タグ

2022年1月18日のブックマーク (17件)

  • トップランナーよりボトムアッパー|shinshinohara

    「業界のトップランナー」という言葉をよく目にする。正直、私はあまり関心がない。もちろんトップを走り続けるには大変な努力が必要だと思う。才能も必要かもしれない。でも、それを真似ようとしたらしんどいし、そもそも才能がないと無理、というなら、私と無縁な話。参考にしようがない。 私がものすごく興味を惹かれるのは、「ボトムアッパー」(はい、たった今私が作った造語です)。才能がないと見なされていた人、育てても無理だろうと思われていた人たちが、それぞれに持てる力を発揮し始める。そういうボトムアップの活動をされている人に、強く強く魅力を感じる。 私はいくつかの幸運に恵まれて今があるが、その幸運がなければ、私はもちろん勉強しなかったし、努力しなかったし、社会で活躍することもなかっただろう。菲才の私がいささかでも活躍できたとするならば、それは幸運のおかげだといえる。 私は公立中学(しかも大阪市では成績がずいぶ

    トップランナーよりボトムアッパー|shinshinohara
  • 都構想の焼き直し 地方による許認可権限の奪取|shinshinohara

    なぜ維新はのしてきたのか? 答えは簡単なような気がして。 大阪に元気がないから。堺の商人から連なる、400年を超える商都としての誇りが、今世紀に入ってからガタガタ。これといった成長産業も見当たらず、元気がない。その中で唯一気を吐いている維新に人気が集まる格好のように思う。 もともと大阪は、政治なんかどうでもよい、という土地柄。それだけビジネスに自信があったから。江戸時代には、政都としての江戸があったとしても、商都として大阪が君臨していた。日全国のコメはいったん大阪に集められ、売買されていた。明治維新後も、大阪は産業が集積する大都市だった。 85~90年のバブルでも、大阪は「東京になんか負けるか!」という、アンチ巨人、アンチ東京としての矜持(ほこり)を持っていた。ところが90年代に徐々に衰退、2000年代に入ると目立った産業がない状態に。お笑いの吉だけ元気だったけど、これも東京に進出しち

    都構想の焼き直し 地方による許認可権限の奪取|shinshinohara
  • 選択肢の提示と男の「意地」|shinshinohara

    子どもに「~する?しない?」と問うと、娘は「する!」とたいがい返事する。しないよりした方がお得だ、そのチャンスを逃すものか、という欲張りな性格がそうした選択をさせるらしい。 他方息子は。ほとんどの場合「しない」を選択する。 推測だが、息子はともかく大人の思枠の中で動くのが嫌い。「~する?」という選択肢を大人から示された時点で、大人の想定の中に「する」が用意されてるのを感じ取る。また、するかしないかの選択肢を示されていても、言外に「する」を推奨する空気を感じ取ると、そこにも大人の思枠をかぎ取るらしい。 そこで、比較的自分の意志を示すことができる「しない」を選ぶ。しかしそれだと大人が不機嫌になる。不機嫌になるのを承知でも、自分の意志を示すことを選ぶ。「する」を問われて「する」を選んだら、自分の意志がなくなってしまう。そう考えるクセのあるのが、息子。 そんな息子を動かすのに、比較的うまくいく方法

    選択肢の提示と男の「意地」|shinshinohara
  • 仮説(理論)には適用範囲がある|shinshinohara

    人工知能の研究してる人から「僕、ポパーの反証可能性、キライなんです。人工知能が出した予想を、反証可能性がないじゃないか、っていびる教授がいて」と言われた。ああ、その気持ちわかる、と思った。その教授は反証可能性の適用範囲を間違ってる。 反証可能性は、ある程度検証が進み、妥当だと認められた仮説、つまり「理論」には必要だけど、まだ予想でしかないものに強く求めるとただの「予想つぶし」にしかならない。 病気だと症例報告というのがあるらしい。これまで知られている病気とはどうも異なるという場合、もしかしたら新しい病気かもしれない、というもの。もしかしたら二度と現れない病気かもしれない。気のせいだったかも、勘違いだったかもしれない。しかしそれを見逃したら大変なことになるかもしれない。 エビデンス出せっつったって、一件しか症例しかなければ、出しようがない。「反復数がないものはエビデンスとは言えない」なんて言

