李 賀(り が、791年(貞元7年) - 817年(元和12年))は、中国・唐代中期の詩人。字は長吉。官職名から李奉礼、出身地から李昌谷とも呼ばれる。河南府福昌県昌谷(現:河南省洛陽市宜陽県三郷鎮[1])の人。その詩は伝統にとらわれず、はなはだ幻想的で、鬼才と評された。 李賀・『晩笑堂竹荘畫傳』より 李晋粛の長男として生まれる。その祖は唐の高祖李淵の叔父の鄭孝王李亮であるという。その長男の淮安靖王李寿(字は神通)、さらにその十一男の呉国公・益州大都督李孝逸から3代あとの子孫が李晋粛であるという。李賀はその出自を大いに誇り、出身地を唐帝室と同じく隴西郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)と称していたものの、李賀の生まれたころには中産階級に没落していた。父の李晋粛はまた杜甫の親族で、陝県県令など地方官をもっぱらとする中堅官僚だった。陝県は洛陽と長安の両都を結ぶ途上に位置する要地で、帝室の血を引く