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哲学に関するtokuninacのブックマーク (13)

  • http://www.p.u-tokyo.ac.jp/~waskana/

  • 「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい|ふろむだ@分裂勘違い君劇場

    「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい 『たまたま「これがニーチェだ(永井均)」を読んでいたら「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにニーチェがどう答えたかという話があったので一部引用してみます。』 という小野ほりでいさんのツイートに対し、「ニーチェの答えがすごい」というコメントがいくつも寄せられています。 その小野ほりでいさんのツイートで引用されたのは永井均『これがニーチェだ』の以下の部分です: この問いに不穏さを感じ取らずに、単純素朴に、そして理にのみ忠実に、答える方途を考えてみよう。相互性の原理に訴える途しかないー きみ自身やきみが愛する人が殺される場合を考えてみるべきだ。 それが嫌なら、自分が殺す場合も同じことではないか、と。だが、この原理は、それ自体が道徳的原理であるがゆえに、究極的な説得力を持たない

    「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい|ふろむだ@分裂勘違い君劇場
    tokuninac
    tokuninac 2021/11/03
    定期的に話題になるやつだ。全然言いたいことと違うのに都合よく引用されて本来の趣旨はその先にあるっていう
  • 帰納 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2023年8月) 帰納(きのう、英: Induction、希: επαγωγή(エパゴーゲー))とは、個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法のこと。演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない。 なお数学的帰納法・構造的帰納法・整礎帰納法・完全帰納法・累積帰納法(英語版)・超限帰納法などの帰納法は、名前と違い帰納ではなく演繹である。 一般的にいって帰納は、あくまでも確率・確度といった蓋然性の導出に留まる。例えば、「ネコaはネズミを追いかける」「ネコbはネズミを追いかける」「ネコcはネズ

    帰納 - Wikipedia
  • その日を摘め - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "その日を摘め" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年12月) carpe diem (その日を摘め)と書かれた日時計 その日を摘め(そのひをつめ、ラテン語: Carpe diem、カルペ・ディエム)は、紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する語句。「一日の花を摘め」、「一日を摘め」などとも訳される。また英語では「seize the day」(その日をつかめ/この日をつかめ)とも訳される。ホラティウスは「今日という日の花を摘め」というこの部分で、「今この瞬間を楽しめ」「今という時を大切に使え」と言おうとし

    その日を摘め - Wikipedia
    tokuninac
    tokuninac 2021/05/14
    カルペディエム 風が連れてきそう
  • 砂山のパラドックス - Wikipedia

    砂山から砂粒を取り去っても依然として砂山のままだが、それから何度も取り続けて最終的に一粒だけが残った時に、その一粒だけを指して「これは砂山である」と言えるのか。 砂山のパラドックス(すなやまのパラドックス、英: paradox of the heap)は、述語の曖昧性から生じるパラドックスである。古典ギリシア語で"heap"を意味する「ソリテス」(σωρίτης、sōritēs)にちなんで[注釈 1]、ソリテス・パラドックス、ソライティーズ・パラドックス(英: sorites paradox)とも呼ばれる。 定義や境界値が明確でなく曖昧な概念をどう扱うかという問題であり、主に論理学の哲学・言語哲学において問題になる。というのも、論理学や数学などの科学においては、全ての概念が明確でなければならず、通常の方法では曖昧な概念を扱えないからである。 歴史とバリエーション[編集] このパラドックスの

    砂山のパラドックス - Wikipedia
    tokuninac
    tokuninac 2021/05/11
    ハゲ頭のパラドックス…不毛だな
  • ヘンペルのカラス - Wikipedia

    ヘンペルのカラス (英: Hempel's ravens) とは、ドイツのカール・ヘンペルが1940年代に提出した、帰納法が抱える根的な問題(「帰納法の問題(英語版)」)を喚起する問題である。「カラスのパラドックス」とも呼ばれるが、パラドックスとして扱うべきかどうかには異論もある[1]。 「ヘンペルのカラス」は「全てのカラスは黒い[注釈 1]」という命題を証明する以下のような対偶論法を指す[1]。 「AならばBである」という命題の真偽は、その対偶「BでないものはAでない」の真偽と必ず同値となる[2][3][4]。全称命題「全てのカラスは黒い」という命題はその対偶「全ての黒くないものはカラスでない」と同値であるので、これを証明すれば良い[2][3]。そして「全ての黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがないことをチェックすれば証明

    ヘンペルのカラス - Wikipedia
    tokuninac
    tokuninac 2021/02/08
    “黒くなくカラスでない(カラスミ)”ちょいちょい面白いな
  • 誤謬 - Wikipedia

    論理学における誤謬(ごびゅう、英: fallacy[注 1])とは、誤った推論のことである。平易には「論理の飛躍」などと表現される。誤謬には「形式的」なものと「非形式的」なものがある。論理学やその周辺分野では、結論の正否を問わず「誤謬」という。意図的な誤謬は「詭弁」という。 概説[編集] アリストテレスのころから、非形式的誤謬はその間違いの根源がどこにあるかによっていくつかに分類されてきた。「関連性の誤謬」、「推論に関する誤謬」、「曖昧さによる誤謬」などがある。同様の誤謬の分類は議論学によってももたらされている[2]。議論学では、論証(論争)は合意を形成するための個人間の対話プロトコルとみなされる。このプロトコルには守るべきルールがあり、それを破ったときに誤謬が生まれる。以下に挙げる誤謬の多くは、このような意味で理解可能である。[要出典] 個々の論証における誤謬を認識することは難しい。とい

