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historyに関するtk18のブックマーク (524)

  • 大弐三位 - Wikipedia

    大弐三位歌碑、有馬山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする、京都市上京区廬山寺内 大弐三位(だいにのさんみ)は、平安時代中期の女流歌人。女房三十六歌仙そして百人一首の歌人として知られる。藤原宣孝の娘。母は紫式部。名は藤原賢子(ふじわら の かたいこ / けんし)。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれる。 経歴[編集] 長保3年(1001年)3歳ごろ父藤原宣孝と死別。藤原宣孝と紫式部の結婚生活は3年あまりだった。長和6年(1017年)18歳ごろ、母の後を継ぎ一条院の女院彰子(上東門院)に女房として出仕[* 1]。この間、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったことが知られている。その後、関白・藤原道兼の次男・兼隆と結婚、一女の源良宗室をもうけた。これは『栄花物語』「楚王の夢」「大宮の紫式部が娘・越後の弁、左衛門督の子産みたる」の「左衛門督」

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    tk18 2024/07/15
    藤原賢子。紫式部の娘。
  • 【光る君へ】第25回「決意」回想 鴨川の治水に生涯悩まされた道長 白楽天から導かれるもの、紫式部と清少納言の違い 越前和紙で開眼?『源氏物語』でも紙にこだわり

    「辞表」をめぐる一条天皇と道長の神経戦 大河ドラマ「光る君へ」の第25回「決意」。愛する中宮定子(高畑充希さん)が内裏に隣接する職曹司しきのぞうしという身近な生活空間に戻ってきて、一条天皇(塩野瑛久さん)の変容ぶりが目に余る状態になりました。 内裏には碌におらず、定子と一緒にいたいと職曹司に入りびたり。 行成(渡辺大知さん)らが政務のことを報告してもまともに聞いてもらえず、怒り出すほどです。 道長が心配していた鴨川の出水対策は後手後手になり、多くの人が被災しました。道長は自らの力不足を理由に、左大臣の辞表を3度にわたって提出しますが、一条天皇は「朕を導き支える者は、そなたしかいない」と受理しません。 この頃の道長の辞表の提出と不受理は史実通りです。史料上は道長の病気が理由ですが、ドラマの流れは、一条天皇が道長を辞めさせることができない事を見切った上で、辞表の提出を契機に天皇にも自分自身の至

    【光る君へ】第25回「決意」回想 鴨川の治水に生涯悩まされた道長 白楽天から導かれるもの、紫式部と清少納言の違い 越前和紙で開眼?『源氏物語』でも紙にこだわり
  • 山門

    土間仏堂は、床が土間のもので、飛鳥時代、奈良時代から見られますが、 鎌倉時代には宋様式の導入により禅宗様として主流となりました。 建長寺の造営が格的な建築の始まりであり、その後次々と 大寺院が建設され、多くは土間の床のものだということです。 鎌倉に現存する土間仏堂は、二重仏堂と一重仏堂に分けられ、 一重仏堂は、さらに五間堂と三間堂に分けられます。 今回取り上げた二重仏堂とは、実際には一階建てですが裳階(もこし)が両脇に つくことで、あたかも重層のようにみえるものです。 円覚寺の舎利殿(室町前期のもので、同後期に移築されたもの)、 江戸時代初期の英勝寺仏殿と建長寺仏殿、幕末の建長寺法堂(はっとう)の 四棟があります。 円覚寺の舎利殿は、当初のものは弘安八年 (1285) の頃 または 延慶二年 (1309) に建立されたと言われています。 再三火災がありましたが、なかでも永禄六年 (156

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    tk18 2024/06/01
    円覚寺 舎利殿
  • https://www.archives.go.jp/exhibition/pdf/0306pam.pdf

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    tk18 2024/05/29
    //文書管理の歴史を紐解く//
  • サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説 - データベース「世界と日本」

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    tk18 2024/05/22
  • 七色十三階冠 - Wikipedia

    七色十三階冠(ななしきじゅうさんかいかん)は、大化3年(647年)に制定された日の冠位である[1]。名称は『日書紀』の「制七色一十三階之冠」という記述による。冠位十二階にあわせて冠位十三階、制定年をとって大化三年の冠位などとも呼ばれる。また、それぞれ「制」をつけて七色十三階冠制、冠位十三階制、大化三年の冠位制などともいう。以前の冠位十二階制を改め、648年4月1日から施行されたが[2]、649年に下位を細分化した冠位十九階制に再改正された。 七色十三階冠では、従来の12階を6または7階に統合し、新たに上に6階を設けた。冠位の名称は冠の材質と色をもとにしたものとなり、これを各大小2つに分け、最下位に建武を加えた。すなわち、上位より大織・小織・大繡・小繡・大紫・小紫・大錦・小錦・大青・小青・大黒・小黒・建武である。十二階制の最高位である大徳に対応するのは、十三階制の7番目にあたる大錦である