    仮説(理論)には適用範囲がある|shinshinohara
  • なぜ「ナメられる」のか|shinshinohara

    この文章書いたら、ナメられるという意見が複数寄せられた。劉備みたいにリーダーが部下に頭を下げたりへりくだったりしたらナメられるということらしい。私はそうは思わないのだが、この「ナメられる」という現象は興味深いのでちょっと考えてみたい。 https://t.co/2Hkqk8vc3O 「強いリーダー」のイメージが昨今の日では強い。部下の意見をいちいち聞かず、命令に盲目的に従わせるのが強いリーダーだと考える人は多い。けれど、部下からの忠告に耳も傾けず、愚かな命令ばかり発するリーダーの方が内心ナメられるという実態がある。強いフリすりゃいいというものでもない。 他方、部下にこびへつらうようではナメられる、というのは事実。では、劉備や劉邦はどうだったのだろう?劉備は知力も武力も、部下に勝てなかった。劉邦も同じで、かつ下品で粗野でもあり、部下からからかわれるくらいくらい。たぶんナメられてた部分もあっ

    なぜ「ナメられる」のか|shinshinohara
  • 幼児化する上司と大人の上司|shinshinohara

    人の上に立ったり親になったりすると、人間は一部幼児化する面があるらしい。 赤ちゃんは泣くことで、腹を満たすのも下の世話をしてもらうのも親にやってもらうという、自分の意のままになる時期を過ごす。ところが幼稚園・保育園あるいは小学校で。 自分の意向が全く通らない他人と出会う。やがて、他人は自分と同じような存在であり、他人を意のままに動かそうなんて無理な話なんだ、と理解する。 他人をどうこうしようなんて無理、という認識が二十年ほど続くのに、人の上に立ったり親になったりするタイミングが現れると。 他人を意のままに操れるかもしれない、という、赤ちゃんの時の欲望がまた復活する。だって、オレは部下に権力をもつ上司だもの。私はこの子の生殺与奪を握る親だもの。部下に、子どもに服従を求め、自分の存在の大きさを認めさせようと、承認欲求をぶつけたり。「どうだ、オレはすごいだろう」。 しかし来、上司や親という立場

    幼児化する上司と大人の上司|shinshinohara
  • 慎重派は臆病者か?|shinshinohara

    昨日は近所の公園で段ボールそり。てっぺんから下まで、すごいスピードで降りていくのでちょっと心配になるくらい。何度も何度も繰り返し遊んでた。 息子(小三)は慎重派だけど、こちらがせかさず、面白がって見ていたら、自分で瀬踏みしながら限界を広げていくんだな、と実感。 私も息子と同じで、慎重派だった。ただし、当時は臆病者と呼ばれていた。親戚兄弟が次々挑戦していく中、私は恐る恐る。それを臆病者と笑われ、背中を押されたり引っ張られたり。不安は恐怖に変わり、恐怖は嫌悪に変わり、「もう臆病者でいい」と開き直り、一切挑戦しなくなった。 これではいかんと父も思うようになったのか、中学生になった頃、私を急かさなくなり、まずは自分のペースで取り組み、恐怖心を取り除いてから少しずつ取り組めばいい、とアドバイス。そこから少しずつ挑戦を再開し、いろんなことを克服していった。 慎重派、臆病者でも、挑戦したくないわけではな

    慎重派は臆病者か?|shinshinohara
  • お金は労働交換券|shinshinohara

    お金は「労働交換券」。お金を渡せば誰かが働いてくれる。ただ、日の労働者の数は決まっているから、労働力の総量は増えない。だからお金を増刷し「たくさん払うぞ、さあ働け」と言っても、労働の結果生まれる製品やサービスの総量はあんまり増やせない。提供できる労働量に限りがある。 民間ばかりに任せておくと、儲けになりにくい、手間ばかりかかる仕事に手を出そうとせず、手っ取り早く儲かる仕事ばかりやろうとしてしまう。そこで政府は、税金という形でお金を集め、国民が生きていくために必要なインフラやサービスに労働者が集まるよう、「労働交換券」を配る。 年を取ると、自分のことさえなかなかできなくなる。手助けとなる労働力が必要。しかし年寄りがお金を持っているとは限らない。途中で貯蓄を使い果たしてしまうことも。そこで税金だとか保険料という形でお金を集め、介護などの分野に「労働交換券」を送り込む。それによって労働者を確保

