「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。 「同時二十六日昼、四半よつはん時頃、荏原郡目黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕の者七十余人といふ」 江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(1863年)9月の項の一節である。ペリーをはじめ諸外国船の来航、尊王攘夷勢力の過激な反幕運動など、幕末の深刻な政情不安は、江戸近郊の平和な農村だった目黒にも及んできた。幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆発の記録にも、その様子がうかがわれる。 幕末に設立 安政4年(1857年)、幕府は、軍事上の必要から三田村の新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐら)(火薬庫)を移転し、さらに中目黒村内の三田用
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