  • 太閤 - Wikipedia

    太閤(たいこう)は、摂政または関白の職を退いて後、子が摂関の職に就いた者[1]、摂関辞職後に内覧の宣旨を受けたものを指す称号[2][3]。敬称は摂政・関白と同じく「殿下」であり、呼びかけの場合は「太閤殿下」となる。来は太閤下(たいこうか)と呼ばれていたが[1]、やがて略されるようになった。大殿(おおとの)とも呼ばれる[1]。 また出家した太閤のことを禅定太閤(ぜんじょう たいこう)、略して禅閤(ぜんこう)という[1]。 沿革[編集] 古くは摂関・太政大臣現職者を指す尊称であった[2][3]。『西宮記』や『左経記』には在職中の摂関が太閤を称した記述があり、「関白太閤」と称されていた[4]。 摂政・関白を嫡男に譲った者が「太閤」と呼ばれる例は平安時代からあった。例えば藤原道長は後一条天皇の摂政を息子頼通に譲り、続いて任じられた太政大臣の職も辞任した後は「太閤」と呼ばれていた[5]。鎌倉時代の

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    tk18 2024/05/13
    >太閤(たいこう)は、摂政または関白の職を退いて後、子が摂関の職に就いた者[1]、摂関辞職後に内覧の宣旨を受けたものを指す称号
  • 『源氏物語』は疫病を描かない?

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    tk18 2024/05/13
    >毎年のように疫病が流行していますね。
  • 工藤俊作 (海軍軍人) - Wikipedia

    工藤 俊作(くどう しゅんさく、1901年(明治34年)1月7日 - 1979年(昭和54年)1月12日)は、大日帝国海軍軍人。1942年3月の駆逐艦「雷」艦長時に、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物として知られる。最終階級は海軍中佐。 経歴[編集] 山形県東置賜郡屋代村(現・高畠町大字竹森)で、農家の工藤七郎兵衛、きんの次男として生まれた。山形県立米沢中学校(現・米沢興譲館高校)を経て、1920年、海軍兵学校に入学(第51期[1])。同期には大井篤や実松譲、豊田隈雄、小園安名、有泉龍之助などがいる。八八艦隊構想のため、海軍兵学校は第50期から第52期までは入学定員が300名に拡大されていた。1923年、海軍兵学校を卒業。その後オーストラリア・ニュージーランドなどの南洋方面遠洋航海に出発するが、その練習艦のうちの一つである磐手の艦長にのち

    工藤俊作 (海軍軍人) - Wikipedia
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    tk18 2024/05/11
    足が大きい。足に包帯を巻いていた高松宮宣仁親王に靴を貸した。
  • 西国札所 - 書寫山圓教寺

    花山法皇と性空上人 花山法皇と観音信仰 花山法皇は書写山円教寺へ二度行幸されています。一度目は寛和2年(986)、二度目は長保4年(1002)という記録が残っています。 寛和の行幸、それは従者わずかに十数人という「微幸」でした。 法皇は同年6月22日に宮中を出立され退位、山科元慶寺にて御出家されましたが、あわただしく行われたそれらの儀式は、藤原家の陰謀と言われ決して晴れやかなものではありませんでした。仏道に身を置いても真の心の安寧は得られなかったのでしょう。翌月7月21日には同腹の長姉(23歳)を失い、姉弟の全ては死に絶えてしまいます。3年足らずの在位、陰謀による退位、出家、押し寄せる孤独感は20歳に満たない青年の心に大きな傷を与えたことでしょう。院は23日の新帝の御即位の日に都を御出発、27日深夜には書写山麓に御到着され、28日に上人に御対面になります。心の大きな痛みを上人に訴えるため、

    西国札所 - 書寫山圓教寺
  • 花山天皇 - Wikipedia

    花山天皇(かざんてんのう、かさんてんのう[注釈 1]、旧字体:花󠄁山天皇、968年11月29日〈安和元年10月26日〉- 1008年3月17日〈寛弘5年2月8日〉)は、日の第65代天皇(在位:984年9月24日〈永観2年8月27日〉- 986年8月1日〈寛和2年6月23日〉)。諱は師貞(もろさだ)。 冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。 来歴[編集] 安和2年(969年)、父冷泉帝の弟で叔父である守平親王の即位(円融天皇)と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。生後10か月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父藤原伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことは、2年足

