タグ

logicに関するusadamasaのブックマーク (11)

  • 論理的言明を装った感情論は嫌い、という感情論 - 檜山正幸のキマイラ飼育記 (はてなBlog)

    ちょっと時間がたってしまったネタですが: プログラミングの出来る人と出来ない人の決定的な違い。 「プログラミングの出来る人と出来ない人の決定的な違い」? ワンヤグさんの「プログラミングの出来る人と出来ない人の決定的な違い。」は、たくさんのブックマークを集めた記事。それに対して、id:JavaBlackさんが随分と否定的な記事を書き、さらにワンヤグさんが当該記事への追記として反論(らしきこと)を書いています。内容的に、ドチラかが全面的に正しいとは思えないし、ドチラかに味方する気もありません。 ですが、僕のセンサー(どんなセンサーかは最後に述べます)が反応したので、思うところを書いておきます。 時間順が前後しますが、まずはJavaBlackさんの記事のほうから。僕は、元記事「プログラミングの出来る人と出来ない人の決定的な違い。」を読む前に、JavaBlackさんの記事のほうを先に読んだのです。

    論理的言明を装った感情論は嫌い、という感情論 - 檜山正幸のキマイラ飼育記 (はてなBlog)
    usadamasa
    usadamasa 2010/12/21
    "しかし、なまじ論理的であるかのごとく装っていると、その論理のほころびや破綻に眼がいってしまって、僕は単に「論理的にダメな議論」と判断します。"
  • 「理系と文系」より「帰納と演繹」 - カタチづくり

    ネットでは定期的に「理系と文系」ネタが盛り上がるようだ。「理系はコミュニケーションができん」「文系は論理的な思考ができない」「それはレッテル貼りだ」の3行が毎回無限ループする。もちろん文系の学問に論理的思考が不要であるとは到底思えないわけで、むしろ着眼点として面白そうなのは、論理的思考に対するアプローチの違いだと思う。思考法には演繹法と帰納法があって、この思考法で分類してみるほうが理系/文系の分類よりも面白そうに僕には思える。そして「文化」の衝突も理系/文系と同じくらい、帰納派と演繹派の間で起こっているような気がする。 ここで急に話は飛ぶのだけれど。 前職の後輩で、保険会社から転職してきた人がいた。社内では変わった経歴の持ち主だった。その彼に「保険会社ではどんな仕事をしてたの?」と聞いたことがある。 なにやら彼は保険商品のリスク計算のようなことをしていたようだ。と云われても僕には具体的なイ

    「理系と文系」より「帰納と演繹」 - カタチづくり
    usadamasa
    usadamasa 2010/06/28
    [for:@twitter]かしそのアプローチではプロジェクトが早晩破綻する。効率よくバグのないソフトウェアを開発するためにはコードをキレイに保つ必要があり、コードがキレイであるということの評価軸の一つは、演繹的な論理
  • 論理学は思考の「高地」トレーニング」である/ロジック・アズ・ブロックバスター

    論理学の良いところは、トレーニングの効果が絶大なところだ。 たとえれば、論理学は一種の「高地」トレーニングなので苦しいが、これによって思考の「心肺機能」がアップする。 思考が「息切れ」しにくくなる。そして「登坂力」が増す。 微細な違いに気付く力や、筋が混み入った話への感受性も高まる。 学術書の類や、日語とは思えない悪文を読むのに、きつい坂道を上るような苦しさを感じている人は、最もその効果を実感できるだろう。 しかし論理学を学ぶ人はあまり多くない。 独習は不可能ではない。 というより、自分で問題を解かないことにはどうにもならないので、習うにしろ、自分一人で取り組まなくてはならない時間が多い。 科学哲学者の内井惣七氏は、論理学の学習について、次のように言っている。 ・問題を山のように解かないと、論理学が身に付くはずがない。ぼーっと、を眺めてマスターできるのは、フォン・ノイマンみたいな悪魔だ

    論理学は思考の「高地」トレーニング」である/ロジック・アズ・ブロックバスター
    usadamasa
    usadamasa 2010/04/12
    [for:@twitter]「1問解くのに丸1日かかった」としても、途中で投げ出したとしても、不思議ではない。そういうものだ。ちゃんと取り組んでいる証拠だから、まちがっても「自分の頭が悪い」などとは思わないように。その
  • 「合理的な豚」を説明してみる - H-Yamaguchi.net

    知っている人は知っているだろうが、ゲーム理論に「合理的な豚」というモデルがある。McMillanの「Games, Strategies and Managers」というに出てくるもの。これを人に説明するための練習をここでやってみる。知ってるぞという方は、おかしな説明があったらご指摘いただければ。知らないぞという方は、これを読んでわかるかどうか試していただければ。わからない人に説明してわからせるのが目的なので、これを読んでわからなければ、私の「負け」ということ。 「合理的な豚」は、簡単にいえば2頭の豚がエサを争う競争ゲームだ。得をするためにどういう戦略をとればいいかが問題になる。 まずは以下の図をご覧いただきたい。別のところで使ったものの使い回しなので「見たことあるぞ」という方もいるかもしれないが。 まずはスライドの下にある豚の絵の説明。大きな檻の中に、大きい豚と小さい豚の2頭がいるとする

    「合理的な豚」を説明してみる - H-Yamaguchi.net
    usadamasa
    usadamasa 2006/01/09
    「合理的な豚」は、簡単にいえば2頭の豚がエサを争う競争ゲームだ。得をするためにどういう戦略をとればいいかが問題になる。
  • Amazon.co.jp: 論理哲学論考 (岩波文庫 青 689-1): ウィトゲンシュタイン (著), 野矢茂樹 (翻訳): 本

