タグ

公害とmediaに関するwhaleboneのブックマーク (2)

  • 水俣病の「空白の8年」 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    【3】幕引き「空白の8年」に陥る 「これで水俣の海はきれいになる」。誰もがチッソのその言葉を信じた。 水俣病の原因に排水を疑われたチッソ水俣工場は、一九五九年十二月、「サイクレーター」を工場内に設置した。汚水から水銀を除去する浄化装置、との触れ込みだった。完成時には、チッソの社長自らがこの装置を通したという水を飲むパフォーマンスまで演じる。実は、装置にそんな機能は全くなかった。 一気に幕引きを図るかのように、サイクレーターを設置した同じ十二月、チッソは熊県の漁連と補償協定を、患者団体とは「見舞金契約」と相次いで交わした。 サイクレーターは言うに及ばず、「見舞金契約」も、後に熊地裁判決が「公序良俗に反する」と断罪するほど、被害者の不満をかわすためだけの内容。抜救済策と言えるものではなかった。 だが、報道上、水俣病は「終息」する。暮れの新聞各紙には「円満解決」「報われた患者の努力」の文字

    水俣病の「空白の8年」 - 誰かの妄想・はてなブログ版
    whalebone
    whalebone 2014/05/18
    『1959年から1968年まで水俣病報道が沈黙した』/isbn:4816707115/http://kurigeo.sakura.ne.jp/archives/2014/04/1-1.html
  • 水俣病 - Wikipedia

    水俣病(みなまたびょう)とは、熊県水俣湾周辺の化学工場などから海や河川に排出されたメチル水銀化合物(有機水銀)により汚染された海産物を住民が長期にわたり日常的にべたことで水銀中毒が集団発生した公害病である[1][2]。 第二次世界大戦後の日における高度経済成長期の負の側面である四大公害病の一つである。「公害の原点」ともいわれ[3][4]、工業災害における犠牲者の多さでも知られる[注 1]。また、水俣病と全く同じ原因そして同じ症状の患者が新潟県阿賀野川下流域で集団発生した(第二水俣病)[1]。有機水銀病とも言われる[5]。 1956年(昭和31年)5月1日、熊県水俣市の新日窒素肥料(現・チッソ)水俣工場附属病院長の細川一が水俣保健所に患者の発生を報告し、公式に確認された[6][7]。1958年(昭和33年)頃から「水俣病」の名称が使われ始め[8][9]、1968年(昭和43年)9月

    水俣病 - Wikipedia
  • 1