    花山天皇 - Wikipedia
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    tk18 2024/04/17
  • サヘラントロプス - Wikipedia

    サヘラントロプス(学名:Sahelanthropus)は、新生代新第三紀中新世末期の約700万年から約680万年前[1][2]のアフリカ大陸北中部(現在のサハラ砂漠の一角、中部アフリカの北部、チャド共和国北部)に生息していた霊長類の1属である[3]。サヘラントロプス・チャデンシス(S. tchadensis)1種のみが知られている。 最古の人類である可能性が提唱される一方、異論も唱えられている(後述)。2001年7月19日、フランスの古生物学者ミシェル・ブリュネ(英語版)の調査チームによって最初の発見が成され(トゥーマイの発見)[4]、翌2002年に記載された。 名称[編集] 学名[編集] 学名のうち、属名 Sahelanthropus は、出土地が属する東西に広がる地域の英語名 Sahel(サヘル)と、「人間、人」を意味する古代ギリシア語 ἄνθρωπος(ラテン翻字:ánthrōpos

    サヘラントロプス - Wikipedia
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    tk18 2024/04/11
    >サヘラントロプス・チャデンシス(S. tchadensis)1種のみが知られている。最古の人類である可能性が提唱される一方、異論も唱えられている
  • 小寺氏 - Wikipedia

    小寺氏(こでらし)は、日の武家氏族の一つ。 播磨の守護大名・赤松氏一門宇野氏の庶流であり、姫路城のち御着城を拠として勢力を伸ばした[3]。 歴史[編集] 出自から室町時代まで[編集] 小寺氏は、赤松氏の祖である赤松頼範の四男将則を遠祖として、将則の曾孫宇野頼定(うのよりさだ)の次男頼季(よりすえ)が小寺氏を称したと伝えられている。一説に小寺氏は同族の宇野氏の婿養子として入ったともいう。頼季には二子があり、頼秀の流れは美作国岩屋城主を務め、景治(かげはる)の流れは播磨国姫路城主を務めた。後者は事実上小寺家の宗家として扱われており、景治は南北朝時代における正平12年(1357年)の八幡における戦いで戦死しており、『太平記』にもその名が見えている。赤松円心の次男・貞範は、播磨国の姫山に城を築いた。これがのちの姫路城であり、同城は代々小寺氏が守り、姫山城と呼ばれた。 嘉吉元年(1441年)、赤

    小寺氏 - Wikipedia
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    tk18 2024/02/23
    >小寺氏は、赤松氏の祖である赤松頼範の四男将則を遠祖とし
  • 山名氏 - Wikipedia

    山名氏(やまなうじ、やまなし)は、武家・華族だった日の氏族。山陰地方を中心に勢力を持った守護大名・戦国大名だったことで知られる。江戸時代には交代寄合だったが明治維新後に但馬国村岡藩を立藩して大名となり、華族(男爵)に列した。 歴史[編集] 鎌倉時代[編集] 山名氏の姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁・鎮守府将軍・源義家の子・義国を祖とする名門・新田氏の一門。新田義重の庶子・三郎義範[1](または太郎三郎とも)が上野多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)を貫として山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称した。 山名氏の祖の義範は鎌倉時代には早くから源頼朝に従って御家人となり、頼朝の知行国(関東御分国)の一つである伊豆の国主に推挙され伊豆守となる。源伊豆守の公称を許され源氏の門葉として優遇された。逆に家の新田氏は頼朝へ参上することが遅れたこともあり、門葉にな

    山名氏 - Wikipedia
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    tk18 2024/02/12
  • 源方子 - Wikipedia

    源 方子(みなもと の まさこ、治暦2年(1066年) - 仁平2年3月21日(1152年4月27日))は、中納言藤原長実の。村上源氏。父は堀河左大臣源俊房。美福門院藤原得子(鳥羽天皇皇后・近衛天皇生母)の母。 長承2年8月19日(1133年9月19日)に夫長実と死別した後、翌年出家して越後尼公と呼ばれた。久安2年10月4日(1146年11月9日)、正一位に叙する詔書、位記及び下記の宣命を受けた。生前における正一位叙位は史上6人目で、以後700年余りにわたって例がなかった。娘の藤原得子が鳥羽法皇の寵愛を受けていたこと、永治元年(1141年)に孫の体仁親王が近衛天皇として即位したことなどが正一位就任の理由であった(聖武天皇の母親の藤原宮子が生前に正一位を叙位していた前例も、この生前叙位の要因の一つとなったと考えられている)。 源方子 叙正一位宣命 出典:「朝世紀」 天皇我詔旨良万止、宣勅

