰なのだろう?

    1970年代の前半から中盤にかけて、京都では大学生を中心にブルース・ブームが起きていた。 酒蔵を改造したコーヒーショップの「拾得」やライヴハウス「磔磔」、京大西部講堂などで、ウェストロード・ブルース・バンド(「ウェストロード」は京都の「西大路」を英語読みしたもの)を中心に、憂歌団、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、ブルースハウス・ブルースバンドなのライブやコンサートが盛リ上がっていた。 それぞれがアーバン・ブルース、カントリー・ブルース、リズム・アンド・ブルース、シカゴ・ブルースを英語で歌っていた。 そこから日語によるカヴァーとオリジナルに向かって進んだのが憂歌団である。 自分たちの力ではどうしようもない差別と疎外に置かれた者たち、奴隷解放後のアメリカで黒人たちが始めた音楽がブルースだ。 バンド名が「ブルース・バンド」の日読みであることからわかるように、大阪出身の憂歌団はブルースに埋め込

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    terata 2015/09/23
  • 小林旭の「ダイナマイトが百五十屯」~詞・曲・歌唱が奇跡的に融合され爆発している”土着ロック”の最高傑作

    Home TAP the SONG 小林旭の「ダイナマイトが百五十屯」~詞・曲・歌唱が奇跡的に融合され爆発している”土着ロック”の最高傑作 - TAP the POP 1958年に「ダイナマイトが百五十屯」が発表されたとき、それが日語のロック第1号楽曲として21世紀にまで受け継がれることなど、当事者の誰もが想像だにしなかっただろう。 この楽曲と歌が持つ破壊力について、小林旭の研究家でもあった故・大瀧詠一は料理にたとえて解説をしている。 アキラの曲をよく聴くと「監獄ロック」と「16トン」などをブツ切りにして熱湯のナベにぶち込んで、16トンというケチな量ではなく、100屯の大根や山芋を一緒に煮込んで50屯の味噌で味付けをしたような、とにかく豪快さと爽快さを感じる。 この楽曲が作られたきっかけは若手の映画スター候補生のなかで頭角を現してきた小林旭が歌った鼻歌を、日コロムビアの文芸部長だった目

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    terata 2015/09/09
  • 新聞の小さな記事からエディが伝えたかったこと~パール・ジャムの「ジェレミー」

    1991年1月8日、火曜日。テキサス州にあるリチャードソン・ハイスクールの2時限目。欠席がちだった16歳のジェレミー・ウェイド・デルは、英語教師から事務室に行って欠席届をもらってくるように指示された。 戻ってきたジェレミーは黒板の前に立って発言した。「先生、僕はやりたかったことがあるんです」と言って、357マグナムを取り出し、自らの口にくわえ引き金を引いた。 そのニュースはある日、新聞に小さく掲載された。記事の隣には「華氏64度、曇り」の今日の天気があった。 復讐のためにこんなにも大きな犠牲を払って命を失った少年の記事が、そんな小さな記事で終わってしまうという事実に、パール・ジャムのエディ・ヴェダーは何かしなければと思い、「ジェレミー(Jeremy)」という曲を書いた。 ミュージック・ビデオの最初と最後に「華氏64度、曇り」の文字を配置したのは、結局は何も変わらないんだということを表現した

    新聞の小さな記事からエディが伝えたかったこと~パール・ジャムの「ジェレミー」
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    terata 2015/09/01
  • ジョン・ベルーシ〜永遠のヒップスターと伝説の『サタデー・ナイト・ライブ』

    新番組『SNL』の最後のキャスト枠に滑り込んだジョン・ベルーシ TVなんてクソ喰らえだよ! どのチャンネル回しても下らない番組ばかりじゃねえか。自慢じゃねえけど、俺はこれまでオンボロの白黒TV一台しか持ったことないぜ。それも俺の吐いた唾でベトベトになったやつ!! 1975年の夏。NYマンハッタンのRCAビル17階のオフィス。窓からはロックフェラー・プラザの名物スケートリンクが見下ろせる。三ヶ月後に控えたNBCの新番組のプロデューサーに抜擢された29歳のローン・マイケルズは、髭面で小太りの26歳の男からそんな言葉を浴びせられていた。その名はジョン・ベルーシ。 イリノイ州シカゴで生まれたベルーシは、高校卒業後は大学に適当に通ったり、デモに参加したり、好きな音楽を聴きながら、コメディ即興劇団『セカンド・シティ』の一員として活躍。その後、人気コミック誌『ナショナル・ランプーン』が企画したオフ・ブロ

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    terata 2015/08/27
  • 【24軒目】渋谷・THE ALDGATE──センター街で20年以上続く、本格派ブリティッシュ・パブ

    Home TOKYO音楽酒場 【24軒目】渋谷・THE ALDGATE──センター街で20年以上続く、格派ブリティッシュ・パブ - TAP the POP いい音楽が流れる、こだわりの酒場を紹介していく連載「TOKYO音楽酒場」。今回は渋谷センター街にある、ブリティッシュ・ロックとフットボール、そして美味しいビールの数々を楽しめる、格派ブリティッシュ・パブを紹介します。 昼夜を問わず、多くの人であふれる渋谷センター街。2年前にバスケットボールストリートといきなり名付けられたが、バスケ選手っぽい若者が増えた気配もなく、ここ数年は外国人観光客が急増している。そのセンター街を真っ直ぐ進み、24時間営業のハンバーガーショップや大阪の有名ラーメン店チェーンを過ぎたあたりで見上げると、大きなユニオンジャックが目に留まる。モザイクで外壁を覆われた雑居ビルの3階に、今回訪れる〈THE ALDGATE(

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    terata 2015/08/18
  • “ニューヨークのため息”ヘレン・メリルの歌声に酔いしれて…

    7月21日は“ニューヨークのため息”と呼ばれるジャズ歌手ヘレン・メリル誕生日です。 1930年にNYで生まれた彼女は今年で85歳を迎えました。 クロアチア(旧ユーゴスラビア)移民の子としてブロンクスで育ち、14歳の時からプロ歌手となり、ブロンクスのThe845Clubで歌い始める。 彼女は若くしてマイルス・デイビスやディジー・ガレスビー、バド・パウエルといったジャズの巨人達との共演を経験し、その歌声に磨きをかけてゆく。 デビュー当初はヘレン・ミルケティックというファミリー・ネームで歌っていたが、のちにヘレン・メリルと改名。 1948年、18歳の若さでクラリネット奏者のアーロン・サクスと結婚するが、1956年に離婚。 数多い女性ジャズ歌手の中で、とりわけ我が国のファンに愛されているシンガーである。 ハスキーでけだるい彼女の歌声は、たとえばエラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンのようにスケー

    “ニューヨークのため息”ヘレン・メリルの歌声に酔いしれて…
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    terata 2015/08/01