緒言 今からもう十余年も前のことである。私はだれかの物理学史を読んでいるうちに、耶蘇紀元(やそきげん)前一世紀のころローマの詩人哲学者ルクレチウス(紀元前九八―五四)が、暗室にさし入る日光の中に舞踊する微塵(みじん)の混乱状態を例示して物質元子(1)[#「(1)」は注釈番号]の無秩序運動を説明したという記事に逢着(ほうちゃく)して驚嘆の念に打たれたことがあった。実に天下に新しき何物もないという諺(ことわざ)を思い出すと同時に、また地上には古い何物もないということを痛切に感じさせられたのであった。 その後に私は友人安倍能成(あべよししげ)君の「西洋哲学史」を読んで、ロイキッポス、デモクリトス、エピクロスを経てルクレチウスに伝わった元子論の梗概(こうがい)や、その説の哲学的の意義、他学派に対する関係等について多少の概念を得る事ができた、と同時にこの元子説に対する科学者としての強い興味を刺激され