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日本のジャズメンを育てたのは銀座のシャンソン喫茶だった
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日本のジャズメンを育てたのは銀座のシャンソン喫茶だった
戦後、ジャズの中心地となったのは銀座だった。 GHQ本部が有楽町駅近くだったこともあり、この地域には... 戦後、ジャズの中心地となったのは銀座だった。 GHQ本部が有楽町駅近くだったこともあり、この地域には外国人向けのクラブが多く生まれ、ジャズ以外にもシャンソンやカントリーなど、様々な海外の音楽がこの街で流れていた。 1951年頃からわずか19歳でプロとして活動をはじめたジャズ・ギタリストの高柳昌行が、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で活動を始めたのは1958年のことだった。 ジャズの演奏ができる場を探していた高柳は、知人のシャンソン・ギタリストらに相談すると、彼らが出演する「銀巴里」で、一番客の少ない金曜日の昼間に演奏させてもらえることとなったのだ。 「フライデー・ジャズ・コーナー」として始まったその集まりは、やがて「新世紀音楽研究所」と名を変える。 「芸術のあり方の本質を追求する」「聴衆から離れたひとりよがりな活動をしてはならない」などいくつかの規律を掲げ、日野皓正や山下洋輔などのちにジャズ