    お金は労働交換券|shinshinohara
  • 願望のタネを蒔く|shinshinohara

    息子(小三)の箸の持ち方は少し変。箸がクロスしてる。 時折、正しいとされる箸の持ち方に挑戦してるようだけど、「まだ手指が小さい間はムリだよ。中学生くらいになってからかなあ」と言っている。 この声かけには一応、狙いがある。 今すぐ直せ、と周りがヤイノヤイノ言うと子どもは意固地になり、むしろ「何が正しい箸の持ち方だ!」と反発して、大人になっても箸の持ち方を改めなくなる可能性が高くなる。 「中学生になってからでいいよ」と言うと、子どもはアマノジャクだから、中学生になるまでにできるようになりたくなる。 それに、中学生というのは思春期に入り、異性からどう見えるかが気になるお年頃。箸の持ち方を改めること自体に嫌気がさしていなければ、子どもは知らないうちに直そうとする。 中学生になるまでに箸の持ち方を改められたらな、という願望のタネだけ蒔いとけば十分。 それに実際、いわゆる正しい箸の持ち方は、小さな手指

    願望のタネを蒔く|shinshinohara
  • 自己、自己、自己、自己、意識しすぎ|shinshinohara

    この記事で自己肯定感の話題に疑問を呈したけど、私はそのほかの自己効力感とか自己省察とか自己の確立とか、自己自己自己自己してるのに前から違和感がある。 私はソクラテスの「汝自身を知れ」とばかり、自己省察を繰り返した結果、「私はタマネギである。むいてもむいても何もない」と感じた。 https://note.com/shinshinohara/n/nc2258df2a312?s=09 それは「自己」だけの話だけではない。たとえば鉄をどうやって理解するか。触るとヒンヤリ、夏日に当たるとヤケドしそう、刀、トンカチ、クギ、溶けると赤く光る、さびやすい、銀色、赤錆、電気を通す、磁石にくっつく。鉄を理解するには、鉄以外との出会いを観察するしかない。 鉄を取り巻く鉄以外のものとの出会い方を見て、おぼろげに私たちは「鉄とはこんなものだ」をおおよそ理解する。概念(おおむねの意味)とはよく言ったもの。鉄以外との関

    自己、自己、自己、自己、意識しすぎ|shinshinohara
  • 教科書はなぜ学び終えた人間には素晴らしく見えるのか、なぜ予習には不向きなのか|shinshinohara

    私は受験勉強に関しては教科書主義。参考書は特定のもの以外は手を出さない、問題集に至っては手を出すな、という指導スタイル。教科書はいろいろ批判されるけど、後から振り返るとこんなに見事にコンパクトに必要十分な内容を網羅してるものがないから。 でも、「後から」って? よく子供時代には「予習復習をしっかりやりましょう」と先生や大人たちから言われた。自ら勉強するようになった私は、何度も予習にトライしたが、歯が立たなかった。ワケわからん。何も理解できない。これならまだ理解の浅い分野の復習をした方がマシ。結局、予習の習慣は全くつかなかった。 授業を聞いてようやく理解の筋道が見え、でも授業を聞いただけでは筋道をたどるだけで精一杯なので、家に帰ってから今日聞いた内容を反芻し、「あ、なるほど、そういう意味だったのか」と、ウシのような反芻動物的な学習をしていた私は、完全に復習型。 でもなんか不思議。 なんで教科

    教科書はなぜ学び終えた人間には素晴らしく見えるのか、なぜ予習には不向きなのか|shinshinohara
  • 「自己の確立」という呪い|shinshinohara

    以前、「ためしてガッテン」で、慢性痛に対し面白い治療法が紹介されていた。回覧板(クリップボード)。 痛み、と書いた紙を挟んだクリップボードを患者に見せ、「これを痛みだと思って、力づくで痛みを押さえ込んで下さい」と伝える。クリップボードを押さえる患者、裏から押し返す医者。 「もっと強く!ふだん、慢性痛に対して思ってる願いのように!」患者は力いっぱい押す。負けじと押し返す医者。 ある程度経ったとき、「どうですか?」と医者が聞くと、患者は「疲れてきました」。「どうしますか?」「痛みを抑えようなんて思わず、他の景色でも見た方がマシですね」 この治療(?)を受けると、多くの患者が快方に向かうという。痛みはあるにはあるのだけど、痛みばかりを見つめるのをやめ、目の前の景色や出来事に気を逸らすしかないと観念したら、時折痛みを忘れられるくらいの気にならないものになっていくらしい。 どうやら、慢性痛の中には、

