タグ

ブックマーク / d.hatena.ne.jp/matsuiism (4)

  • ドイツの脱原発事情 - heuristic ways

    熊谷徹氏は、『脱原発を決めたドイツの挑戦――再生可能エネルギー大国への道』の「まえがき」で、「ドイツ政府は、福島事故をきっかけに脱原子力計画を加速し、二〇二二年一二月三一日までに原発を全廃することを決めた」が、日のマスメディアは、「原発全廃が、ドイツで進んでいるエネルギー革命の一部にすぎないことについては、ほとんど伝えていない」と言っている。 ドイツのエネルギー革命(Energiewende、エネルギー・ヴェンデ)とは、「二〇五〇年までに発電量の八〇%を再生可能エネルギーでまかなうという、野心的なプロジェクト」のことである。  ドイツではなぜ脱原子力政策の決定が可能だったのか。著者は、「緑の党がこの国に存在しなかったら、脱原子力政策が法制化されることはなかった」、「さらに、一九九八年に緑の党が初めて連立政権の一党として連邦政府に加わった瞬間に、この国で原子力時代が終わる運命が決まった」と

  • レヴィ=ストロースと政治 - heuristic ways

    今年の11月にレヴィ=ストロース氏の訃報が新聞各紙で報じられたとき、不思議だったのは、「レビストロース」という表記が多かったこと。『生のものと火にかけたもの』に引っかけて言えば、あたかもそれは、「レヴィ=ストロース」という生のもの(表記)を、日語という火にかけて、「レビストロース」という料理にした、とでもいうような感じだった。 私は『悲しき南回帰線』(『悲しき熱帯』)を断片的に読んだくらいで、特に何の感慨もなかったのだが、以前、渡辺公三『レヴィ=ストロース――構造』(現代思想の冒険者たち、1996年)を読んだとき、レヴィ=ストロース氏が若い頃にマルクス主義に親しんでいたことや、南北アメリカの先住民の神話の問題に取り組んでいたことを知り、そのあたりのことが引っかかっていた。  先日書店に行ったとき、渡辺公三『闘うレヴィ=ストロース』(平凡社新書、2009年)というが出ていたので、興味

  • 歴史を学ぶこと - heuristic ways

    歴史を学ぶということは、自分がつねにすでに先行する「他者の物語」に巻き込まれ、その中で「文脈規定」されていること、そこでの争いや自覚の中から「自己の物語」が立ち現われてくることを知るということだと思う。そして「他者の物語」もまた、決して「始まり」ではなく、その他者がつねにすでに巻き込まれている物語への応答や抵抗として形成されたものだということを知る必要がある。 柄谷行人「「恐怖」という場所」(坂上弘『ある秋の出来事』旺文社文庫・解説、1974年)より たとえば、われわれが父を憎み争うとする。しかし、われわれが争っているのは、「父と子」という寓話においてであって、父とよばれているもう一人の他者と愛し合ったり憎み合っているのではない。むしろわれわれはその他者を知ることもできないし、まして愛することはできない。それは互いに隔絶した個と個の間柄である。もしそのことを知ってしまえば、「父と子」の争い

  • ウェストファリア体制について - heuristic ways

    先日、図書館でポール・ハースト『戦争と権力――国家、軍事紛争と国際システム』(2009年、原著2001年)というを見かけ、パラパラとめくったところ、第2章で「ウェストファリア体制期における国際システム」について論じられていて、興味を引かれた。*1 以前、テッサ・モーリス=スズキとセイラ・ベンハビブ両氏がともにウェストファリア条約と近代国家主権の問題に言及していたのを思い出したのである。*2  ポール・ハースト氏のを読んで初めて知ったのは、「一六四八年に三十年戦争を終結させたウェストファリア条約」とは、いわば宗教戦争の終わりを告げ、国際システムとしてヨーロッパ世界の構造化・安定化を図るものだったということ。 (ヨーロッパの)すべての大国は、一六世紀と一七世紀初期にくりかえし権威の危機に直面した。宗教紛争はイデオロギー的に社会を分断した。カトリックとプロテスタントは、その政治的枠組みを引き

  • 1