    Amazon.co.jp: 論理哲学論考 (岩波文庫 青 689-1): ウィトゲンシュタイン (著), 野矢茂樹 (翻訳): 本
  • 感覚的な言葉こそ論理的に使え - @IT自分戦略研究所

    コミュニケーションスキルの土台となる図解言語。だが筆者によると、実はその裏に隠れた読解力、国語力こそがITエンジニアにとって重要なのだという。ITエンジニアに必須の国語力とはどのようなものだろうか。それを身に付けるにはどうしたらいいのか。毎回、ITエンジニアに身近な例を挙げて解説する。 「論理思考」がもてはやされる今日このごろだが、論理をきちんと伝えるためには非論理的ないい回しも欠かせないということを知っておこう。論理的な表現は、人の感覚で裏打ちされない限り使い物にならないのだ。 ■論理的表現に必要なもの 先日私はある会社で研修を行ってきた。そのテーマは「論理的に考え、分かりやすく伝える力を身に付ける」というものだった。「論理的」という言葉が入っていることに注目してほしい。「論理的に考える能力・話す能力」はここ数年のビジネス教育における人気のテーマなのである。 実際、論理的な思考力や表現力

  • ウェブリブログ:サービスは終了しました。

    「ウェブリブログ」は 2023年1月31日 をもちましてサービス提供を終了いたしました。 2004年3月のサービス開始より19年近くもの間、沢山の皆さまにご愛用いただきましたことを心よりお礼申し上げます。今後とも、BIGLOBEをご愛顧賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。 ※引っ越し先ブログへのリダイレクトサービスは2024年1月31日で終了いたしました。 BIGLOBEのサービス一覧

  • 難しい内容の理解や哲学と、論理的思考との関係

    難しい内容を理解しているとは、どのような状態を指すのであろうか。また、理解と論理的思考とは、どのような関係があるのだろうか。対象を“難しい内容”に限って、世の中の人々の様子まで含めて考察したら、かなり面白い結果が得られた。大事な点だけ紹介しよう。また、難しい内容の理解に深く関係している哲学も、一緒に取り上げる。 理解の度合いの軸は2つある まず最初に、理解に関する状態を一般的な言葉で表してみよう。単純に考えれば、「理解していない」と「理解している」の2つの状態がある。しかし、「理解していない」から「理解している」へと一気に移行するわけではない。だんだんと理解が進み、ある時点で「理解している」状態へと達する。その途中に、アナログ的な段階があるわけだ。どのような途中状態があるかは、理解する対象によって異なるため、途中の状態が無段階にあるとしておく。この軸は理解の度合いなので、略して「理解度」と

  • 「反論」を怖がる僕たちよ、ひとの「感じたこと」を肯定しよう

    感じることは自由に決まっているじゃないか。 ひとの感じたことに反論するばかやろうども、 それが「反論」を殺すのだ。 「反論」が怖い僕たちよ、ひとの感じたことを肯定しよう。 そして、ひとの考えたことへ「反論」する。 けれど僕が好きなのは……。 感じることは自由に決まっているじゃないか。 なかなか満足できる文章を書けない。なぜかと考えると、考えるからだろうと考える。書きたい内容の組み立てを工夫して、論理的におかしいなという点を埋めて、何度も推敲する。改善を試みるから、悪いところにも気づくのだ。一方、ほわほわと感じていることを、ほわほわと書きつづった文章にはあまり不満がない。だれも僕の感じたことにケチをつける道理はない! そう感じているからだ。 「それおかしいよ」といわれると、顔が赤くなるときもあれば、納得し感心することもある。どういうときに赤くなるかというと、僕の感じたことに「おかしいよ」とい

    「反論」を怖がる僕たちよ、ひとの「感じたこと」を肯定しよう
  • ネタについて

    まず、イイワケから書く。 来、この文章は四年前に書かれるべきものだった。 四年ほど前から、私は――たぶん脳内からだと思うんだけれど――この文章を書くようにうながされていた。 何度も何度もこのテーマを思い出させられ、 文章の順序、構成を夢想させられてきた。 文章をエディタで入力する前は、私は文章の全貌がどうなるかさっぱりわからなかった。 でも、さまざまな都合により、入力する時間がとれず、 ついつい先延ばしになってきたのだ。 きっと誰か――私の知らない誰か――に向けてこの文章は書かれているのだと思う。 この文章はネタについて書かれていて、 例によって、どうでもよくて中二病風の文章です。 けれども私は、この文章を特定の人に向けて書いているわけではない。 この文章を読んで「otsuneさんは私にあてこすりをしているのだ」と思わないでください。 私はこの文章をただネタとして書いている。 というか、

  • 不倒城: 言動の変化はダメなのか、という話。

    なんだか腑に落ちない。 まず、事の始まりは「むだづかいにっき」のえっけんさんのエントリーである。 「ブログは記事単位で読まれるもの」だからして、その記事内において発言内容が変わるのであれば、確かにこれはちょっと問題でしょう。しかし過去ログでの発言とのい違いがある可能性はあります。それは否定しません。その時に考えた事と、現在の発言内容にい違いがあることは、別に恥ずかしい事とは思いませんが。 話を整理しよう。上記のエントリーの具体的内容に関しては、よそ様のブログの事件なので細かい踏み込みを避ける。ただ、基的には ・以前書いたこととくい違うことを書いている、ということに関する批判 という様なコメントとそれに伴う議論があったんだと考えていいだろう。 むだづかいにっき様のコメント欄にも書いたが、何故かネットでは物凄い精度で「思考の一貫性」が求められる様に思う。2ちゃんねるの様な批判のライブラリ

  • 1