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    tk18 2024/01/29
    正一位
  • 藤原道兼 - Wikipedia

    藤原 道兼(ふじわら の みちかね)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男。官位は正二位・関白右大臣、贈正一位・太政大臣。 概要[編集] 寛和2年(986年)外孫の春宮・懐仁親王の即位を願う父・藤原兼家の意を受けて、蔵人として近侍していた花山天皇を唆して出家・退位させる(寛和の変)。代わって懐仁親王が践祚(一条天皇)すると外祖父の兼家は摂政となり、道兼も栄達した。兼家が没すると長兄・道隆が関白となり、道兼は摂関を継ぐことはできなかったが、内大臣次いで右大臣の高官に昇った。長徳元年(995年)道隆の病死後、道兼が関白に就任。就任の数日後に病没したため、七日関白とも呼ばれる。 経歴[編集] 円融朝の天延3年(975年)叙爵し、天元2年(979年)侍従に任官する。永観2年(984年)正月に五位蔵人に補せられると、8月に新たに花山天皇が践祚するも道兼は引き続き蔵人を務め

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    tk18 2024/01/07
  • 称徳天皇

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    tk18 2023/12/17
    聖武天皇の娘。孝謙天皇重祚。
  • 寛和の変 - Wikipedia

    寛和の変(かんなのへん)とは、寛和2年6月23日(986年7月31日)に発生した花山天皇の退位・出家及びそれに伴う政変のこと。 概要[編集] 花山天皇は即位後、外戚(叔父)である藤原義懐らの補佐を受けて新政策を展開していったが、 寛和元年7月18日(985年8月7日)、寵愛していた女御・藤原忯子の急死とともに出家を考えるようになった。皇太子・懐仁親王(後の一条天皇)の外祖父であった右大臣・藤原兼家は孫である皇太子の即位と自らの摂政就任を早めるために、天皇の退位・出家を画策、蔵人として天皇に仕えていた次男・藤原道兼に対して天皇に出家を勧めさせた。 寛和2年6月23日の明け方、天皇は道兼の勧めに従って内裏を出て山科の元慶寺に向かった。これを確認した兼家は清涼殿に残された三種の神器を皇太子の居所である凝花舎に移し、内裏諸門を封鎖した。藤原義懐が事態を知った時には既に天皇は元慶寺において出家を済ま

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    tk18 2023/12/15
  • 大野治長 - Wikipedia

    大野 治長(おおの はるなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。通称は修理亮または修理大夫で、大野修理の名でも知られる。 能書家であり[3]、古田重然(織部)に茶の湯を学んだ茶人でもあった[4][5]。 生涯[編集] 不確かな前歴[編集] 父は大野定長(佐渡守)で、母は大蔵卿局といい、浅井長政とお市の方の娘である淀殿の乳母となったので、淀殿とは乳母子(めのとご)の間柄になる。淀殿の生年には諸説あるが、この経緯から考えれば、治長は同い年かそれに極めて近い年齢と考えられるので、最も有力なのは永禄12年(1569年)前後であろう。兄弟には、治房(主馬首)、治胤(道犬/道見)、治純(壱岐守)[注釈 2]がいた。 出生地には二説あるが、『尾張群書系図部集』は『尾張志』『張州雑志』などを根拠に、丹後国丹後郡大野村[注釈 3]で生まれたとする説の方を誤伝として[注釈 4

    大野治長 - Wikipedia
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    tk18 2023/12/06
    大野修理
  • 「島津、毛利の隣に徳川、松平が座っているクラスで歴史の授業」学習院のエピソードがおもしろすぎる

    リンク AERA dot. (アエラドット) 徳川宗家現当主 「旧大名家の子孫が多い学習院の歴史授業は難しい」 | AERA dot. (アエラドット) 学校の授業でも習う戦国武将のなかには、今でも子孫が残り家を継いでいるケースがある。天下統一した徳川家もそのうちのひとつだ。徳川宗家第18代当主、徳川恒孝(つねなり)氏がその暮らしを明かした。 369 users

    「島津、毛利の隣に徳川、松平が座っているクラスで歴史の授業」学習院のエピソードがおもしろすぎる
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    tk18 2023/10/02