タグ

Favoriteと思考に関するthebandのブックマーク (13)

  • 多様性を言い出す人間から得るものは何もない - メロンダウト

    昨今、多様性という言葉がよく聞かれるようになった。他者の価値観への寛容性とも言い換えることができるが僕はこの言葉をポジティブに捉えることができないでいる。どころか冷徹で残酷で無機質な、いや機械的ともいっていい常套句、逃げ口上だと思っている。 「君の描いた抽象画もステキだね、でもあっちのアニメもかわいいよね。うん、どっちもそれぞれいいよね」 などというスタンスには多様性という言葉を借りたどうでもよさや一定の壁に似た距離感がある 天気のような意味のない内容の会話を除いて日常会話から国会の議論まで人が言葉を真剣に重量や熱量を持って発している時の目的というのは自分が他人に影響を与えたいから発しているものだ 逆に聞く立場であれば自分が他人から影響を受けたい、相手を知ってその領域に触れたいと思うからこそ初めて人の話が聞けるようになるのだ よく思い出してみればいい 中学校の終業式に校長先生が意味のない挨

    多様性を言い出す人間から得るものは何もない - メロンダウト
    theband
    theband 2017/03/14
    “人が言葉を真剣に重量や熱量を持って発す目的は、自分が他人に影響を与えたいから/多様であるのは楽であると同時にコミュニケーションを放棄する言葉、思考放棄/社会が多様であるのは単なる事実”
  • こんな答えが出てくるのは、これを書いているやつが実際は幸せについて碌..

    こんな答えが出てくるのは、これを書いているやつが実際は幸せについて碌に考えていない証拠だな。 幸せについて考えるってことは、その理由を分析したり、客観視するってことだ。 その時点で、その幸せってのは一般化されて、自分のもとから離れる。 そもそも感覚的なものを、頭で考えて理由を探そうとしてもそこに答えはない。 もし見つけても、個人的な感覚を分析して解体しようとすれば、陳腐化は避けられない。 すると幸せだと感じていたものが幸せじゃなくなり、むしろ不幸だとすら感じるようになることだってある。 だから当に考え抜くべきことは「何を幸せと感じるか」ではなく、「何を不幸だと感じるか」なんだが、一般人にはどちらにしろ無理な話なので「考えるな」ってのがベターな回答。

    こんな答えが出てくるのは、これを書いているやつが実際は幸せについて碌..
    theband
    theband 2017/03/06
    完全に同意するし、簡潔に上手く文章化できていることに拍手です
  • 「よく発達した発達障害」の話 - シロクマの屑籠

    ここ十年ぐらいで「発達障害」という言葉はすっかり普及し、そのせいもあってか、外来で「自分が発達障害かどうか調べて欲しい」という相談を受けることも増えた。 精神医療のフォーマルな窓口で発達障害と診断される人の大多数は、社会で生きていくことに困難を感じているか、周囲との摩擦を感じている。そりゃそうだろう、なんらかの事情がない限り、人はわざわざ病院を受診したりはしない。 社会に溶け込んでいる「発達障害と診断され得る」人々 発達障害という名称が世間に広まると同時に、精神科医が発達障害と診断する頻度もだいぶ増えた。過去に他の病名をつけられていた人に正しい病名をつけられるようになったわけだから、これは「進歩」と言って良いのだろう。 そうやって、ちょっと前なら異なる病名をつけられていたであろう人々を発達障害と診断する状況になって、気づいたことがある。それは、「病院で発達障害と診断する基準に当てはまるよう

    「よく発達した発達障害」の話 - シロクマの屑籠
  • 娘へ ~将来死にたくなったらコイツを読め~ - ひつじのブログ

    幸い、娘はその後幼稚園には普通に通っています。 しかしどんな気持ちで毎日暮らしているのか当の心の内はわかっていません。 もうイジメ問題が他人事ではないと感じました。 ボクは、いじめる側が悪いとか、いじめられる側にも問題があるとか イジメに気づいていながら止められない学校側が悪いんだとか 責任論について語りたいわけではありません。 生物が生存競争をするよう遺伝子レベルで定められているのなら 同じ年齢層を同じ場所にぶち込んだ状況下において 個体の強い弱いでイザコザが起きないわけはないと思います。 イジメは集団生活をする生物において起きて然るべき事象なのかもしれないと 考えてしまいます。 ただ、現在進行形でイジメやその他諸々の事情によって 今も苦しんでおられる方は、きっと視界も狭くなっていて もう周りの人間のどんな声にも心は動かない、決して心が楽にならないという事は 想像できます。 全知全能の

