東京の多摩地域の地図を見ると、JR中央線は東中野駅から立川駅まで、東から西へ一直線に線路が延びる。 その距離約25キロ・メートル。なぜ、このように真っすぐな鉄道が敷かれたのか。中央線の前身、多摩地域最初の鉄道・甲武鉄道の時代まで遡って調べてみた。 ◆建設計画 江戸時代まで多摩地域の大動脈は五街道の一つ甲州街道や、青梅街道だった。甲州街道沿いには調布、府中、日野、八王子などの宿場町がにぎわいを見せた。西部の八王子、五日市、青梅などは、山梨、奥多摩方面との交通上の要地で、農・林産物、生糸、織物などの集散地になっていた。 明治時代に入ると、セメントなどの原料となる青梅の石灰石が重要になり、新たな輸送手段が検討された。「日本国有鉄道百年史」によると、1883年頃、東京付近の有力者が玉川上水の堤防を利用し、新宿から羽村まで馬車鉄道の建設を東京府に請願したが、許可されなかった。 その後、元神奈川県知事