ブックマーク / hontodeai.hatenablog.jp (12)

  • 第58回 「地域に学び、地域とかかわる①」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    モンゴルでのフィールドスタディを実施しはじめてはや10年が経とうとしているが、私でかつて悩んだように、そして今でも悩むことがあるように、「地域に学ぶ」姿勢を学生に伝えるのは容易なことではない。私たちは異郷に足を踏み入れるとき、どうやっても色眼鏡を外すことはできない。世界のあらゆる文化には独特の価値があり、そこに優劣はない。いわゆる文化相対主義の考え方は、大学生であれば多少なりとも理解しているはずだろう。それでも、先進国と途上国、豊かな地域と貧しい地域、近代社会と伝統社会といった枠組みに頼って思考を組み立てようとする学生はたくさんいる。そうではなく、フィールドで体験したことをそのまま受け止め、自分とのかかわりのなかで現実を考えるわざを身に着けてほしい。そのために大切なのが、フィールドで出会う人の声に真摯に耳を傾けることなのだ。 伝説と今 第56回連載で紹介したように、ウブルハンガイ県遊牧環境

    第58回 「地域に学び、地域とかかわる①」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと
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    torus1 2020/01/16
  • 第56回 「オンギー川で出会った人びと②―モンゴルの環境(みらい)に向けて」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    ▼前回の記事はこちらです 研究者としてニンジャとかかわる 現代を生きるために必要な金を得るため、敬うべき自然を自らの手で汚すことに苦しみつつニンジャとなる人たち。彼らとの出会いは、私が思いもしなかったモンゴルの実像を知らせるものだったが、同時にその後モンゴル国に深くかかわっていくきっかけともなった。ようやく民主化を果たして市場経済化の道を歩み始めたモンゴル国にとって、それは避けて通ることのできない課題だと思えたからである。 ニンジャとは、豊かさと引き換えに激しい競争の原理をも招き入れたモンゴルの縮図である。経済的発展だけを追い求める流れを変えなければ、ニンジャはとめどなく増え続け、モンゴルの社会はいつか決定的に分断されてしまう。変化はあまりにも激しかったが、法律や政策による対応を見る限り、それだけで流れを止めることはできそうになかった。調べれば調べるほど、私自身も何かしなければならないとい

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    torus1 2019/12/05
  • 第55回 「オンギー川で出会った人びと①――ラマと“ニンジャ”の祈り」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    開発と伝統 2006年の冬、金沢に住む知人から紹介され、神戸外国語大学で学ぶモンゴル国からの留学生と知り合った。バヤサさんというその女性は、モンゴルでもとりわけ遊牧が盛んなウブルハンガイ県の出身で、ラマ(チベット仏教僧)のおじいさんに育てられたという。この連載でも紹介したように、私の祖父もラマとして修業した人だったが、文化大革命の時代に無理やり還俗させられていた。私はバヤサさんのおじいさんに会ってみたくなり、次の里帰りに同行するかたちで彼女の故郷に連れて行ってもらう約束をした。 バヤサさんとともにウブルハンガイ県を訪れたのは、翌年の夏休みだった。豊かな降水に恵まれたこともあり、バヤサさんのおじいさんが暮らす草原は鮮やかな緑に染まっていた。おじいさんは羊を一頭つぶして歓迎してくれた。一緒に近くの丘に登ると、遠くに草原を貫いて流れる川が見える。オンギー川というらしい。美しい名前だ。オボー(積み

    第55回 「オンギー川で出会った人びと①――ラマと“ニンジャ”の祈り」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと
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    torus1 2019/11/15
  • 第52回 「シベリアへ④」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    ▼前回までの記事はこちらです コトゥイ川流域でトナカイを飼うエヴェンキ人とともに過ごした10日間は、まさに夢のような時間だった。中国語の夏季集中講義を引き受けていたため一旦は後ろ髪を引かれる思いでクラスノヤルスクに戻らねばならなかったが、夏休みの間にもう一度エヴェンキ人のもとへと赴きたい。私は正直な気持ちを履修生たちに打ち明け、秋学期が始まってからの土曜日に授業時間を振り替えるかわりに、集中講義の期間を短縮してもらうことにした。学生たちは快く応じてくれ、新学期が始まるまでの約1か月間を、再度の調査に充てることができた。 床に広げたシベリア地図とまる1日にらめっこし、今度の目的地は中央シベリア高原を流れるレナ川流域に定めた。レナ川流域の自然はツンドラから草原までさまざまだが、全域にわたってエヴェンキ人が暮らしている。土地ごとの環境に合わせてどのような生活を組み立てているのか、その広がりを見て

