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ブックマーク / katsuomi1974.wixsite.com (5)

  • 義認・聖化・栄化を再考する ➖ロマ書8章を中心に➖

    義認・聖化・栄化という神学用語は、キリスト教の救いを過去、現在、未来という時間軸で表すときに使われる言葉です。エッセイでは、ロマ書8章を中心に「世界の相続人」と「神の像」という言葉に注目しつつ、義認・聖化・栄化という用語を捉え直してみたいと思います。

    義認・聖化・栄化を再考する ➖ロマ書8章を中心に➖
  • アブラハムへ語られた祝福の約束

    創世紀12章1-3節に記されているアブラハムへの約束は旧約聖書だけではなく、新約聖書までも貫いていて、聖書の中心的な約束の一つと言えるでしょう。その箇所ではまず、アブラハムの子孫が祝福され、次にその子孫によって地の全ての部族が祝福されると記されています。では、それはどのような意味なのでしょう。それを知るためには、創世紀12章以前に出てくる祝福(brk、brkh)という言葉を見なければなりません。

    アブラハムへ語られた祝福の約束
    umiusi45
    umiusi45 2024/01/25
    神がアブラハム、イスラエル、そして全人類に与えた祝福について
  • 神の像

    創世記1章にある「神の像(かたち)」という言葉は、伝統的には、人が神に似た「尊い存在」であることを意味する、と考えられてきました。しかし、19世紀末に、新しい理解が加わりました。それは、「世界を治める務め」が人に託されている、という見方です。この理解は、近年旧約聖書学が明らかにしたことと響き合っています。それを説明するために、4千年以上前の世界に戻りましょう。 メソポタミアの前3千年紀、つまり、前3千年から前2千年までの千年間ですが、その後半は、都市国家が繁栄した時代です。そこのラガシュという都市は、グデア王によって栄え、アブラハムの出身地ウルが覇権を握るまで、南メソポタミアの中核的な都市でした。古代メソポタミアでは、多数出土したグデア王の像のように、王たちは自分の像、「王の像」を作って、自ら治める町々の神殿に置き、その地域が誰の支配下にあるのかを知らしめました[1]。

    神の像
    umiusi45
    umiusi45 2024/01/20
    この箇所を読んだ古代オリエントの人々は驚いたことでしょう。「王だけを指す言葉が全人類に使われているのか」という驚きです。そして、人類全体が地上の王として造られたので
  • 「天から来て、天に帰る」のルーツ

    はじめに 聖書は、「人は地上で造られ、永遠に地を治める」という歴史を語ります。また、神が造られた肉体と世界を基的に良いものと見ています(簡単な要約は「福音の深さ、広さを(3)」、より詳しくは、拙論『包括的福音理解を求めて』以下『包括的』参照)。 では、「人は天から来て、天に帰る。肉体と世は卑しむべきもの」という教えはどこから来たのでしょう? このルーツを探る旅は、紀元前5世紀のギリシアから始まります。 (引用元や正確な引用文は、『包括的』を参照してください。) 1. ソクラテスとプラトン 紀元前5世紀末に生きたギリシアの哲学者ソクラテス、そして、その弟子のプラトンは、次のように考えていました。 ソクラテス プラトン 人は理性的な魂であり、天上で神によって造られた。ところがその魂は、地に落とされ、現在は、汚れた肉体の中に囚われ、下等な物質世界に置かれている。そこで、死後、肉体と世を逃れて天

    「天から来て、天に帰る」のルーツ
  • 至福直観?

    (ダンテの「神曲、天国編」につけたギュスターヴ・ドレの挿絵「チェレステの薔薇」) 初めに プラトンは、「人は死後に天に上り神と一体となる。それこそ人の最高の幸福でありまた最終目的である」という思想を語りました。その流れを汲む紀元3世紀のプロティノスは、「神の直観(直視)と神との合一」を最高の目標にあげています。その影響を強く受けたアウグスティヌスは、新天新地の完成に触れながらも、最終的には「人は神だけを見つめ、神が全てとなる」と述べて、新天新地は実質的にアウグスティヌスの意識から薄れていきました。その後、この神秘主義的思想は「至福直観」と呼ばれるようになります(歴史的経緯に関しては、エッセイ「『天から来て天に帰る』のルーツ」参照)。 アウグスティヌスがその思想を聖書から裏付けるために使用した聖書箇所が、「顔と顔を合わせて見る」(1コリ13:12)、そして「神が、すべてにおいてすべてとなられ

    至福直観?
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