佐賀郡本庄村の土豪鍋島清房は、田手畷の戦いにおいて戦功を挙げ、龍造寺家兼の孫娘を妻とするなど龍造寺氏内で有力家臣としての地位を固めた[3]。 龍造寺氏重臣から佐賀藩主となった鍋島直茂 その長男鍋島直茂は、龍造寺隆信に仕えて各地を転戦した[4]。直茂は、天正7年(1579年)に隆信より筑後国柳川城を与えられた[5]。 天正12年(1584年)に隆信が島津家久に討たれた後、直茂は佐賀城に入り、隆信の幼少の子政家を補佐して龍造寺氏領内の実権を掌握[5]。 大正15年(1587年)に龍造寺政家および鍋島直茂は、関白豊臣秀吉より本領安堵され、直茂には若い政家に代わって政務を沙汰するよう命じられる[6]。 天正18年(1590年)に政家が病により隠居するにあたり、その長男高房が幼少たるにより、龍造寺の領地35万7000石を直茂が代わって支配した[2][6][7]。 これにより佐賀の支配権は直茂に移った