    第52回 「シベリアへ④」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと
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    torus1 2019/09/13
  • 第49回 「シベリアへ②」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    ▼前回の記事はこちらです ロシア語の壁 シベリア鉄道の旅を終え、いよいよクラスノヤルスク大学での留学生活が始まった。住まいは学生寮ではなく、ホームステイを希望した。これまで中国語や日語を学んできた経験から、新しい言葉を学ぶには、現地の人と接する時間をたくさんとれる環境に身を置くことが何よりも大事だと考えていたからだ。幸いなことに、日語講師の金子さんの紹介を受けて、外国語学部で秘書をつとめるリリヤさんの自宅でホームステイをさせていただく手筈が整っていた。 リリヤさんと2人の娘さんが暮らすアパートはクラスノヤルスク市内中心部にあったので、郊外にある大学まではバスに揺られて通う。車窓から眺める街並みは日中国の都市とはずいぶん異なり、少し滞在したことのあるドイツともどこか雰囲気が違う。アジアとヨーロッパをつなぐ歴史が反映されているようで、見ていて飽きることがない。しかし、窓の外にお洒落な建

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    torus1 2019/08/01
  • 第43回 「森と草原を書く」   - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    夢と現実 大興安嶺での調査から帰国し、半月ほどが経った頃だったと思う。ある夜、祖父の夢を見た。祖父と私はモットオブルジェー(森にある冬のキャンプ地)にいた。初夏を思わせる日差しと風のもと、祖父はアルグ(牛糞を拾うための道具)をつくるための素材となる柳の枝を探し、私はすばしっこく逃げ回るニャクトル(うずら)の雛を追いかけていた。ニャクトルの羽毛は砂漠と同じ色で、一度見失ってしまうと再び見つけるのは難しい。シャブグ(マメ科の種物)の根元近くに隠れている一羽の雛から目を離さず凝視していると、祖父から「見るだけにしなさい、触ってはダメだよ」と声をかけられた。よく観察してみれば、雛は怯えるように震えていた。その姿を見てなぜだか怖くなり、私は祖父のもとに走って逃げた。 目が覚めて少し気が落ち着いてから、ふと長いあいだ故郷のことを忘れていたのかもしれないと気づいた。祖父はときどき夢に現れては、コンシャン

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    torus1 2019/05/30
  • 第42回 「論文を書くこと、自分と闘うこと②」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    エヴェンキ人とは誰か、民族とは何なのか なんとか2年間で修士課程を卒業し、1998年の春からは博士課程に進学することになった。進学先に迷うことはなく、文化人類学と出会うきっかけを与えてくれた金沢大学文化人類学研究室を志望した。 修士論文をまとめる過程ではフィールドワークがまだまだ不十分だったということを実感させられていたため、博士課程に入ってすぐの夏休みには再び大興安嶺へ調査に赴いた。調査中にお世話になった人たちに修士論文が無事完成したことをきちんと報告し、内容を伝えたいという気持ちもあった。 1年ぶりに訪れたオルグヤ村では、バラジェイさん、ゲリンスカさん、ウェジャ、コウサンなど懐かしい顔ぶれが迎えてくれた。しばらくすると私が修士論文を書いたことが噂になったらしく、周辺のキャンプ地からも次々と人がやってきては何を書いたのか聞かせてくれとせがまれるようになった。現地の人たちの意見を聞こうと思

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    torus1 2019/05/24
  • 第38回 「初めてのフィールド調査①」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    フィールドワークの難しさ 1996年の夏8月から9月にかけて、かつて今西錦司たち人類学の大先達が旅した大興安嶺を訪れることになった。夏休みに入ってからもアルバイトに励んでお金もなんとか工面でき、いよいよ初めてのフィールドワークを待つばかりとなった。大興安嶺はオロチョン人とエヴェンキ人の居住地域に跨っていたが、どちらの民族が暮らす地域に行くべきか。また、現地では誰を頼ったらよいのか。調査計画の細かいところでは詰めきれない部分を残したまま出発の日を迎えてしまったが、なんとかなるだろうと腹をくくるほかなかった。 現地の情報収集を兼ねて、まずは内モンゴルのフフホトで1週間ほどを過ごすことにした。来日以来3年ぶりの帰郷だった。さらに資料を集めるため北京にも立ち寄り、手始めに少数民族の研究者が集まる中央民族大学でエヴェンキ人やオロチョン人を専門とする研究者を探すことにした。夏休みだったので教員のほとん