    娘へ ~将来死にたくなったらコイツを読め~ - ひつじのブログ
  • 「論理的に考える/書く」は、人間の本能とは異なるので、身につけるには辛抱強い訓練が必要。

    まず前提として、人間は元来「論理的に考える」のは苦手である。 ノーベル経済学賞を受賞した経済学者、ダニエル・カーネマンは次のような問題を引き合いに出す。*1 できるだけすばやく、論理的に成り立つかどうか答えてほしい。二つの前提から最後の結論は導き出せるだろうか。 すべてのバラは花である。 一部の花はすぐにしおれる。 したがって、一部のバラはすぐにしおれる。 無論、回答はNOである。 だが殆どの人は「YES」と思ってしまう。 カーネマンは、「ほとんどの人の頭にはもっともらしい答えがすぐに思い浮かぶ。だが、それは多くの場合間違っている。」という。 これを打ち消すのは至難の業だ。 というのも、「だってバラはすぐにしおれるじゃないか」という内なる声がしつこくまとわりついて、論理をチェックするのが難しくなるからだ。(中略) たいていの人は、結論が正しいと感じると、それを導くに至ったと思われる論理も正

    「論理的に考える/書く」は、人間の本能とは異なるので、身につけるには辛抱強い訓練が必要。
  • 理系の議論と文系の議論 - 脱社畜ブログ

    理系と文系の当の違い http://anond.hatelabo.jp/20130308230002 そういえば、僕は文系学問と理系学問について、両方ともそれなりに勉強したことがある。そこで今日は、双方を勉強して僕が感じた「理系と文系の違い」について書いてみようと思う。 まず、自分のバックグラウンドの話からすると、僕は工学部出身で、今の仕事もざっくり言えば「エンジニア」というやつなので、これだけ見るとコテコテの理系人間に思える。 ただ、僕は昔から理系、理系と言われるのがものすごく嫌で、その反骨心が大学入学後抑えきれない大きさまで膨れ上がったため、2年半ほど司法試験の勉強をしていたことがある。当時はよく工学部の講義をサボって図書館で法律の基書や予備校を読んだりしていた。法学部の講義や自主ゼミのようなものにも出た。予備校にも通った。当時は気で受かろうとして真剣に勉強していたので、勉強を

    理系の議論と文系の議論 - 脱社畜ブログ
  • 理系と文系の本当の違い

    タイトルはやや釣り。既に皆が知っているような事を、ちょっと別な言葉でもう一回書くだけ。 一応最初に自己申告すると、筆者は理系を自負している。 違うのは興味の対象いきなり結論を書くと、これ。 理系は事象や物それ自体に興味を抱き、人間同士の営みについてはあまり興味がないが、文系は基的に人間中心主義で、人間関係に強く関心を寄せる。 興味というと話が限定的になるので、世界の捉え方と言ってもいいかもしれない。 理系は、まず銀河の中に太陽系がありその中の地球と言う惑星に棲む様々な生物のうちの一つが人間、というように、自然科学的な世界の枠組みの中に人間社会があると考える。物事の質はそれ自身の持つ法則や性質にあり、人間がそれに与える意味は付随的な物と考える。 一方文系は、まず人間社会がありその中の一団が天文学を発達させ太陽系や銀河の有り方を発見した、というように、人間社会の枠組みの中に様々な知識や発見

    理系と文系の本当の違い
  • 毒親家庭に拒否反応起こす人いるよな

    http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2017/01/22/002934 知識として毒親という存在を知っていても、別世界の家族形態だとしか考えられず、現実に問題として抱えている人が身近に生活しているという感覚を持っていない。その世界が目の前に現れても見たくなかったという反応が勝って否定しようとする。 この記事も晴天の霹靂として現れた毒親家庭のせいで激しく動揺し混乱している書き手の心情がよみとれる。 健全な家庭で育った証なのかもしれんが、逆に健全な家庭で育つだけだとこのような家庭の存在に対する免疫を獲得しないまま大人になってしまうのかもしれんね。 このような機能不全家庭はいつの時代もそこかしこにあり、かつての友人や職場の同僚やすれ違う街の人たちの家庭もこのようである可能性が常にあるのだが、それでもこのような人たちは全ての人たちは健全な家庭で育った自分と同じ価値

    毒親家庭に拒否反応起こす人いるよな
  • 西野亮廣がいかに今回悪辣で狡猾な仕掛けを施したのかをちゃんと解説しておく。 - 銀河孤児亭

    これは西野批判者たちのあまりの不甲斐なさに憤慨した10年来の西野亮廣ファンによる、西野絵炎上事件の解説である! ここ数日ツイッターランドではどこもかしこも西野への批判でいっぱいだ。おそらく西野を悪く言うツイートを一度も見なかった人というのはほとんど皆無なのではないだろうか? しかしにもかかわらず、個人的な感想を言わせてもらえば、西野への批判の中には的外れのものもかなり多く、問題点のみに絞って的確に批判を行えていた人はかなり少なかったように思う。 その中でも西野が批判されて然るべき点のみに上手く絞って批判できていると感じるブログ記事が以下にある。 キングコング西野の件は「炎上」では足りない - MistiRoom しかしこのブログも、批判されうる点に上手く絞れているとは言え、西野の質的な悪辣さと狡猾さについてはほとんど理解できていないように思う。このブログではむしろ「なぜ炎上したか?」と

