不自由さや閉塞感の中に表現の根拠を見いださなければならないというのが、2000年代の日本の状況だった。表現するということの居心地の悪さが、「なぜ表現などということをするのか、そんなことにいまどのくらいの意味があるのか」と無限に自己弁明を強いるような、ややこしい時代。たとえば相対性理論ならば、作品においてもふるまいにおいてもなかば露悪的にポップ・ミュージックという枠組み自体を脱臼させることで、その居心地の悪さを踏み抜こうと試みていたと言えるだろう。 そうした無限の自己弁明に耐えられないならば、動機に関するメタな考察はいっさい放棄して、あるいは「エンターテイメント」に、あるいは「純文学」に、あるいは......といった具合に制度的なひとつの態度に開き直ることでなんとか創作行為を維持していくような消耗的な時代。ライトノベルやある種のゲーム、アニメの勢いがあったり、AKB48にうかがわれるパッケー