    誤謬 - Wikipedia
    tokuninac
    tokuninac 2021/02/08
    面白い記事「ごびゅう」の熟語は並列構造なんだ。
  • 素晴らしき日々 - farthesky

    『素晴らしき日々』の雑感。終ノ空IIまで一通りやってから再びDown the Rabbit-Hole STORY:Aをプレイするとかなり印象が変わって、素晴らしいなーという印象に。twitterにだいたい書いてしまったので、そのまとめ的な記事。基的に蛇足。 ウィトゲンシュタインとか "Tell them I've had a wonderful life." ―Ludwig Josef Johann Wittgenstein 『素晴らしき日々』という題名の元ネタはおそらくウィトゲンシュタインが死ぬ間際に言ったとされるこの言葉だろう。そもそもすば日々がウィトゲンシュタインの思想から大きな影響を受けている事は周知の事実なので、まずは僕に分かる範囲でウィトゲンシュタインに関連するあたりの話を。 まず、Down the Rabbit-Hole STORY:BやIt's my own Invent

    素晴らしき日々 - farthesky
  • 無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい

    ヤバい思想、と言われると皆さんが思い浮かべるのはなんでしょうか。ファシズムや全体主義?差別主義?優性思想?それとも宗教的原理主義? この世に数多ある危険思想のなかで、ユダヤ人哲学者・思想家のハンナ・アーレントが最も重大視したのは「無思想」でした。 無思想、ノンポリ、無宗教…という「無属性」なステータスを自認していることは私たちの国では取り立てて珍しいものではありません。実際、多くの人は自分は「偏った考え方」に染まっておらず、「普通の感覚を持った/普通の日人」であるというふうに考えています。よく異文化から揶揄されるように私たちは、「他の人と違う」ことに漠然とした恐怖を持っており、「普通であること」、そして「特定の立場や意見を主張しないこと」によって他の人たちとの温かい連帯関係の中に存在できます。 しかし実のところ、この「自分は普通の感覚を持っている」という自認こそが危険な状態だ、というのが

    無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい
  • 【弁証法】アウフヘーベンしようぜ!今さら聞けない弁証法の基礎|P+D MAGAZINE

    「弁証法」や「アウフヘーベン」といった哲学用語の基礎知識をおさらいするとともに、近代小説の雛形を作った「教養小説」の中でそれらの要素がどのように取り入れられているのか、現代小説との比較も交えて解説します! 2018/05/25 皆さんは年配の上司と会話している時に「弁証法」や「アウフヘーベン」という単語が出てきて当惑した経験はありませんか? そんな時、 「確かに、この局面ですと弁証法的に考えることが重要ですよねー(なにそれ?)」 「ああ、アウフヘーベンですね。よくわかります(……ヨーロッパのお菓子かな?)」 ……といったような、知ったかぶりの相槌をいれてしまってはいないでしょうか? 「弁証法」、「アウフヘーベン」、いずれも哲学用語なのですが、岩波文庫などを片手に西洋人文学の古典を議論し、教養を身につけることが“クール”だった昭和の時代には、知性をアピールするためにはこれらの哲学用語を使いこ

    【弁証法】アウフヘーベンしようぜ!今さら聞けない弁証法の基礎|P+D MAGAZINE
  • WEB連載:失われた未来を求めて 木澤佐登志 / 第3回 ジョーカー、あるはずだった未来の不在

    「未来はわれらのものだ」と言いながら死んでいったサン=シモン、「未来を構築しなければならない」と言いながら自殺していったマーク・フィッシャー、そして「未来はここで終わる」と言ったリー・エーデルマン――。ルイス・キャロルは暗室の中で少女たちの写真を現像し、カール・マルクスは大英図書館で来るべき革命のための書を執筆する。これは、未来と子どもたち、近代と脱近代、革命と反動、19世紀と20世紀、ユートピアとディストピア、メランコリーとノスタルジー、テクノロジーとオカルティズム、そして失われた未来に捧げるエッセイである。 『ダークナイト』(2008)はテロリズムの映画だったが、『ジョーカー』(2019)はポピュリズムの映画だ。 『ダークナイト』のジョーカーは、平穏な市民生活を脅かすサイコパスのテロリストとして描かれていた。この映画が公開された2008年といえば、9・11というトラウマが未だに長く尾を

    WEB連載:失われた未来を求めて 木澤佐登志 / 第3回 ジョーカー、あるはずだった未来の不在
  • テセウスの船 - Wikipedia

    この項目では、パラドックスの「テセウスの船」について説明しています。東元俊哉の漫画およびそれを原作としたテレビドラマについては「テセウスの船 (漫画)」をご覧ください。 テセウスの船(テセウスのふね)はパラドックスの一つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題(同一性の問題)をさす。

  • スワンプマン - Wikipedia

    スワンプマン(Swampman)とは、1987年にアメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンが考案した思考実験。思考などの心の状態や発話の内容を主体がその時とっている内的な状態だけでなく、来歴にも依存するものとして捉える彼の理論への可能な反論として提唱された[1]。ルース・ミリカンの目的論的意味論などの同じく歴史主義的・外在主義的な志向性や内容の理論への反例としても論じられる[2]。スワンプマンとは「沼 (Swamp) 」の「男 (man) 」という意味の英語。 思考実験の詳細[編集] ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。 この落雷によって生まれた新しい存在のことを、

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