東北大災害科学国際研究所などは11日、仙台市青葉区の同研究所で、「東日本大震災アーカイブ国際シンポジウム」を開き、震災に関する文書や映像を後世に残す意義と課題を話し合った。 全国の地方自治体や研究機関から約180人が参加。2004年に起きたスマトラ沖地震の記録を収集、公開するインドネシア・アチェ津波博物館のトミー・ムリア・ハサン館長が講演した。 ハサン氏は博物館の役割として(1)防災教育(2)アチェ文化の伝承(3)避難ビル-の三つを挙げ「博物館が全ての記録を所有するのではなく、多くの人が記録を共有し、記録にアクセスできることが大切だ」と強調した。 宮城県と八戸市、千葉県浦安市がそれぞれ進めるアーカイブ事業に関する現状報告もあった。八戸市の担当者は「現在のアーカイブ利用件数を気にするよりも、いざ必要になったとき、より多くの資料を公開できているようにしたい」と述べた。
豊郷町立豊郷小学校の旧校舎から一昨年9月、古い16ミリフィルムが2本見つかった。未公開の2階理科準備室にある棚の引き出しの中からだ。巻かれた状態で缶に入っていた。フィルム同士がくっつき、触ると砕けそうだった。 業者が昨年2月、デジタル版に復元すると、約80年前の同小落成式の様子がサイレントで映し出された。白髪の男性が階段を上がり、壇上で感謝状を受ける後ろ姿。「おお、映っている!」。町産業振興課の清水純一郎課長補佐(44)は声を上げた。校舎を設計した米国出身の建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)だった。わずか12秒の登場だが、「動くヴォーリズ」は町にとって大発見となった。 この記事は有料記事です。 残り1293文字(全文1594文字)
□東大名誉教授・比較文化史家 平川祐弘 佐伯氏には都雅の趣があった。飛び級で旧制富山高校へ進んだ氏は小林秀雄など名士が地方へ講演に来ると、宿まで押し掛け話を拝聴、言われた通り大作家の全集を端から端まで読み通した。今でも若者の最上の教育は漱石や鴎外の全集を読み通すことだろう。氏がエリート・コースを駆け上がったのは父が東大出という地方の名家に生まれたこともあるが、生家が立山の神職であることも大きな要因だった。 少年はその雪深い、結核の多い、旧弊な環境に反発して育った。脱出したくてたまらない。富山高校は創立以来英語教育にすぐれ、青年は英語をよく勉強した。西洋はその脱出先であり語学はその道具だった。だから昭和16年という時世に氏はいとも自然に東大英文科を志望し、米国作家メルヴィルで論文を書き、18年に繰り上げ卒業、海軍士官となり、経理学校で終戦まで教えた。
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