自分にとって他人は日常を彩る「コンテンツ」のひとつにすぎないと考える。 ・荻野はコンテンツとしてとても面白かった - phaのニート日記 ・電車の中で通話していたら切れられて強制下車させられたのを見た 両リンク先に共通して感じるのは、他者に対する独特の距離感だ。その気分を今風に表現したのが「コンテンツとして消費する」という言葉なんだと思う。もちろん、自分にとって世界のすべては脳が処理した情報にすぎないという考え方はまったく特別なものではない。その意味では自分が認識する世界そのものが膨大なコンテンツの集積だということになる。そうした考え方は、今となっては、ひどく古典的で素朴な世界解釈のひとつにすぎない。特筆すべきものでもないだろう。けれども、リンク先の「コンテンツ」という表現は、そこまで観念的な世界観の表明ではないように思える。 たとえば親が死んだとき、「コンテンツとして有用だった」といって