    「自己の確立」という呪い|shinshinohara
  • 「自分を信じる」より「自分はだいたいこんなもん」|shinshinohara

    自分を信じるとか、believe myselfとか、よく歌でも出てくる言葉。 実は私にはよくわからない。私は「信」と名付けられたからか、信じるって何だろう?ということをずっと考えてきたのだけど、自分のことを大して信じてない。サボりだし、卑怯だし、すぐ善人ぶるし、よく忘れるし。 若い頃、「何でいつもオレはこうなんだ!バカたれ!」「あー!また!前に二度とやらないって心に誓っただろうが!」と、自分を罵ってばかりだった。 三十代に入ってしばらくして、「うん、むり」となった。自分は欠点だらけなんだ。欠点のない人間のフリなんかしたってしゃーない。 等身大の自分を素直に認めるようになってようやく、ラクになってきた。欠点がないフリをしなくなったことで、欠点のところに仮想上の長所があるかのようなムリをしなくなった。すると変な失敗がない。変に自分を否定せずに済むようになったことで、逆に自分の強みも素直に認めら

    「自分を信じる」より「自分はだいたいこんなもん」|shinshinohara
  • 上級者が教え下手なのはムダを排除するから?|shinshinohara

    勉強ができる人、プロ野球選手、ピアニストなど、その道を極めた人たちが必ずしも教えるのが上手いといえないのはなぜだろう?もしかしたらムダのない教科書のごとく、膨大な経験から抽出されたエッセンスだけを教えようとするからではないか。ムダを排除して教えようとするからではないか。 深層学習(機械学習)を取り入れるようになった人工知能では、これまで無駄だとされてきた失敗を大切な学習内容だと捉えている。ロボットアームにものをつかませる学習では、うまくつかめなくて落とすという体験も大切にする。成功の周辺も学ぶことで初めて成功の輪郭が浮かび上がるから。 昔は、職人が長年の経験から抽出した無駄のない動きをロボットアームに学ばせるというやり方をとっていた。しかしこうした学習だと、成功以外のことができない。少し箱の角度が違っていただけでもう何をしたらよいのかわからなくなっていた。しかし深層学習だと。 膨大な失敗体

    上級者が教え下手なのはムダを排除するから?|shinshinohara
  • 「暴君」董卓と、織田信長とのわずかな類似性とは? | 歴史人

    飛鳥時代の日にまで伝わったその悪名 中国大陸の長い歴史上には「暴君」と呼ばれる人が何人も存在した。「酒池肉林」の殷(いん)の紂王(ちゅうおう)、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)などはその代表格と評される。 三国志の「暴君」といえば、真っ先に名前があがるのが董卓(とうたく)だ。その悪名ぶりは、蘇我入鹿(そがのいるか)が「董卓のようだった」と8世紀の『藤氏家伝』で批判されたほど知られていた。小説『三国志演義』の完成より、500年ほども前である。 出身は涼州(りょうしゅう)という西部の辺境地域で、若いころの彼は、親分肌で気前の良い人として知られていた。得た報酬をすべて部下に分け与え、遊牧民である羌(きょう)族の顔役たちとも親しく交流するなど人望も厚かった。 馬術に長け、腕力も強く、馬上から左右の手で両側に弓矢を射るというケタ外れの武技も持っていた。後年になるが、伍孚(ごふ)に短刀で刺されそうに

    「暴君」董卓と、織田信長とのわずかな類似性とは? | 歴史人
  • Redirecting

  • お金の価値が1年で半分に減った国 | NHK | ビジネス特集

    三日月と星があしらわれた赤い国旗、飛び交うカモメ。 ここはボスポラス海峡を挟んでアジアとヨーロッパにまたがる中東の国、トルコ。日人にもなじみ深い最大都市イスタンブールで、知る人ぞ知るローカルフードが「サバサンド」です。 訪れた人の中には、焼きサバと生タマネギの、シンプルな組み合わせのとりこになった人もいることでしょう。 私が赴任した去年7月には、1つ12リラ(当時のレートで150円ほど)でした。ところが、年末には30リラに値上がり。 サバの輸入価格が上昇したためだといいます。

    お金の価値が1年で半分に減った国 | NHK | ビジネス特集