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    torus1 2019/04/19
  • 第36回 「民族誌を読む」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    恵まれた研究環境 1996年、金沢大学文化人類学研究室修士課程には私を含め6人の学生が入学した。ひと学年上の金子さんと泳さん、博士課程の先輩方のほか学部生のうち何人かもよく研究室に来ており、研究室はいつも賑やかだった。集中してワープロとにらめっこしている人もいれば、お茶を飲みながらお喋りをしている人もいる自由な雰囲気で、新入生の私にとっても居心地がよかった。近所のスーパーで材やお酒を買ってきて事をつくることもしょっちゅうで、先生や先輩とも和気あいあいと交流するうちすぐに親しくなれた。世界中の話題が飛び交う研究室は、身を置いているだけで常に刺激をもらうことができる場だった。 研究環境としても充実しており、鹿野先生、鏡味先生はじめ4人の先生は、研究テーマすら定まらない私にも根気よくご指導くださった。書籍の購入に際してもご自身の研究だけでなく学生の関心に気を配ってくださり、中国ロシアの少数

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    torus1 2019/04/04
  • 第35回 「異文化研究の入口に立つ」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    合格はしたけれど 1996年2月、金沢大学より文化人類学専攻修士課程試験の合格通知が届いた。約半年間集中して勉強した努力が実ってひとまずはほっとしたが、これから何を研究するのか決めないまま進学を決めてしまったことに不安も抱えていた。実は面接試験のとき、面接担当のある先生から研究テーマを尋ねられ、とっさに中国北方の少数民族に興味があると口にしていた。ところが、中国北方にはいくつかの民族が暮らしているが研究対象はどの人々にするのかと問い返され、答えに窮してしまったところを鹿野先生にフォローしていただいたのだった。他の受験生は学部生の頃から人類学を学んできたようで、それぞれ関心地域やテーマを定めていた。桜が咲く季節を前にして、スタート地点から遅れをとっていることに焦りは募るばかりだった。 経験からテーマを探る 人類学を通じて、私自身はいったい何を研究したいのか。自問自答を繰り返していたある日、ふ

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    torus1 2019/03/28
  • 第34回 「文化人類学との出会い④」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    人類学の理論とマルクス主義 夏休みに調査実習での数日間をともに過ごし、私自身は寄稿できなかったものの、報告書作成のための打ち合わせにも欠かさず出席したことで、文化人類学教室の先生方や学生たちとの距離は以前に比べずいぶん近づいたという実感があった。研究室でも雑談に加わることが多くなり、大学院受験についての質問や相談も気軽にできるようになった。実習に参加した学生たちの多くはそこでの経験をもとに卒論のテーマを決め、なかには個人で調査に向かう人もいたようだったが、私は受験勉強で手一杯で、将来の研究について考える余裕はまだなかった。 秋から冬にかけて、私はひたすら受験に向けてテキストや基礎文献を読み、研究室の学部生や先輩たちとの交流からも人類学についての理解を広げようと努めた。なかでも、この頃に先輩から推薦されて読み始めた『文化人類学15の理論』(中央公論社、綾部恒雄(編)、1984年)は、300ペ

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    torus1 2019/03/22
  • 第2回 文盲に生きた時代①「文化大革命の経験」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと

    そもそも、なぜ私は文盲だったのか。読者のみなさんにそれを理解してもらうには、私が幼少期を過ごした頃の中国がどのような時代にあったのか、そこからまずお話しなければならない。 その頃の中国では、1966年にはじまった“文化大革命”と呼ばれる政治運動がなお吹き荒れていた。政治運動とは言うものの、それは政治の舞台だけにとどまるものではなく、多くの人々の人生そのものを搔き乱し、後世に計り知れないほど大きな爪痕を残した狂気と暴力の動乱であった。10年もの長きにわたって、中国に暮らす8億人以上の人々から宗教が奪われ、歴史の記憶と遺産が破壊され、ようやく芽生えつつあった人権や民主主義の思想もまた蹂躙された。なかんずく少数民族に対する警戒と統制は激しく、伝統的な習慣や信仰の多くが圧殺されていった。そうしたなか、私の故郷である内モンゴル自治区では、政治や学問の世界で仕事をしていた数多くの人たちが“分裂主義者”

    第2回 文盲に生きた時代①「文化大革命の経験」 - 文盲から“文明”へ―本と出会い、人類学と出会ってみえたこと
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    torus1 2018/07/12
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