    西野亮廣がいかに今回悪辣で狡猾な仕掛けを施したのかをちゃんと解説しておく。 - 銀河孤児亭
    theband
    theband 2017/01/23
    “問題は西野がクリエイターでありながら、恥も外聞も気にしないビジネスマンまでをも兼任している点で、この二面性を同時に持ち合わせている作家は日本にはほとんどいない”
  • 好きなものを好きと言うのは好きだな。 - ASKA_burnishstone’s diary

    でもね、 嫌いなものを嫌いと言うときは、気を遣わなくてはならない。 行動、発言には、その人の理由があります。 理由の裏打ちを察した上で、言葉を選ぶ。 これは、ひじょうに大切なことだと思っています。 「歯に衣を着せぬ発言」 これは、誰もが使えるものではありません。 その人の人となりが認められてこそ、それは受け入れられます。 僕は、〇〇の司会者〇〇君が好きです。 彼は、とても愛情深く、そしてすばやく人の気持ちを感知して言葉を選んでいます。 「私は、思ったことは言うんだ。」 これは、わかり合うために必要なことだとは思いますが、 これには「伝える」という気持ちが備わっていなければなりません。 僕は、「歯に衣を着せぬ〜」が、あまり好きではありません。 感情の流れからの、その場の雰囲気が壊れることが嫌いだからです。 ただ、 「やりたいことをやる やりたいように」 これに関しては、信念が見えますので、

    好きなものを好きと言うのは好きだな。 - ASKA_burnishstone’s diary
  • 論点:「ら抜き」言葉、多数派に | 毎日新聞

    かつて「日語の乱れ」の代名詞のごとく扱われてきた「ら抜き言葉」。文化庁が発表した2015年度「国語に関する世論調査」で、この「ら抜き言葉」を使う人が多数派になったという。これも世の流れということか。それとも日語が壊れつつあるのか。「ことば」の達人に話を聞いた。【聞き手・尾中香尚里】 日語は常に変化の過程 金田一秀穂・杏林大教授 言語学者の仕事は、言葉がどう変化していくかを観察すること。「言葉はこうであるべきだ」と指針を示す役ではない。「ら抜き言葉」についても「ああ、変わってきたのか」とは思うが、乱れているとは思わない。

    論点:「ら抜き」言葉、多数派に | 毎日新聞
    theband
    theband 2017/01/14
    “ら抜き言葉問題は、その主たる話し手が若い未熟な世代だった時代に、大人が「ら抜きを話す人は子供っぽくて教養が低い」と優越感を抱くための指標として使われてきたように思う”
  • 正しいのはどっち? 第一回『グルメ vs 味オンチ』討論会! - ぐるなび みんなのごはん

    こんにちは、株式会社バーグハンバーグバーグです。 みなさんは誰かと事に行った時、こんな風に感じたことはありませんか? 「この人、こんなものを『おいしい』と感じるんだ……」 また、それとは逆に、 「手軽な居酒屋で十分なのに、なんで高級店に行きたがるんだ……」 と感じることもあるではないでしょうか。 そう、実はこの世の中には2種類の人間がいるのです。 すなわち―― に通じ、美味しいモノのためにはお金と労力を惜しまない「グルメ」! 対して、ジャンクだろうと安物だろうと、何をべてもおいしい!と喜べる「味オンチ」! …この両者の間にはマリアナ海溝よりも深い溝があるわけですが、今日はそんな「グルメ」と「味オンチ」を集め、普段から言いたかったことを、両陣営にそれぞれブチまけてもらおうと思います。 第一回『グルメ vs 味オンチ』討論会 集まってもらったのはこちらのメンバー ▼グルメチーム 田中開(

    正しいのはどっち? 第一回『グルメ vs 味オンチ』討論会! - ぐるなび みんなのごはん
  • 人間に他の種を存続させる義務はない - 本しゃぶり

    コメントがついていた。 ケモノに権利は与えない - しゃぶり 読んだ。イルカの次はチンパンジーですか。チンパンジーは人間とみなされるべきだろうか? « WIRED.jp人間以外に権利を与える気にならない。「西... 青木 いつも楽しく拝読しています。私も権利があると考える必要が無いという点で同様の考えですが、人間以外の種の存続については、人間には義務があると考えますか?とくに人間がその原因になっていることが割と明らかな場合に、です。 人間には他の種を絶滅させる権利があるのかどうか、ということですが。 もしお考えがあれば教えてください。 というわけで答える。義務も権利もない。なぜなら人間とその他の生物との間には一切の契約がないからだ。 ルールは人間が決めている やってはいけないとされていることは世の中に色々とある。大きい範囲では「人を殺してはならない」というのがあり、狭い範囲では「点差が開

    人間に他の種を存続させる義務はない - 本しゃぶり
  • 1